人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

スティーヴン・クレイン『街の女マギー』(続)

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 19世紀アメリカの夭逝作家スティーヴン・クレイン(Stephen Crane、1871~1899、享年28歳)の処女作にして第1長篇『街の女マギー (Maggie:A Girl of the Streets)』について引き続き読んでいく際に、再び作品の成立背景とあらすじを記しておきましょう。『街の女マギー』はクレインが大学入学直後の1891年(19歳)から学業と新聞記者のアルバイトのかたわら執筆を始め、同年には早くも大学を退学してニューヨークのバウアリー地区に取材におもむき、翌1892年(20歳)に完成するも刊行を引き受ける出版社はなく、21歳の1893年3月に亡父の遺産と兄からの借金で1100部を自費出版した、150ページ足らずの作品でした。当時のアメリカ文壇の大家ウィリアム・ディーン・ハウエルズやヘンリー・ジェームズへの献本は賞賛の返信を受け取るも、新聞・雑誌には書評さえ出ず、販売してくれる書店もなく、クレインはみずから露店商を開いて販売しましたがほとんど売れず、ゾッキ本として買い取った業者はかま焚き用の用紙として売りさばきました。1980年代にアメリ国会図書館が調査したところ現存部数はわずか24冊、その時点で1部400万円の古書価がついていたそうですから、現在では1部1000万円を越えているでしょう。日本で言えば市場に出回る前に回収され数部のみが密かに流出した北村透谷(1868~1894)の幻の処女長篇詩『楚囚之詩』(明治22年/1889年刊)に匹敵するほどの稀覯書です。

 スティーヴン・クレインは同世代のフランク・ノリス(1870~1902、出世作死の谷~マクティーグ』)』1899年)、セオドア・ドライサー(1871~1945、処女作『シスター・キャリー』1900年)と並ぶアメリ自然主義の小説家とされますが、実際のクレイン作品はゾラとモーパッサンを代表とする1880年代のフランス自然主義小説、島崎藤村(1872~1943)や田山花袋(1872~1930)、徳田秋声(1872~1943)を代表とする日本の自然主義小説はおろか、社会的関心が広く劇的な構成に富んだノリスや、自然主義ロシア文学的な重厚な性格描写と問題性を加えたドライサーとも異なる、非常に不思議な作風のものです。クレインは第2長篇の戦争小説『赤い武勲章(『勇気の赤い武勲』)』(1885年刊)がベストセラーとなり、出世作となりましたが、結核で夭逝するまで5作の長篇小説は規模は中篇小説程度で、本格的な長篇小説作家としてはまだこれからの人でした。ノリスやドライサーはゾラやモーパッサン並みの大作長篇を残し、特にドライサーはアメリカ文学史上ヘンリー・ジェームズとウィリアム・フォークナーを橋渡しする大作家になりましたが、クレインの優れた長短篇小説を読んでも、もし長命を得てもドライサーのような大作型(『アメリカの悲劇』1925年)の小説家にはならなかっただろうと思えます。資本主義搾取社会批判の小説家、フランク・ノリス(『オクトパス』1901年)の作風は後のアプトン・シンクレアに受け継がれました。国家と社会、資本主義、法と倫理に翻弄される人間ドラマを捉える自然主義的視点はクレインにもあるのですが、ノリスやドライヤーのような雄大な構想力は乏しかったのです。その点では没落士族家庭の長女として下町で暮らし、下町少女の和歌教師として細々と一家を養っていた樋口一葉(1872~1896、『大つごもり』1894年、『たけくらべ』1895年)より生活経験に乏しく、作家志望のボヘミアン大学生のまま専業作家になった弱みは否定できません。24歳の短い生涯で一葉がたどり着いた晩年の中短篇は庶民や子供たちの世界から真実を射抜き、普遍性や完成度では類を見ない、完璧な成熟に達したものでした。クレインの作品は28歳の享年からは十分天才的ですが、同時代の日本の女性作家・樋口一葉と較べると、その才能はまだ発展途上で途絶した観が強いのです。

 ただしクレインは自分の作家的力量とその限界を自覚しており、そのため題材は自然主義的でありながら、文体や構成を始めとする手法は意識的に独自の印象主義的な作風になったと解せます。極度に圧縮され、かつ抽象度の高いクレイン作品が、1920年代のモダニズム以降にヘミングウェイを筆頭とするモダニズム作家・詩人たちから再評価されたのは、クレイン作品の自然主義的側面ではなく、モダニズムに先立つその印象主義的作風にありました。処女作『街の女マギー』は原書にして150ページ、いずれも短い全19章からなり、内容は四部または五部に分けられます。
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 第一部(第1章~第3章)は、スラム街の不良少年ジミーが、敵対する隣のスラム街の不良少年団と一人で喧嘩しようとする場面から始まります。劣勢のジミーは友人のピートと帰宅途中の父に助けられ、妹のマギー、よちよち歩きの弟のトミー、先に帰宅していた残忍で酒浸りの父、そしてやはり酒浸りで家事も育児も放棄した母メアリーのいるジョンソン家に帰ります。アイルランド移民の両親は夫婦仲も悪く、日常的に子供たちを虐待しています。

 第二部(第4章~第9章)では数年が経ち、末子のトミーと父親は亡くなり、マギーは盗んできた花束をトミーの棺に添えます。貨物馬車の馭者として働くジミーはさらに乱暴でシニカルな無法者へと成長しています。美しい少女に成長したマギーはシャツ工場で働き始めますが、マギーの努力は酒浸りの母親の浪費によって台無しになります。マギーは兄の友人ピートとつきあい始めます。バーテンダーとして働くピートはマギーの目に立派な人物に映り、今の生活から抜け出させてくれると思いこみます。下心のあるピートはマギーを誘惑するため劇場や博物館のデートに連れて行きます。ある夜、兄ジミーと母メアリーはマギーを「悪魔の所業(街娼)をやった」と罵倒し、耐えかねたマギーはピートを頼って家出します。

 第三部(第10章~第14章)で、ジミーは自分も近所の少女たちをたぶらかし、堕落させてきたにもかかわらず、マギーを誘惑したピートのバーに行き喧嘩を始めます。ピートの勤めるバーの地下にある売春窟の女たちがピートをかばいます。安アパートの隣人たちがマギーの噂話に興じる中、兄ジミーと母メアリーはマギーをかばうどころか、隣人たちと一緒にマギーの悪口を言いふらします。

 第四部または第四部・第五部(第15章~第16章・第17章~第19章)では、売春窟の「聡明で大胆な女」ネリーがマギーを度胸のない哀れな女と呼び、ピートにマギーと別れるよう促します。すでにマギーに飽きていたピートはマギーを捨てます。頼る者のなくなったマギーは家に帰ろうとしますが、母親に拒絶され、アパートの住人全員から蔑まれます。第17章では、「彼女」とだけ呼ばれる街娼が通りをさまよい、次第に治安の悪化する方へスラム街を転々とし、夕暮れに職場から帰宅する工員たちを客引きするも失敗をくり返し、橋の上に着くとみすぼらしい酔っぱらいに追いかけられ、ようやく逃げると、夜のビル影が映る川面をじっと見つめます。第18章では、ピートが酒場で「聡明で大胆な」6人の着飾った売春婦たちと飲んでいます。ピートは泥酔して気を失い、姉貴分のネリーらしき女がピートの財布を奪います。最終章の第19章では、帰宅したジミーが母親メアリーにマギーが死んだと告げます。酔った母親はマギーが赤ん坊だった頃の小さな靴下を取り出して自己憐憫に浸り、隣人たちが慰める中、「私はマギーを許すわ!」と絶叫します。
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 と、あらすじにするとゾラの『ナナ』(1880年)のような自然主義小説の常套の庶民の少女の堕落物語になりますが、『街の女マギー』の独創はほとんど説明的な性格描写や物語展開の細部を飛ばし、映画の先取りのように各章ごとを独立した場面で構成したことにあります。映画でこうしたシーン分割によって物語を進める話法が確立するのはD・W・グリフィス(1875~1948)の1909年以降の短篇映画からなので、『街の女マギー』はニューヨークのスラム街の不良少年少女たちの抗争を描いた、初期グリフィスの傑作『ピッグ横丁のならず者たち (The Musketeers of Pig Alley)』(バイオグラフ社、1912年)を連想させます。『マギー~』においては、まず冒頭の第1章で描かれるスラム街の不良少年たちの喧嘩でも、マギーの兄ジミーや敵対する不良少年たちの性格描写なしに、ジミーと名前だけで呼ばれる少年が、ブルー・ビリーやライリー、親分らしい「16歳の少年」と呼ばれる隣のスラム街の不良少年たちと殴りあい、通りかかったピートに加勢され、工事から帰宅途中のジミーの父の姿を見て少年たちが散っていく、という行動と情景描写しかありません。第2章でジミーが帰宅したジョンソン家の描写も、ヒロインであるマギーすら「みすぼらしい服の少女」として登場し、家族の会話で「マギー」と呼ばれるまで名前すら地の文に表れません。この徹底したカメラ・アイ手法は街娼に身を落とした「彼女」マギーが川に投身自殺することが暗示される第17章、バーテンのピートがバー地下売春窟の女たちと酒盛りに興じた挙げ句泥酔してネリーらしき売春婦の一人に財布を盗まれる第18章、死因さえ明かされず兄のジミーが「マギーが死んだ!」とだけ母のメアリーに告げる第19章(最終章)でピークに達するので、この小説は行動と台詞(会話)、暗示だけでできています。第17章の「彼女」がマギーなのか、川に投身自殺するのかも代名詞と暗示でしか書かれておらず、またこうした手法のため各章で起きた出来事の因果関係の説明も一切省かれています。マギーの堕落のきっかけになる母メアリーのアルコール依存症と虐待、女たらしで売春窟併設のバーに勤めるバーテン・ピートの性格も母メアリーの陰口、裏表あるピートの行動(マギーに対するピート、バーの地下売春窟でのピート)を通して読者が読み取るしかありません。上下巻に渡る『ナナ』や『ベラミ』(モーパッサン、1885年)のようなリアリズムに徹したフランス自然主義の、細部にいたるまで精密描写で書かれた小説とは、真っ向から対照的な手法で書かれています。こうしたクレインの手法はベストセラーになり出世作となった戦争小説の第2長篇『赤い武功章』(1894年完成、1895年刊)、『街の女マギー』の姉妹作(乙女時代のマギーに失恋するスラム街の内気な青年とその母の物語)の第3長篇『ジョージの母 (George's Mother)』(1895年完成、1896年刊)で、より精密に磨かれていきます。クレインがモダニズム時代に自然主義作家としてではなく再評価されたのは、ヘミングウェイの第1短篇集『われらの時代に (In Our Time)』(1924年)やドス・パソスの第4長篇『マンハッタン乗換駅 (Manhattan Transfer)』(1925年)、フォークナーの第4長篇『響きと怒り (The Sound and the Fury)』(1929年)のように散文詩と小説体が交互に交響する構成を発想として備えていたためで、確かにクレインの実験性は映画的手法のとともに20世紀文学を先取りするものでした。

 スティーヴン・クレインがこうした手法を取ったのは、フランス自然主義小説の英訳を読んで『街の女マギー』の執筆に着手した19歳~完成・自費出版した21歳までの社会経験の不足と作家的技量がまだまだ未熟だったため、とも言えるでしょう。またクレインは自費出版前にジャーナリズムのアルバイトのつてで複数の出版社に持ち込み出版を断られていますし、当時のアメリカの倫理規制はヨーロッパ諸国より厳しく、特に性についてのあからさまな記述は即発禁回収、さらに罰金刑の危険もありました。そうしたさまざまな要因のため、このクレインの処女作『街の女マギー』は喩えれば、いわばあちこちのピースが欠損した、ジグソーパズル、または裏側から見た刺繍のような小説です。樋口一葉晩年の透徹した庶民階級の人物の性格把握と、豊かな想像力と説得力・完成度の高い小説とは比較にならないほど欠陥だらけの小説です。しかし結果的に『街の女マギー』は、その曖昧な印象主義的描写と自然主義的題材の混淆によって、アメリ自然主義小説にとどまらない前衛性と、何度読み返しても薄れない瑞々しさに満ち、悲惨な境遇にある登場人物たちに作者が託した、悲しみと痛みを痛切に伝える小説になったのです。今回もほとんど前回のくり返しになってしまいましたが、大事なことは二度くり返してもいいではないかとご容赦いただければ幸いです。