人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

ローウェル・ダヴィッドソン Lowell Davidson Trio - ローウェル・ダヴィッドソン・トリオ Lowell Davidson Trio (ESP, 1965)

ローウェル・ダヴィッドソン・トリオ (ESP, 1965)

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ローウェル・ダヴィッドソン Lowell Davidson Trio - ローウェル・ダヴィッドソン・トリオ Lowell Davidson Trio (ESP, 1965) : https://www.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_nujqv2upK7cOttY2Jr71c4iSvCjno51oM
Recorded in NYC, July 27, 1965.
Released ESP Disk - ESP 1012, 1965 / Reissued ESP Disk - ESP 1012-2, ZYX Music - ESP 1012-2 (CD, Germany), 1993
All Compositions by Lowell Davidson.
(Side A)
A1. "L" - 8:10
A2. Stately 1 - 11:05
A3. Dunce - 4:29
(Side B)
B1. Ad Hoc - 12:15
B2. Strong Tears - 8:30

[ Lowell Davidson Trio ]

Lowell Davidson - piano
Gary Peacock - bass
Milford Graves - percussion

(Original ESP "Lowell Davidson Trio" LP Liner Cover & Side A Label)
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 ローウェル・ダヴィッドソン(1941~1990)はマサチューセッツ州ボストン出身でハーヴァード大学を卒業して生化学者になり、このアルバムは1964年創設のフリージャズ専門インディーズ・レーベルESPに、オーネット・コールマンの推薦でオーディションなしで制作が決定して録音・リリースされた。ベースのゲイリー・ピーコック(1935~)、ドラムスのミルフォード・グレイヴス(1941~)はこのアルバムのために起用されたメンバーになる。ダヴィッドソンは活動初期のニューヨーク・アート・カルテットにドラムス、ベース、オルガン奏者として参加していたこともあった。ダヴィッドソンは化学実験中の事故で1990年に49歳で逝去した。
(英語版ウィキペディア全文)

 このピアニストの活動については英語版ウィキペディアの全文に載せられている事柄以上はほとんど知られていないようです。ESPからの本作が唯一のアルバムで、このアルバムがなかったらジャズの歴史に名前が残らなかった人でもあります。このアルバムにしてもリーダー以外のメンバーの方が出世してリーダーは無名に終わった典型的な例で(皮肉なことにジャズではよくある話ですが)、ピーコックやグレイヴスは巨匠になりましたがダヴィッドソンは生涯に1枚アルバムを残した、本職は化学者のアマチュア・ジャズ・ピアニストにすぎませんでした。ピーコックとグレイヴスの演奏はこのアルバムを聴いてもリーダーのピアノと同等以上に鮮やかで、素晴らしいベースとドラムスに恵まれたからこそダヴィッドソンもジャズ史の片隅に名を留めることになったと言えます。

 米音楽サイトallmusic.comのアルバム評価でも本作は星四つですが、歴史的な重要性からも見逃せないアルバムとしています。ローウェル・ダヴィッドソンは1941年生まれで神学者中流家庭に育ち、学生時代は吹奏楽団でチューバを吹いていたそうで、大学進学して化学の学士号を取得しているくらいですから大学進学率が30パーセント程度だった当時では家庭も裕福、学業も優秀だったと想像されます。セロニアス・モンクとハービー・ニコルスの影響の下にジャズ・ピアノを始め、ドラムスも叩けたのでラズウェル・ラッドとジョン・チカイのニューヨーク・アート・カルテットの初期メンバーにドラムスで参加した(レコーディングはなし)のを経て最初で最後のアルバムを新興レーベルESPに吹き込みました。ダヴィッドソン24歳、全曲がダヴィッドソン自身の書き下ろしオリジナル曲で、ベースにゲイリー・ピーコック、ドラムスにミルフォード・グレイヴスという極上のサポートを得た録音です。仕上がりは、フリー・ジャズ・レーベルのESPの中ではフリー・ジャズのピアノ・トリオではくくれない珠玉のアルバムになりました。内容はやはりピーコックとグレイヴスの貢献の高さが注目され、フリー・ジャズのピアノとしてセシル・テイラーと比較すると冒頭の「"L"」で顕著なように調性はもっと明快で、マル・ウォルドロン的な打楽器的奏法とセロニアス・モンクやウォルドロン以上に極端に簡素な演奏に特徴があり、ポール・ブレイとの類似は顕著ですが、見過ごされがちなフリー・ジャズ・ピアニストとしてヴァルド・ウィリアムズ、バートン・グリーン、エリック・ワトソンらと同格の評価が与えられるべき秘宝的存在だろうとされています。

 ヴァルド・ウィリアムズ(Valdo Williams, 1933~2010)、バートン・グリーン(1937~)、エリック・ワトソン(Eric Watson, 1955~)らはマル・ウォルドロン(1925~2002)やセシル・テイラー(1929~2018)、ポール・ブレイ(Paul Bley, 1932~2019)とは格段に知名度が落ちるジャズ・ピアニストで、エリック・ワトソンはすでにフリー・ジャズが歴史的スタイルになった後でデビューしたジャズマンですし、バートン・グリーンがフリー・ジャズのピアニストだったのはデビュー当初だけで'70年代以降はシンセサイザーによる実験音楽に転向しています。マル・ウォルドロンポール・ブレイはどちらかといえばメインストリームのジャズ界で活動していた時期のアルバムで知られますが、'60年代半ばにはともにセシル・テイラーと並ぶフリー・ジャズのピアニストとして尖鋭的なジャズを演奏していました。アンドリュー・ヒル(Andrew Hill, 1929~2007)をこのリストに含めてもいいでしょう。テイラーとヒルはデビュー当初から晩年までアメリカの黒人フリー・ジャズを代表したピアニストで、テイラーが牽引車とすればヒルは裏番長のような存在でした。

 ダヴィッドソンと同時期にフリー・ジャズ、または折衷的スタイルの新人ピアニストとしてデビューしたジャズマンはデイヴ・バレル、ラン・ブレイク、スタンリー・カウエル、ドン・プーレンなどESP周辺のミュージシャンでしたし、セシル・テイラービル・エヴァンスは同年生まれ・同年デビューの宿命のライヴァルでした。エヴァンス系のピアニストも影響源はエヴァンスに限定はされず(ほとんどエヴァンスの影武者のようなピアニストも続出しましたが)、マッコイ・タイナーハービー・ハンコックチック・コリアらもエヴァンスとテイラー双方からの技法を摂取していました。エヴァンスやテイラーは一貫して自己のスタイルを貫いていましたから不自然ではありませんが、'70年代にはかつてフリー・ジャズの新人だったピアニストたちはほとんど全員がメインストリーム・ジャズに向かいます。エリック・ワトソンが時代錯誤的なデビューをしたのはそんな時期でした。だからこそ、'60年代半ばに不思議な音楽を1枚きり残して消えたダヴィッドソンやヴァルド・ウィリアムズといったジャズマンが未知のままの可能性を暗示する存在としていつまでも解けない謎を投げかけてきます。

 主流ジャズからフリーに移った白人ピアニスト、ポール・ブレイは後輩ビル・エヴァンスの逆影響をくぐってきた人でしたが、ダヴィッドソンもモンク、ハービー・ニコルスの名を上げながらエヴァンスのヴォイシングから相当学んだ節があり、セシル・テイラーやアンドリュー・ヒルを始めとする黒人の尖鋭的ピアニストの渦巻くような加速感のある演奏とは違った、思索的で沈鬱な印象派的作曲と極端に簡素な演奏に趣味の良さが光ります。音数は最小限に少なく、オスティナート(リフレイン)やブロック・コードもほとんど弾かないのに持続した定則リズムを感じさせるのはベースとドラムスとの息が合い、しっかりした体内ビートをキープしているからで、非常に将来性のあるピアニストでした。また偶然でしょうが、本作のダヴィッドソンのオリジナル曲と演奏スタイルはクシシュトフ・コメダ(1931-1969)と並ぶポーランドのジャズ・ピアニスト、アンジェイ・ツァスコウスキ(Andrzej Trzaskowski, 1933-1998)の『Polish Jazz Vol. 4: The Andrzej Trzaskowski Quintet』(1965, Muza 0258)でスコット・ラファロホレス・シルヴァーに捧げられたピアノ・トリオ曲「Requiem For Scotty」「A Ballad with Cadence In Horace Silver's Style」に酷似しています。
◎Andrzej Trzaskowski Trio - Requiem For Scotty (Musa, 1965) : https://youtu.be/SqFxmsaUG4Y - 2:53

 このアルバム発表後にダヴィッドソンはクラブ出演の契約を獲得しますが、精神疾患の発症から契約をキャンセルし、アルバムも本作きりのままジャズ界から姿を消しました。このアルバムが初CD化されたのは'92年ですが、その際にようやくダヴィッドソンの消息が調査され、前年の'91年に勤務先の化学実験中の火災事故で逝去していたのが判明しました。化学者の仕事に専任しながらも闘病に明け暮れた生涯だったようです。日本盤CDは廃盤ですが輸入盤ともども入手は難しくなく、フリー・ジャズながら異色の抒情的印象派ピアノ・トリオ作品として一度聴けばたまに無性に聴き返したくなるアルバムです。やはり1作きりで消息を断った謎の不遇ピアニスト、ヴァルド・ウィリアムズと並んで、こういうオブスキュアなジャズマンこそが歴史の厚みを担っているようにも思えます。