人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

逸見猶吉「ウルトラマリン」(同人誌「學校詩集」昭和4年=1929年より)

(逸見猶吉<明治40年=1907年生~昭和24年=1949年没>)
f:id:hawkrose:20200427160459j:plain

「報告」  逸見猶吉

(ウルトラマリン第一)

ソノ時オレハ歩イテヰタ ソノ時
外套ハ枝ニ吊ラレテアツタカ 白樺ノヂツニ白イ
レダケガケワシイ 冬ノマン中デ 野ツ原デ
ソレガ如何シタ ソレデ如何シタトオレハ吠エタ
 《血ヲナガス北方 ココイラ グングン 密度ノ深クナル
 北方 ドコカラモ離レテ 荒涼タル ウルトラマリンノ底ノ方ヘ----》
暗クナリ暗クナツテ 黒イ頭巾カラ 舌ヲダシテ
ヤタラ 羽搏イテヰル不明ノ顔々 ソレハ目ニ見エナイ狂気カラ轉落スル 鴉ト時間ト アトハ
サガレンノ青褪メタ肋骨ト ソノ時 オレハヒドク
凶ヤナ笑ヒデアツタラウ ソシテ 泥炭デアルカ
馬デアルカ 地面ニ掘ツクリ返サレルモノハ 君モシル ワヅカニ一点ノ黒イモノダ
風ニハ沿海州ノ錆ビ蝕サル気配ガツヨク浸ミコンデ 野ツ原ノ涯ハ監獄ダ 歪ンダ屋根ノ 下ハ重ク 鐵柵ノ海ニホトンド何モ見エナイ
絡ンデル薪ノヤウナ手ト サラニソノ下ノ顔ト 大キナ苦痛ノ割レ目デアツタ
苦痛ニヤラレ ヤガテ霙トナル冷タイ風ニ晒サレテ
アラユル地點カラ標的ニサレタオレダ
アノ強暴ナ羽搏キ ソレガ最後ノ幻覺デアツタラウカ
彈創ハスデニ彈創トシテ生キテユクノカ
オレノ肉體ヲ塗抹スル ソレガ悪徳ノ展望デアツタカ
アア 夢ノイツサイノ後退スル中ニ トホク烽火ノアガル 嬰児ノ天ニアガル
タダヨフ無限ノ反抗ノ中ニ
ソノ時オレハ歩イテヰタ
ソノ時オレハ齒ヲ剥キダシテヰタ
愛情ニカカルコトナク 彌漫スル怖ロシイ痴呆ノ底ニ オレノヤリキレナイ
イツサイノ中ニ オレハ見タ
悪シキ感傷トレイタン無頼ノ生活ヲ
アゴヲシヤクルヒトリノ囚人 ソノオレヲ視ル嗤ヒヲ スベテ痩セタ肉體ノ影ニ潜ンデルモノ
ツネニサビシイ悪ノ起源ニホカナラヌソレラヲ
 《ドコカラモ離レテ荒涼タル北方ノ顔々 ウルトラマリンノスルドイ目付
 ウルトラマリンノ底ノ方ヘ――――》
イカナル眞理モ 風物モ ソノ他ナニガ近寄ルモノゾ
今トナツテ オレハ堕チユク海ノ動静ヲ知ルノダ

(昭和4年=1929年10月「學校」/昭和15年=1940年7月『現代詩人集3』内『ウルトラマリン』収録)

「兇牙利的」  逸見猶吉

(ウルトラマリン第二)

レイタンナ風ガ渡リ
ミダレタ髪毛ニ苦シク眠ル人ガアリ
シバラク太陽ヲ見ナイ
何處カノ隅デ饒舌ルノハ氣配ダケカ
毀ワレタ椅子ヲタタイテ
オレノ充血シタ眼ニイツタイ何ガ残ル
サビシクハナイカ君 君モオレヲ對手ニシナイ
窓カラ見ル野末ニ喚イテル人ガアリ
ソノ人ハ顔ダケニナツテ生キテユキ ハツハ
オレハ不逞々々シクヨゴレタ外套ヲ着テル
醉フタメニ何ガ在ル
暴力ガ在ル 冬ガ在ル 売淫ガ在ル
ミンナ悪シキ絶望ヲ投ゲルモノニ限リ
悪シク呼ビカケルモノニ限リ
アア レイタンナ風ガ渡リ
オレノ肉體ハイマ非常ニ決闘ヲ映シテヰル

(昭和4年=1929年12月「學校詩集」)

「死ト現象」  逸見猶吉

(ウルトラマリン第三)

雲母(キララ)ノ下ノ天末線(スカイライン)
曝サレテヰル骨ノ自暴
ソコニ死ノヤウナモノガアル
ヤミガタイ息ヅマル堅勒ノ胸盤ガアル
 《硝子ノ翼・硝子ノ血 コノ感情ニナダレコム冬》
透明ノ底ニ擴ガルモノ 滲ミ入ルモノ
機械ノ一點ニ恒ニレイゼント狙ハレテアルモノ
アア世界ヲ充顛スル非情ノ眼ヨ
君ハ見ルカ 君自身ノ狂愚ヲ蹴落スコトガ出來ルカ
君ノ内部ニ氾濫スルマラリアノ愛 ソレスラモナホ季節ハ残シテユク
ウルトラマリンノ風ガ堕チ
ウルトラマリンノ激シイ熱ノ勃ルトコロ
ヤガテハ燃焼スル
彼處荒茫タル風物ノ奥デ ソノスルドキ怒リニ倒レテアルモノハ何カ
俺ハ感ジル 石炭ノヤウニツライ純潔ヲ ソノ火力ヲ
俺ハ知ル 海豹ノヤウニ齒向フ方角ヲ ソシテ今
冬ハアレラ傷メル河河ニ額ヲヌラシテヰルノダ
北地ノバリバリシタ氣圏ノナカ ソノキビシイ肩ヲスベリ
際涯トホク沈ム汽車ノ隅カラ俺ハ遙ルカナ雲ヲ測ロウ
 ★
凄イ暴力ハナイカ
自分ヲ視ルコノ瞬間ハ恐ロシイ
ソレハ苦痛ヨリモ絶體デアル 風ニ靡ヒテ何處ヘ往ク
原因ノアル處ニ生キテ逆轉セザル妄想ヲ深メテ生ノ荒々シイ殺倒ノ底
 ★
タトエナキ抛物線ノ挺轉 流レ去ル粗悪ノ地理・停車場
コノ重々シイ空間ニ懸垂スルモノ 充血スル顔ヨ
ナントイフ極度ノ貧困デアラウカ
傾ムク黒イ汽車ノ一隅 ソコニハナンノ夢モナイノダ
俺ハ君ヘ語リカケ 君ハ横ヲ見テ微笑スルバカリデアラウカ
十二月・雲母(キララ)ノ下ノ天末線(スカイライン)鐵ノヤウニソレハ
背ヲ向ケル無表情 天來ノ酷薄

(昭和4年=1929年12月「學校詩集」/昭和15年=1940年7月『現代詩人集3』内『ウルトラマリン』収録)


 逸見猶吉(明治40年=1907年生~昭和24年=1949年没)の生前に自選詩集としてまとめられたのは合同詩集「現代詩人集3』(昭和15年=1940年7月・山雅房)収録の小詩集『ウルトラマリン』18編だけで、序文に「満州國に移り住んで四年、この間のものは全くこの集にいれなかつた。深い理由はない。仮に『ウルトラマリン』と題したのも、以前詩集を出さうと考へた時この言葉を思ひついたからで、今になれば一寸した愛情である」と書かれています。同書は岡崎清一郎、菱山修三、藤原定、菊岡久利、草野心平ら同人詩誌「歴程」の詩人たちの合同作品集でした。逸見は昭和10年草野心平と「學校」「銅鑼」らの同人誌を統合した同人詩誌「歴程」の創刊メンバーで、草野心平が引き継ぐ昭和12年までは逸見猶吉が「歴程」の編集発行人だったのです。昭和10年は逸見猶吉は戦時下の満州で物資配給の官吏職に就いた年で、草野に編集発行人を譲ったのも満州現地の職務の多忙からでした。「歴程」に至るまでに「學校」「銅鑼」の同人として高村光太郎金子光晴、吉田一穂、高橋新吉、尾形龜之助、伊藤信吉、中原中也山之口獏らと交流があり「歴程」は彼らが一堂に会し、「歴程」創刊時には逝去していましたが「學校」「銅鑼」時代の宮澤賢治八木重吉らも遺族から未発表遺稿を託されて歿後同人としていました。「歴程」は高村光太郎宮澤賢治高橋新吉を師表にしていましたが基本的には一人一派の流儀で、逸見猶吉は中原中也と同年生まれですが、中原のように高橋新吉宮澤賢治への傾倒よりも萩原朔太郎を尊敬していたといいます。

 昭和4年10月草野心平編集「學校」掲載の「報告(ウルトラマリン第一)」、またすぐ12月の伊藤信吉編集『學校詩集』に一挙掲載された「報告(ウルトラマリン第一)」「兇牙利的(ウルトラマリン第二)」「死ト現象(ウルトラマリン第三)」の3編の発表は「學校」「銅鑼」周辺の詩人たちにとって事件でした。草野心平は「あの詩を読んだ時私は寒気がした。私は感動で震えた。その当時、あれ程私を驚かした詩といふものは他になかつた」と昭和23年(1948年)7月の「歴程」逸見猶吉追悼号のエッセイ「生き返したい」で回想し、同じ号に戦時中の疎開以来岩手独居中の高村光太郎も「今座右に一篇の彼の詩もない。しかし曾てよんだ彼の詩のひびきはりんらんと耳朶をうつてやまない」と追悼文「逸見猶吉の死」を寄せています。高村も昭和4年に草野から逸見に引き合わされ、高村歿後の全集編纂時には敗戦後に「歴程」周辺の詩人たちに頻繁に消息の連絡を取りつつ、ことに満州の逸見猶吉の消息を心配する文面が多数の書簡に残されています。高村は同追悼文で「彼の詩は字面のどこにもなくて、しかも字面に充實して人を捉へる。その由来を究尽してゆくと何もないところへ出てしまふくせに、究尽の手の脈には感電のやうなシヨツクが止まない。詩の不可思議をまざまざと示すやうな彼の詩は、殆ど類を絶して、彼以後に彼の如き聲をきかない」と優れた理解を示しています。

 逸見猶吉には単行本未収録の少なくない散文もありました。宮澤賢治についてのエッセイもあり、昭和9年(1934年)5月の「三田文學」掲載の「修羅の人-宮澤賢治氏のこと-」がそれですが、数年前(昭和3年)の3月と同年秋に函館に遊興した、「(その時の心境は)酷かつた、まつたくあの頃もいまもなんといふ月竝みの酷さだ。醒めてることの稀ないまいましさ。その兩度の旅に、おもへば詩集『春と修羅』が鞄の底にたしか藏はれてゐたやうな氣がするのだ」「『春と修羅』の背後に立つて、或ひは考へ深さうな微笑を泛べてゐる宮澤賢治氏がはつきりと見えて、なにか注意を受けるやうな又冷淡につき離されさうな具合で、無頼な私の生活がなんとも堪らなくなつてきた」「だが「死ト現象」などに没頭してゐた私は、ああ、いいな「小岩井農場」「オホーツク挽歌」と思ひながらも、何故か茫漠とした虚しさにおそはれて、謀叛氣のやうなものを感じてしまふのだつた」と宮澤賢治の詩への距離感を語っています。宮澤賢治昭和8年9月に亡くなっているのでこれは追悼文として書かれたものですが、宮澤賢治の詩に一種の潔癖症的な教条性を感じているならば、人格的には面識から敬意を持っていても高村光太郎の詩にも同種の「謀叛氣」(反感)を感じていなかったとは限りません。

 逸見猶吉の評価を決定的にしたのは吉田一穂が昭和5年(1930年)3月の「詩と詩論」に書いた時評「詩集に関するノート」で、安西冬衛『軍艦茉莉』、北川冬彦『戦争』、春山行夫『植物の断面』に並べて『學校詩集』を採り上げた絶賛でした。『軍艦茉莉』『戦争』『植物の断面』は「詩と詩論」発行元の東京厚生閣のシリーズ「現代の芸術と批評叢書」からの刊行で「詩と詩論」同人による話題の新作でしたが、一穂は『學校詩集』に他の3冊を合わせた以上の分量を割き「私はこの中から初めての詩人・逸見猶吉の詩『ウルトラマリン』を声をあげて推讃する。その最も新しい尖鋭的な表現・強靭な意志の新しい戦慄美、彼は青天に齒を剥く雪原の狼であり、石と鐵の機械に擲彈して嘲ふ肉体であり、ウルトラマリンの虚無の眼と否定の舌、氷の齒をもつたテロリストである」と讃辞を送りました。「詩と詩論」は最も進んだ前衛エリート集団と見られていたので、外郭同人の吉田一穂が「詩と詩論」の中心メンバーたちの新作以上と評価した逸見猶吉は「學校」「銅鑼」周辺に止まらない最大の新人と注目されたのです。一穂は後輩詩人では多作な岡崎清一郎(1900-1986)、急逝(事故死)後に草野心平・逸見猶吉・宍戸儀一編で唯一の詩集『亜寒帯』昭和11年(1936年)がある石川善助(1901-1932)に慕われ、逸見猶吉も一穂の厳格な詩法には真剣に兄事しましたが(一穂詣では若い詩人たちの度胸試しで、中原中也が「(一穂が出してくれる)茶が苦くてなあ」とぼやいて誰もが苦笑していたそうです)、友人・宍戸儀一への書簡で一穂の新作詩編に触れ「近業『鴉を飼ふツアラトウストラ』を見れば、氏にとつて当然な道だとしてもニルヴアナ(解脱)に近い自覺が均整と數理美とを示してゐる。感嘆すべく醒めたる人の姿だ。だが己はむしろ、酩酊(數としての)なかに入るだらう。群のなかを堕ちてゆくだらう」と書き送っています(昭和7年=1932年5月17日付)。逸見は一穂が「詩と詩論」を離れ、対抗誌として主宰した「新詩論」(昭和7年=1932年10月~昭和8年=1933年10月、全3冊)にも参加しましたから一穂への敬意は変わらなかったでしょう。一穂ははるか後のエッセイで(「地獄の骰子」読売新聞・昭和42年=1967年9月6日)詩集の刊行ブームに触れて「マラルメも逸見猶吉も生前、一冊の集も持たなかつた。(中略)堕天使といはれたシェリーが地中海で溺死した時、あるサチリストが『奴の骨は地獄の骰子になつてゐるだらうよ』といつた。いや詩人とは自分の骨を削つた骰子で、一か八か、生涯を賭けて勝負するものである」「詩を書くことは本然の生を生きたことだ。その行為がそのまま報いであるのだ」と書いています。逸見が高村光太郎、、宮澤賢治よりも吉田一穂に親近感を抱いていたのは違いないと思われるゆえんです。

 日本による傀儡政権下の満州で配給管理に従事していた逸見猶吉こと本名・大野四郎は帰国もかなわないまま、敗戦から1年の昭和21年(1946年)5月、栄養失調による肺結核の悪化から病没します。夫人と小学生の女児の遺児も同地で病没し、男児3人は養家を得て帰国しましたがうち1児は児童のうちに事故死しました。逸見猶吉は既発表作品の手入れ原稿を詩集刊行を想定して友人に託しており、その半数が初の単行詩集として刊行されたのが『逸見猶吉詩集』(全38編/昭和23年=1948年6月・十字屋書店)です。草野心平の「覚え書」を付したこの詩集は少部数出版でしたが、初めての逸見猶吉の単行詩集として画期的な意義を持ちました。逸見猶吉の著作で惜しまれるのは、比較的早く十字屋書店版『逸見猶吉詩集』に恵まれた替わりに本格的な全詩集『定本逸見猶吉詩集』が遅れ、これにも収録洩れの詩や雑誌掲載型から大きく改稿された作品が多く、草野心平が「全集も何れは出る機會があるだらう」と期待したにも関わらず相当の分量のある散文(批評、エッセイ、書簡、雑篇)を集成した逸見猶吉全集はいまだに未刊です。十字屋書店は戦中(昭和14年/1939-昭和19年/1944)に、昭和10年(1935年)から文圃堂から刊行されながら中絶していた宮澤賢治の歿後全集を草野を中心とした歴程グループの尽力を得て完結させた実績があり、宮澤賢治を国民的童話作家・詩人にしたのはこの十字屋書店版全集です。また同書店は昭和22年(1947年)7月には初版以来30年以上経つ山村暮鳥詩集『聖三稜玻璃』を草野心平の再編集で復刻したばかりでした。敗戦直後の時勢では散文を含めた準全集の刊行は難しかったでしょう。現在でも逸見猶吉の散文は、研究書の主なものである菊池康雄『逸見猶吉ノオト』昭和42年(1967年)、森羅一『逸見猶吉の詩とエッセイと童話』昭和62年(1987年)、尾崎寿一郎『詩人 逸見猶吉』平成23年(2011年)に転載・引用されているもの以外には一般の読者には容易に読めません。逸見猶吉詩集も現在手軽に普及している版はありませんから、せめて全集ではなくても詩集と散文を合わせた選集くらいは望まれます。

 前述の通り十字屋書店版詩集と『定本逸見猶吉詩集』は前者が全38編、後者が40編増補・逸見自身による改稿を含む全78編と倍以上の増補がありますが、逸見唯一の生前の自選集である山雅房刊『現代詩人集3』昭和15年(1940年)収録の小詩集『ウルトラマリン』全18編に、同時期の未収録詩編と『ウルトラマリン』以後の時期からの増補20編から成る十字屋書店版『逸見猶吉詩集』で逸見作品の珠玉は尽くされているでしょう。この十字屋書店版『逸見猶吉詩集』はのち『全詩集大成・現代日本詩人全集12』(十字屋書店版『逸見猶吉詩集』全編再録・昭和29年=1954年4月・創元社刊)で比較的広く流布されることになりました。逸見生前の『現代詩人集3』収録の小詩集『ウルトラマリン』は昭和11年(1936年)頃までの作品集で、同年以降は逸見猶吉は満州駐在になり、『逸見猶吉詩集』は満州時代以降の作品は少数が厳選され補遺程度と言って良く(ただし厳選された分佳作揃いで、『定本』で読める遺漏詩編の大半は十字屋書店版未収録になったのも納得の凡作です)、逸見と同年生まれの中原中也(1907-1937)の生前刊行2詩集、逸見より1歳上で萩原朔太郎の激賞により世に出た伊東静雄(1906-1953)の最初の2詩集と『ウルトラマリン』は完全に同時代の作品ですが、中原中也のようにポピュラーな詩人にも伊東静雄のような玄人好みの詩人にも成り得ない激越な攻撃性、狂気、難解さは『ウルトラマリン』成立から80年を経た今日でも読者の安易な理解を拒んでいます。

 宮澤賢治山村暮鳥も難解な詩人ながら感覚的に馴れることはまだ可能ですが、逸見作品の宮澤や暮鳥とも異なる圧倒的な詩行の密度は取りつく隙を与えない硬質さを感じさせます。ここでは十字屋書店版『逸見猶吉詩集』の巻末の草野心平による「覺え書」を転載しておきます。友人の弁として情理兼ね備えた、貴重な一文であり無駄のない名文で、十字屋書店版詩集はこの跋文によって決定版選詩集の風格を備えたとも言えるほどです。

「覺え書」

 逸見猶吉詩集は彼の友人二、三によつて編纂されたものである。晩年、満州での作品の拾遺、また逸見以前の本名での同人誌二冊なども編纂後現はれたがそれらやまた數多くないエッセイなども網羅しての全集も何れは出る機會があるだらうと思ひ、この詩集には収録しなかつた。
逸見猶吉の大概は、一九二八年若冠二十歳、ウルトラマリンに始まり満州の地理を一聯に終るとみるのが至當であつて、だから本詩集は彼の作品の全貌ではなくとも全貌に近い。傑汁はすべて収められてゐると思ふ。
 彼の作品の一部は曾つて「現代詩人集」の第三巻に掲載されたが、獨立した詩集としてはこれが最初であり、ランボウの系譜が、異なつた資質に於て日本に出現したのもこの詩集が最初である。
 詩作二十年の結果のおほよそがこの一巻であることは彼の寡作を物語つてゐるが、ぎしぎし音たてる充溢とその氾濫は、比を逆にして獨自な天稟を雄辯に語つてゐる。
 わが国一流の詩人としての、あの特異な顔貌もすでにない。けれどもいまは一つの象徴として「牙のある肖像」が立つてゐる。
(一九四八・一・二〇 草野心平)

(旧稿を改題・手直ししました)