人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

岡田隆彦詩集『史乃命』昭和38年(1963年)より

岡田隆彦詩集成』

令和2年(2020年)4月1日・響文社刊
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「史乃命」

 岡田隆彦

喚びかける よびいれる 入りこむ。
しの。
吃るおれ 人間がひとりの女に
こころの地平線を旋回して迫っていくとき、
ふくよかな、まとまらぬももいろの運動は
祖霊となって とうに
おれの囲繞からとほくにはみでていた。
あの集中した、いのちがあふれるとき、
官能の歪みをこえて、
おまえの血はおれを視た。世界をみた。しびれて
すこしくふるえる右、左の掌は
おれの天霧るうちでひらかれてある。
おれは今おそろしい と思う。
飛びちらん この集中した弾みのちから!
愛を痛めるものを峻別するだろう。
聴け 明澄音は、
いとも平常な表情をして、
吹きあげる史乃の言だまであり、
猛禽類を臭い海原へさらって、
おまえは路上軌線などの斜に佇んで、
しごとへつく男 なにかをひらってくるおれ
くしゃくしゃの通勤袋なんぞを振って出ていく男へ
朱い丸い光をフッフッと
投げおくっている。護符のように
おれにぶらさがっている形式はすべて
照りはえよ。きらめけよ ときに
豚殺しの手斧のように

フッフッと
いわし雲からまた反り、おまえのオッパイの
鼓動が素朴にころがっているよ。
出きあいのブラウスがおれの街まちに素朴に
ヒラヒラしていて、流行り歌や
足はこびをつかまえて
律動しているよ。
実りあるべき目ざめはひる日中進んでいく。
史乃とおれとの遠感が
意識をはぐくみ、目的と等閑とに意識を頑なに
そして敏捷に応えさせているのだ。
ひとつ温い声 官能の歪みにゆがんで
三千世界におちこむ心あり、ふたつ
流砂をたえて舟に帆をあげる、また心あり。
人間群落をかこむ侮蔑的な千重のわくが
むなしい音をたてて迫ってくるのを フッフッ
切るだろう。
おれはひと筋道に勇みこころをふくらましていく。
おれの固有の経験のかけらをもろもろ
祖霊の唇や肺気泡、熱っぽく深い、
容れもののなかに吸いとろうとする女・史乃。
川 乳房 耕地のうえの空 たとえば
ふかい腰は形象と非形象の分けつより
一歩先んじてしまっていて
(心ねと唇たちを たれが分離できるだろう)
(言ってごらん) かわ ちぶさ
はたけのうえのそら。視ている深いひとみ
みがまえている深い川。

おれが持続する証しは こんなにも美しい実体だ。しの。この東京の橋桁の下もインシュージアズムのまためくるめき 唯一ひとの女はますます黙りこくって巨きな星になり得る。おれの日常は 食事をとることも 真赤になること、窓から顔をのぞかせるのも あふれるもののために 聖なる風が狂的に織りなす形式か。おまえの好きなおれの熟した丸いしるしも しの 即時の磁場に乱れはねちって
見よ いちぢくのように開いている。 (そんなに吸いこむなよ) おまえの脚腰 平たいおなかは どこかの始源がのこした壁の羅列して敷きつめぬかれた青いトビ魚や鳳の絵のなかかに 活きているのだよ。

抱きあって形ないしぐさをくりこむあとに
そっと息を吹きかけあう疲れの汗は、
数分、たれのものでもないお祈りで、
とてもたまらないほど排卵している。
いのちの記念や時の跡ではなく、
エナジーそのものでしかなく 史乃 おれ
の光をもらう倖せをひとっ跳び。
形にかたまらず 翔んでいるよ
さあ どんな方角へも動いていける。
欣喜雀躍の羽羽はまこと麗しくヒラヒラヒラ、
涙も溜いきもついていけない。だからこそ
女ひとはまたいつか死ぬるだろう。
その死は史乃の死か おれの死か
一体たれが区分けしてみせる?
あふれるおまえの赤い夜の川のなかで唯今、
唇たちに吸われて唯今 おれが 唯今
たしかに放らつだからこそ、ここに
おまえが唯今いるからこそ、
オッパイなんかあてどなく、
彫りおこそう クソッタレ
史乃命。しのいのち。

おれは豊穣な畏怖に祭られている おまえの流れとその淵を体現せしめるおれのちからの息吹腔からフッフッと 青そらを転がして還魂し そのうえ 飛天をくるしげに生み散らす。これはとほい秘めごとだ。

(詩集『史乃命』1963より)


 本作も1960年代の現代詩を代表する作品として著名なものです。岡田隆彦(1939-1997)は後にアルコール依存症の苦しみをテーマにした詩集も残しており(詩集『時に岸なし』昭和60年=1985年)、享年58歳とまだ早逝が惜しまれる年齢で亡くなりましたが、史乃夫人に捧げた恋愛詩集『史乃命』は第1詩集『われらのちから19』(昭和38年=1963年)、第3詩集『わが瞳』(昭和47年=1972年)と並び日本の詩には珍しく肯定感と生の喜びを斬新な文体で歌い上げています。飯島耕一ら先行する戦後詩の世代からもはっきりと新しい詩意識があり、また岡田隆彦と同年生まれで同人誌仲間だった吉増剛造の同時期の作品とともに1970年代の詩の先駆けとなった過渡的なスタイルとも、これはこれで1960年代らしい詩の達成とも目せるものです。