人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

エルモ・ホープ・トリオ Elmo Hope Trio (High-Fi Jazz, 1960)

エルモ・ホープ・トリオ (High-Fi Jazz, 1960)

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エルモ・ホープ・トリオ Elmo Hope Trio (High-Fi Jazz, 1960) Full Album : https://youtu.be/2Ao28_25Oik
Recorded at Radio Recorders Studio B, Los Angeles, February 8, 1959
Released by High-Fi Jazz Records J(S)-616, 1960
Produced by David Axelrod
All compositions by Elmo Hope except as indicated

(Side A)

A1. B's A-Plenty - 5:47
A2. Barfly - 6:18
A3. Eejah - 3:55
A4. Boa - 6:00

(Side B)

B1. Something for Kenny - 6:29
B2. Like Someone in Love (Johnny Burke, Jimmy Van Heusen) - 7:32
B3. Minor Bertha - 4:51
B4. Tranquility - 2:58

[ Elmo Hope Trio ]

Elmo Hope - piano
Jimmy Bond - bass
Frank Butler - drums

(Original High-Fi Jazz "Elmo Hope Trio" LP Liner Cover & Side A Label)

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 不遇ピアニスト、エルモ・ホープ(1923-1967)の4年ぶりのアルバムは、この調べれば調べるほどついていないジャズマンにとって起死回生になるはずの力作になりました。しかも今回のプロデューサーは'60年代の西海岸ポップ&ロック界に名を轟かせるデイヴ・アクセルロッドです。ブルー・ノート・レコーズから1953年にジャズ・デビューした(それ以前はR&B楽団で不遇をかこっていました)ホープは4回の10インチLP(うちホープのリーダー名義作2枚)の録音で翌年契約を打ち切られ、1954年から1956年にはプレスティッジ・レコーズと契約しましたが2年間に1枚の10インチLP、4枚の12インチLPの録音(うちホープのリーダー名義作3枚)でまたもや契約を失い、その上に麻薬所持違反でニューヨークのジャズマン組合からライヴ活動禁止の処分を食らってしまいます。仕事はないが顔は広いホープはディーラーから目をつけられ、密売人のアルバイトで糊口をしのいでいました。1年半後のホープは仕事を求めてロサンゼルスに渡り、かつてのバンドメイトのクリフォード・ブラウンが生前組んでいたつてでブラウンと一時同じバンドにいたハロルド・ランド(テナーサックス)のバンドに加わります。プレスティッジでの最後の録音は1956年5月7日録音の『Informal Jazz』でしたが、ようやく次の録音にありついたのはロサンゼルスのインディー・レーベル、パシフィック・レコーズへの録音で、1957年10月31日とほぼ1年半ぶりになりました。ハロルド・ランドを含むメンバーのホープのリーダー名義の録音でしたが、この時録音されたのは一応全部ホープのオリジナルの新曲ながら、オムニバス・アルバム向けの3曲だけでした。翌1958年1月6日にはランドが参加していたカーティス・カウンス(ベース)・グループでの録音になり、カウンス・グループのピアニストのカール・パーキンス(同名ロックンローラーとは無関係)の体調が思わしくないため制作が進んでいなかったコンテンポラリー・レコーズへのアルバム『Sonority』を完成させるための代役セッションで、予定していた4曲中パーキンスが1曲しか弾けなかったため残り3曲をホープの旧作オリジナル曲を演奏して仕上げた録音でした。同じ1月13日・14日にはコンテンポラリーへのランドのアルバム『Harold in the Land of Jazz』に参加、全8曲中4曲の新曲を提供します。パーキンスは3月に29歳で急死してしまったので、カーティス・カウンス・グループ4月録音のアルバム『Exploring the Future』はホープがそのままパーキンスの後任になって制作されました。全10曲中ホープのオリジナル曲は4曲ながら3曲は旧作の改題で、新曲は1曲だけでした。翌1959年にはレニー・マクブラウン(ドラムス)のアルバム『Lenny McBrowne and the Four Souls』(録音月日不詳)収録曲3曲(うちホープのオリジナル曲1曲)にアレンジのみで参加、ピアノはマクブラウンのバンドのテリー・トロッターが弾いていてホープはあくまでアルバム中3曲のアレンジだけです。そしてようやく全8曲中オリジナル新曲7曲のピアノ・トリオ作の本作『エルモ・ホープ・トリオ』がロサンゼルスの地元インディー、High-Fi Jazzへ録音されたのは1959年2月8日でした。続いて同じレーベルへ8月録音のハロルド・ランドクインテットのアルバム『The Fox』に参加、全6曲中ランドのオリジナル曲2曲、ホープのオリジナル曲4曲で、『エルモ・ホープ・トリオ』とハロルド・ランドの『The Fox』は1970年にロサンゼルスきっての名門インディー社コンテンポラリーから再発売されてホープのロサンゼルス時代の2作の秀作と評価されましたが、1960年の初発売時はまったく評判を呼びませんでした。これがホープの西海岸在住時最後の録音になり、次の録音は再婚した12歳年下の夫人と女児を連れてニューヨークに戻った1961年になりました。

 以上エルモ・ホープが1957年から1960年までのロサンゼルス移住時に参加したのはレコーディング回数6回、アルバム枚数では3枚半、しかもホープ自己名義のセッションは2回、アルバム1枚とオムニバスLP用録音3曲しかないのですが、この時期のエルモ・ホープ、また1940年代~1960年代のロサンゼルス・ジャズの再評価について筆者が知ったのはほぼ30年前に翻訳刊行された『ジャズ・ウエスト・コースト』という研究書でした。それにはチャーリー・パーカーがロサンゼルスに滞在していた1945年から1960年代半ばまでの、これまでウエスト・コースト・ジャズというだけで過小評価、またはまったく見過ごされてきたジャズマンたちのビ・バップ~フリー・ジャズまでが詳しくひも解かれているのですが、同書がアメリカ本国でも話題になったのはその後OJC(Original Jazz Classics)のシリーズで同書で再評価されたアルバムがひと通り初CD化、またはオリジナル・フォーマット通りに初LP再発されたことでもわかります。同書にはカーティス・カウンス・グループとハロルド・ランドについて1章が割かれており、そこにロサンゼルス移住時のホープについても詳述されていたのです。カーティス・カウンスはアート・ペッパー・カルテットを始め西海岸のスター奏者のサイドマンを勤めてきた実力派ベーシストであり、またロサンゼルス時代のホープが頼ったハロルド・ランドクリフォード・ブラウンマックス・ローチクインテットのテナーマンであり、ロサンゼルスで旗揚げしたブラウン&ローチ・クインテットがニューヨークに戻った時に移住を拒否して脱退した(ニューヨークでの後任はソニー・ロリンズだった)という人でした。ロサンゼルス移住時代にホープが共演したミュージシャンもアート・ペッパーチェット・ベイカーらのレギュラー・メンバーだった実力者ぞろいであり、この『エルモ・ホープ・トリオ』のジミー・ボンド(ベース)とフランク・バトラー(ドラムス、カーティス・カウンス・グループ兼任)もニューヨーク移住前のチェット・ベイカーのバンドのレギュラー・メンバーでした。そしてビ・バップ時代から第一線で活動し、西海岸ハード・バップの最有力バンドになったカーティス・カウンス・グループも、ペッパーやチェットのピアニストを勤めていた夭逝ピアニストのカール・パーキンス時代も、クリフォード・ブラウンルー・ドナルドソンクインテット出身のエルモ・ホープ時代もまったく当時は評価されず、生ぬるいウエスト・コースト・ジャズだろうという偏見から1980年代まで見落とされてきたのです。ホープはプロ・デビューになったR&Bのジョー・モリス楽団(ジョニー・グリフィン、マシュー・ジーパーシー・ヒースフィリー・ジョー・ジョーンズ在籍)からジャズ・デビューになったブラウン&ドナルドソン・クインテット(ヒース、フィリー・ジョー在籍)、さらにロサンゼルス移住直前のニューヨークでのプレスティッジの最終録音『Informal Jazz』(ドナルド・バードハンク・モブレージョン・コルトレーンポール・チェンバース、フィリー・ジョー参加)、さらにロサンゼルスでもハロルド・ランドを始めとする一流奏者とばかり共演してきたのに、ホープの行くところホープだけが出世しないばかりか、ロサンゼルスではランド、カウンス、ボンド、バトラーらロサンゼルス現地の一流奏者まで巻き添えにして貧乏くじを引いてきたのです。カウンス・グループでは有望新人パーキンスの死に目に遭うように後釜に座ってカウンス・グループごと凋落した挙げ句、起死回生の名盤となるはずだった力作『エルモ・ホープ・トリオ』、ハロルド・ランドクインテット『The Fox』までまるで注目されませんでした。'60年代後半にはボビー・ハッチャーソンやチック・コリアとも共演するエリック・ドルフィーの旧友、ハロルド・ランド(ブラウン&ローチ・クインテットにランドを紹介したのはチャールズ・ミンガス経由でまだロサンゼルス在住中だったドルフィーを介してでした)はのちにホープを「ピアニストとしてはいまいちだったが、作曲は素晴らしくてね」と回想していますが、実はどこまで行っても貧乏くじのエルモ・ホープ物語はニューヨークに帰郷してもホープの没年まで続くのです。

 12インチLPフォームでAB面8曲45分、7曲新曲オリジナルで1曲スタンダード「Like Someone in Love」の本作は、ニューヨークのインディー・レーベルよりもスタジオの録音水準が高いロサンゼルス録音だけあってA1「B's A-Plenty」から雲の晴れたようなクリアな音質で素晴らしい演奏が聴かれます。ニューヨークのベーシストのヒースやジョン・オール、ドラマーのフィリー・ジョーやアート・ブレイキーのようにいかにも黒人バッパー然としていないボンド、バトラーのベースとドラムスも軽やかなスウィング感に富み、さすがペッパーやチェットのレギュラー・メンバーだっただけのことはある素晴らしい一体感があります。本作はひさびさに粒ぞろいのオリジナル曲の出来も含めてブルー・ノートでのブラウン&ドナルドソン・クインテット、エルモ・ホープ・トリオ、エルモ・ホープクインテット、プレスティッジのトリオ作『Meditations』以来の名作になっていますが、ホープの演奏は100%の実力を出していてもセロニアス・モンクバド・パウエルレニー・トリスターノら強靭なスタイリストの半分くらいしか強くないので黒人ミュージシャンながら白人奏者と組んできたボンド、バトラーくらいの乗りが相性が良かったのを証明するようなレコーディングでもあります。カウンス・グループやランド・クインテットでも西海岸としては硬派ハード・バップながらスウィング感はニューヨークより軽やかなのでホープが管楽器に押し負けせずに実力を発揮できましたが、幼なじみの学友パウエルの愛奏曲でもある「Like Someone in Love」を聴くと力強く激情的に迫ってくるパウエルの演奏とは異なる、ホープならではの軽さが本作では全編に良い作用をもたらしているのが実感されます。ホープはモンクやパウエルはもちろんレッド・ガーランドホレス・シルヴァーウィントン・ケリーソニー・クラークボビー・ティモンズらと較べても軽量級なのですが、ガーランドやシルヴァーらがビ・バップよりもハード・バップ以降にフィットしたスタイルだったのに対してビ・バップのルーツを離れなかったピアニストなので、アル・ヘイグデューク・ジョーダン、ランディ・ウェストン、フレディ・レッドマル・ウォルドロン、ハービー・ニコルス、ウォルター・ビショップJr.らとともに'50年代半ば以降にもビ・バップを感じさせるピアニストとしてどこか主流になれず、といってモンクやパウエルほど際だって強靭な個性ではないところにリスナーの琴線に触れるところがありました。ガーランドやジョーダンにはチャーリー・パーカーと共演して萎縮しまくっている録音がありますが、おそらくホープのジャズ・デビューが早くてパーカーと共演する機会があっても負けまくりの演奏になっただろうと思えます。ホープの負け犬オーラが輝いていたトリオ作が『Meditations』やニューヨーク復帰直後の姉妹作『Here's Hope !』『High Hope !』、また生前未発表に終わった没年前年のラスト・レコーディング2枚ならば、本作はブルー・ノートの初トリオ作『New Faces, New Sounds』以来の溌剌としたトリオ作で、ホープに惚れこんだリスナーには『Meditations』や『Here's Hope !』『High Hope !』、ラスト・レコーディング2枚に愛着が捨て難くても、これからホープを聴くというリスナーにはブルー・ノートでのトリオとクインテット、そして本作というのが負け犬臭さもなく順当でしょう。ホープは白人ピアニストきっての強烈なトリスターノとは違った意味で追えば追うほど不憫さが溢れてくるのですが、本作はそういう意味では例外的に晴れやかで、ジャズ・ピアノがお好きな方には遠慮なくお薦めできるアルバムです。しかし本作も名作コンテンポラリー・レコーズから再発売されるホープ没後の1970年まではよほどのマニアですら入手すら難しかったマイナー盤だったので、ホープ栄光の初期ブルー・ノート作品ともどもホープには輝かしいアルバムすら情けない背景があるのです。本作録音からまる2年、またもや不人気ジャズマンのホープは沈黙を強いられることになります。そしてニューヨーク復帰直後には負け犬ホープの真骨頂、まるで没年5年前のホープ自身による生前葬(そして本当に生前葬になってしまったのが1966年のラスト・レコーディング2枚)のようなホープ・オリジナル曲の集大成2作『Here's Hope !』『High Hope !』がひっそりと制作されるのです。