島崎藤村・明治5年(1872年)3月25日生~
昭和18年(1943年)8月22日没(享年72歳)
『若菜集』明治30年(1897年)8月29日・春陽堂刊
髮を洗へば
髮を洗へば紫の
小草(をぐさ)のまへに色みえて
足をあぐれば花鳥(はなとり)の
われに隨ふ風情(ふぜい)あり
目にながむれば彩雲(あやぐも)の
まきてはひらく繪卷物(ゑまきもの)
手にとる酒は美酒(うまざけ)の
若き愁(うれひ)をたゝふめり
耳をたつれば歌神(うたがみ)の
きたりて玉(たま)の簫(ふえ)を吹き
口をひらけばうたびとの
一ふしわれはこひうたふ
あゝかくまでにあやしくも
熱きこゝろのわれなれど
われをし君のこひしたふ
その涙にはおよばじな
(初出原題「相思」
君がこゝろは
君がこゝろは蟋蟀(こほろぎ)の
風にさそはれ鳴くごとく
朝影(あさかげ)清きよき花草(はなぐさ)に
惜しき涙をそゝぐらむ
それかきならす玉琴(たまこと)の
一つの糸のさはりさへ
君がこゝろにかぎりなき
しらべとこそはきこゆめれ
あゝなどかくは觸れやすき
君が優しき心もて
かくばかりなる吾(わが)こひに
觸れたまはぬぞ恨みなる
(初出原題「一得一失」)
傘のうち
二人ふたりしてさす一張(ひとはり)の
傘に姿をつゝむとも
情(なさけ)の雨のふりしきり
かわく間もなきたもとかな
顏と顏とをうちよせて
あゆむとすればなつかしや
梅花(ばいくわ)の油黒髮の
亂れて匂ふ傘のうち
戀の一雨ぬれまさり
ぬれてこひしき夢の間(ま)や
染めてぞ燃ゆる紅絹(もみ)うらの
雨になやめる足まとひ
歌ふをきけば梅川よ
しばし情なさけを捨てよかし
いづこも戀に戲(たはふ)れて
それ忠兵衞の夢がたり
こひしき雨よふらばふれ
秋の入日の照りそひて
傘の涙を乾(ほ)さぬ間まに
手に手をとりて行きて歸らじ
(以上三篇初出「文學界」明治29年=1896年11月、総題「秋の夢」八篇より)
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大学卒業以来東京の女学校で学校教諭をしていた島崎藤村(1872-1943)は女生徒との恋愛から自主退職して一時期放浪し、明治29年(1896年)9月から翌明治30年(1897年)7月まで仙台の東北学院作文教師として地方赴任していましたが、収録作品51篇の第1詩集『若菜集』(明治30年8月刊)はほとんどがこの10か月ほどの仙台赴任時代に書かれたものです。『若菜集』収録予定詩篇は藤村が創刊同人だった同人誌「文學界」に仙台赴任前の明治28年(1895年)明治29年7月発表の総題「ことしの夏」9篇以外は明治29年9月から毎月のように発表され、明治29年9月の「文學界」には総題「草影蟲語」として七篇、10月には「まだあげ初めしまえがみの(……)」の書き出しで知られる「初戀」を含む総題「一葉集」として18篇、11月には総題「秋の夢」として八篇、12月にはのちに「六人の處女」に改題される六篇の連作「うすごほり」、と明治30年3月まで連続発表されました。藤村の詩集は29歳の明治34年までに明治30年(1897年)8月刊の第一詩集『若菜集』、明治31年(1898年)6月刊の第二詩集『一葉集』(詩文集)、明治31年12月刊の第三詩集『夏草』、明治34年(1901年)8月刊の第四詩集『落梅集』があり、これら四詩集は藤村が小説家に転じたのちの明治37年(1904年)9月に全詩集『藤村詩集』としてまとめられ、さらに大正元年(1912年)12月に『改版藤村詩集』として普及版になり戦前の昭和期まで愛読されるロングセラーになりました。今回ご紹介した三篇のうち「髮を洗へば」「君がこゝろは」は初出誌と『若菜集』では「相思」「一得一失」という原題だったもので、『改版藤村詩集』以降「髮を洗へば」「君がこゝろは」に改題されたものです。原題は詩のテーマを簡素に表したものですが、初出誌・『若菜集』とも最初から原題通りの「傘のうち」というタイトルで連続して収められた三篇として抜粋すると(または個別の詩篇としてのタイトルとしては)、「髮を洗へば」「君がこゝろは」という柔らかいタイトルに改題したのは成功していると思います。
詩集『若菜集』は連作「六人の處女」に代表されるように女性、しかも若い女性の一人称を借りた詩篇が印象に残り、それも女性に自立した人権が認められなかった当時にあっては画期的なことでした。「秋の夢」八篇からのこの三篇も一見すると女性の一人称による恋愛詩のように見えますが、「髪を洗へば」は「髮を洗へば紫の/小草(をぐさ)のまへに色みえて」と第三連まで女性の一人称のように見えて、第四連「あゝかくまでにあやしくも/熱きこゝろのわれなれど/われをし君のこひしたふ/その涙にはおよばじな」と男性側の一人称に反転する仕掛けになっています。「君がこゝろは」はもっとわかりづらく、第一連の「君がこゝろは蟋蟀(こほろぎ)の/風にさそはれ鳴くごとく」、第二連の「それかきならす玉琴(たまこと)の/一つの糸のさはりさへ」を聴いている「われ」は男性かと思われますが、鳴くコオロギは雄ですし、第四連の「かくばかりなる吾(わが)こひに/觸れたまはぬぞ恨みなる」という結句は女性の一人称と読む方が妥当でしょう。「傘のうち」は第二連の「梅花(ばいくわ)の油黒髮の/亂れて匂ふ傘のうち」は男性側の視点を感じさせますが、第三連では「染めてぞ燃ゆる紅絹(もみ)うらの/雨になやめる足まとひ」と詠まれていることから語り手は女性に移っているように見えます。しかし第四連の「歌ふをきけば梅川よ/しばし情なさけを捨てよかし/いづこも戀に戲(たはふ)れて/それ忠兵衞の夢がたり」に出てくる「梅川」「忠兵衞」は近松門左衛門の人形浄瑠璃の主人公たちですから、教養からするとこの語り手は男性詩人のように思えます。最終連の第五連でも「こひしき雨よふらばふれ/秋の入日の照りそひて/傘の涙を乾(ほ)さぬ間まに/手に手をとりて行きて歸らじ」と語り手が男女どちらかの決め手になる語句は出てこないので、結局この詩も語り手の性別は判然としません。
この三篇はいずれも島崎藤村が『若菜集』で初めて果たした詩の改革で、洗髪、秋風、相合傘といずれも今日では当たり前のように使われる題材ですが、悲憤慷慨や立身、史事など従来の漢詩系統ではない、また江戸文学(上方文学では西鶴、近松らの市民恋愛悲劇の達成がありましたが)のように遊廓遊戯ではない市井の恋愛詩を発明したことで、画期的な役割を明治の日本文学に果たしたものです。恋愛そのものが文学としては語るに値しないものと目されていた当時にあっては『若菜集』は題材、修辞、文体ともに破格のもので、これは藤村の年長の盟友・北村透谷が論壇において提唱していた(そして透谷自身の自殺によって挫折した)文芸思潮を初めて作品に定着することに成功したものでした。洗髪、秋風、相合傘が藤村以降どれほどの恋愛詩や恋愛小説に使われてきたかを思えば『若菜集』は120年前の詩集どころか現代文化の源泉にもなっているのです。しかし一見古めかしいながら内容は平易で単純に見えるこれら「髮を洗へば」「君がこゝろは」「傘のうち」が人称の上で連ごとの混乱を含んだ詩なのが藤村自身の意図か失策かはにわかに断定できず、藤村の詩でも『若菜集』の「初戀」や連作「六人の處女」、『落梅集』の「小諸なる古城のほとり(千曲川旅情のうた)」、連作「胸より胸に」などではこうした混乱は見られないことから、これら「髮を洗へば」「君がこゝろは」「傘のうち」は効果と印象を狙ってあえて人称的混乱を残した詩篇と見られ、『若菜集』の段階ではまだ藤村の手法は実験的段階にあったとも、また当時の読者にもこの人称の不統一が不審とは思われなかった、前提として男性側からの視点が女性側の人称を包括した形式と読まれていたとも考えられます。一応この三篇もふと女性側の人称と思われる連があっても詩篇全体を男性側の視点によるものとすれば押し通せるのですが、ご紹介するために詩集から詩篇を書き出してみると前述したような視点の混乱、もしくは移動や錯覚が感じられるのです。藤村からさらに現代詩の改革を進めた薄田泣菫、蒲原有明の詩ではそうした視点の移動に明確な実験意識と成果が認められるので、これも現代からさかのぼって『若菜集』を読むからこそ感じられる錯誤かもしれません。