人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

エルモ・ホープ・トリオ Elmo Hope Trio - ラスト・セッションズ Last Sessions (Inner City, 1977)

エルモ・ホープ - ラスト・セッションズ (Inner City, 1977)

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エルモ・ホープ・トリオ Elmo Hope Trio - ラスト・セッションズ Last Sessions (Inner City, 1977) Full Album : https://youtu.be/xrbEEK4YG8Y
Recorded at A-1 Studios, New York, March 3 (A3 only) & May 9, 1966
Released by Inner City Records IC 1018, 1977
All compositions by Elmo Hope

(Side 1)

A1. Roll On - 5:50
A2. Bird's View - 5:18
A3. Pam - 2:39
A4. If I Could I Would - 3:51

(Side 2)

B1, Grammy - 5:11
B2. Toothsome Threesome - 8:55
B3. Vi Ann - 2:14
B4. Punch That - 6:12

[ Elmo Hope Trio ]

Elmo Hope - piano
John Ore - bass
Philly Joe Jones - drums (A3 only)
Clifford Jarvis - drums

(Original Inner City "Last Sessions" LP Liner Cover & Side 1 Label)

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 不遇ピアニスト、エルモ・ホープ(1923-1967)の前作はトリオ2曲、セクステット7曲(うち2曲ヴォーカル入り)の『Sounds From Rikers Island』(1963年8月19日録音)でしたが、1953年のジャズ・デビュー以来11作目の同作のあとホープとレコーディング契約する会社はありませんでした。ホープは1962年には一時的にジャッキー・マクリーンのサイドマンを勤め、1963年にはレイ・ケニー(ベース)とレックス・ハンフリーズ(ドラムス)とのトリオ、1964年にはジョン・オール(ベース)とビリー・ヒギンズ(ドラムス)とのトリオで時おり管楽器奏者を迎えて細々とライヴ活動を行っていましたが、1965年には薬物禍による健康悪化でさらに活動が低下します。R&Bのインディー・レーベル、スペシャルティからようやく3年ぶりの録音が持ちかけられたのは1966年になってのことで、3月8日にジョン・オールとフィリー・ジョー・ジョーンズ(ドラムス)とのトリオで5曲(スタンダード2曲、オリジナル新曲2曲、即興ブルース1曲)を録音し、また5月9日にはオールとクリフォード・ジャーヴィス(ドラムス)とのトリオで9曲12テイク(スタンダード1曲、旧作オリジナル曲1曲、新曲オリジナル曲7曲)を録音しましたが、スペシャリティは録音をお蔵入りし、この最後のトリオ録音2セッションはインディーのインナー・シティー・レコーズに売却されて発売される1967年まで未発表になりました。ホープの最後のライヴ出演はニューヨークのジャドソン・ホールでの1966年の若手ミュージシャンたちとのコンサートでしたが、出演した若くてピアニストのホレス・タプコットによる証言ではホープは「まったく腕が動かせず、演奏できなかった」といいます。翌1967年にホープは麻薬の過剰摂取から病院に搬送され、重篤のためそのまま入院しましたが、衰弱が甚だしく、数週間後の5月19日に夫人に看取られ肺炎で逝去しました。翌月誕生日を迎えるはずの享年43歳11か月でした。バーサ夫人は当時31歳で、幼い娘と息子の2児が残されました。バーサ夫人はピアニストとして活動を続け、令嬢のモニカはジャズ・シンガーになりました。

 以上1962年からのホープの晩年は英語版ウィキペディアによりましたが、ホープの幼なじみのバド・パウエル(1924-1966)が5年間のパリ移住から帰国したのが1964年8月で、9月にはジョン・オールとJ・C・モーゼズ(ドラムス)とのトリオで『Return of Bud Powell』を録音しニューヨークのバードランドにオールとモーゼズとのトリオで秋まで出演していましたが、失踪をくり返しては旧友に金銭を無心しに現れる具合で、1965年5月の若手ミュージシャンとのタウン・ホールでのコンサートに出演したのを最後に消息が途絶えます。パウエルは1966年7月31日に入院先の病院で栄養失調と肺結核により逝去しました。享年41歳でした。ホープの最後の(まったく演奏できなかったという)ライヴ出演も同時期で、ホープの5月の逝去は7月のジョン・コルトレーンの40歳の急逝(肝臓癌で、ほぼ1年前から余命宣告されていましたが、生前はひた隠しにされていました)に隠れてほとんど話題にもなりませんでした。レニー・トリスターノの最後のライヴ録音も1966年ですし、セロニアス・モンクも1968年のコロンビアとの契約満了後はほとんど新作がなくなります。自殺同様だったと証言されるビル・エヴァンス晩年の自暴自棄な私生活といい、ジャズ・ピアノのイノヴェイターの後半生がほとんど死屍累々と言ってよいほどなのは、かつてジャズがどれほどミュージシャンの生命を消耗させるものだったかを物語るようです。

 録音から11年間も未発表になっていた(1974年にテスト・プレスされた説もありますが、市販されず実物も確認されていません)エルモ・ホープ最後のアルバムは、裕にアナログLP2枚分の分量がありました。まず第1集に当たる全8曲オリジナル曲(A2「Bird's View」のみ旧作オリジナル曲「Low Tide」の改題で、新曲は7曲)の『Last Sessions』が発売され、半年置いて『Last Sessions Volume.2』が発売されました。こちらの方がフィリー・ジョーのドラムスでのセッションからの曲が多く、また1曲あたりの演奏時間も長い力演が聴けますが、音源リンクが引けないので曲目だけ上げます。『Last Sessions』8曲と『Volume.2』6曲でマスター・テイク14曲が発表され、『Volume.2』の各曲はLPでは短縮編集で、ここではCDで復原された全長版の長さを上げました。また現行の2枚組CDでは「Bird's View(Low Tide)」「Roll On」「Vi Ann」の別テイクが追加され、全17テイク14曲が網羅され、曲順も2回のセッションを分けてマスター・テープ通りの録音順に並び直されています。アルバムとしてはオリジナル曲集の『Last Sessions』、スタンダードが半数を占め2/3がフィリー・ジョーがドラムスのセッションの『Volume.2』と性格が分かれて聴きやすいのですが、当時の通例でホープ自身にはほとんど編集権はなかったでしょうし、また生前未発表の遺作ですからインナー・シティー盤の編集がオリジナル盤とは必ずしも呼べません。CD化に際してインナー・シティー盤通りの2枚に分けたヴァージョンと、コンプリート化した2枚組ヴァージョンの2通りがあるのも本作の場合どちらも有用と言えるでしょう。インナー・シティー盤『Volume.2』の収録曲は次の通りです。聴きごたえは『Last Sessions』に劣りません。
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Elmo Hope Trio - Last Sessions Volume.2 (Inner City, 1977)
Recorded at A-1 Studios, New York, March 3 (Side 1 & B3) & May 9 (B1, B2), 1966
Released by Inner City Records IC 1037, 1977
All compositions by Elmo Hope except as indicated
(Side 1)
A1. I Love You (Cole Porter) - 10:50
A2. Night In Tunisia (Dizzy Gillespie, Frank Paparelli) - 10:16
A3. Stellations - 4:22
(Side 2)
B1. Somebody Loves Me (Buddy DeSylva, George Gershwin, Ballard MacDonald) - 8:42
B2. Bertha, My Dear - 8:04
B3. Elmo's Blues - 10:42
[ Elmo Hope Trio ]
Elmo Hope - piano
John Ore - bass
Philly Joe Jones - drums (Side 1 & B3)
Clifford Jarvis - drums (B1, B2)

 晩年のバド・パウエルを迎えたのもニューヨークのフリー・ジャズ界で、モーゼズはニューヨーク・コンテンポラリー・ファイヴのメンバー、また最後のライヴ出演はフリー・ジャズの新興レーベル、ESPのミュージシャンたちのコンサートでしたが、ベーシストのジョン・オールが同時期にホープとバドの両方のレギュラー・ベーシストになり、ホープのラスト・レコーディングのクリフォード・ジャーヴィスもサン・ラ・アーケストラのドラマーでした。『Rikers Island』でやはりサン・ラ・アーケストラのジョン・ギルモア(テナーサックス)、ロニー・ボイキンス(ベース)と共演した縁からと思われますが、バド・パウエルの晩年の演奏同様このラスト・レコーディングのエルモ・ホープはいっそうセロニアス・モンクに近く、それどころかバップ色の強いタイプのフリー・ジャズのピアニストと呼んでもいいほど演奏に大胆な変化が見られます。フリー・ジャズのミュージシャンは必ずモンクのオリジナル曲をレパートリーに加え、バド・パウエル的なエモーショナルな演奏を特色としていましたが、バド・パウエルはモンクの弟分から出てビ・バップ以降のモダン・ジャズ・ピアノの規範となった技法を確立したピアニストでした。またバドの旧友のホープも、バドにはなりきれないながらバド・パウエルの系譜のビ・バップ・ピアノからジャズ界に入っており、晩年のバドとホープがともにモンクをさらに崩した、または過激化したような奏法に踏みこんでいたのは示し合わせたような現象です。レニー・トリスターノ生産未発表のほとんど最後のスタジオ録音作品『Note To Note』もそうですが、セシル・テイラービル・エヴァンスら新しい世代のピアニストとも違う形でインプロヴィゼーションの可能性を探っていたか、はたまた迷走してしまったかのようにも見えます。意欲的でもあれば迷走とも見えるのはバドにしろトリスターノにしろ、またホープにしろ表現方法が非常に個人的な方向に向かっているからで、売れるようなジャズでもなければこれを出発点にして拓ける方向性というのも出てこないので、結果的にバドとホープ、トリスターノはほぼ同時期にラスト・レコーディング作品を録音していたわけですが、この先まだ順調なキャリアが残せていたとしても次の手が見えないほどに音楽が煮詰まっている印象を受けます。本作でのホープは旧作オリジナルでも別人のような、しかしホープ以外には弾けないような演奏に踏みこんでいて、ブルー・ノートからの初期録音やロサンゼルスでの『Elmo Hope Trio』、ニューヨーク帰郷後の『Here's Hope !』『High Hope !』、ソロ・ピアノ作『Hope-Full』などホープ作品の最高水準をさらに更新しているのは間違いありません。

 さらに言えば、モンクやトリスターノ、バドのように真に奥底の見えない演奏をホープが達成したのは、本作までは片鱗しか見せなかったことでした。ホープはモンクやトリスターノのように精神状態を反映させることなく強靭な音楽を作ることもできなければ、精神状態に極端に左右されるバド・パウエルほどの強度もなく、どこか脆弱で強度に欠けるピアニストでした。しかしニューヨーク帰郷後のピアノ・トリオ作品やソロ・ピアノでは次第にモンクに接近しながら旧友の天才バドにも匹敵する強靭なタッチを徐々に披露するようになり、バド同様精神状態を露骨に反映させる演奏を打ち出すようになってきています。ブルー・ノートでのドナルドソン&ブラウン・クインテットを唯一成功させた以来管楽器入りの編成ではどこか存在感が稀薄で、気弱なピアニストとの印象が拭えなかったのも『Rikers Island』で初めて管楽器入りセクステットで充実した成果を実現できました。しかしホープの本領はピアノ・トリオにあり、ホープのような実力的中には第二線級のピアニストが連続してピアノ・トリオのみに絞った作品を制作する企画はごく限られた機会になりましたが、すでにライブではまったく演奏ができないほど衰弱していたホープが本作のような全力を尽くした力作をものした自体が奇跡的な出来事だったのです。フィリー・ジョーはR&Bバンドでのレコード・デビュー以来の肝胆肝照らす旧友であり、ホープのキャリアがフィリー・ジョーとの共演から始まりフィリー・ジョーで閉じたのにも感慨の深いものがあります。本作はホープの遺言的アルバムですが(次作のレコーディング依頼はまったく絶望的だったでしょう)、ホープの最大の異色作でもあればこのピアニストがマイナスの手札をすべて表に生かして見せた未完の傑作です。しかしその真価はこれまでのホープ作品の跡を追い、かつ1966年という微妙な、キャリア末期にかろうじて成立した背景を抜きにはできず、聴くべき順位もまた最後になる性格を免れません。そしてホープの全アルバムも録音55年~75年を経ていまだに再評価の途上にあります。今回までで全アルバムをご紹介しました。ご鑑賞の一助になれば幸いです。