結局詩人が告白したかったのは、自分が告白しうる過去を持ち、それを告白できる人間に生まれかわったこと、という希望でしょう。「ここには誰もいない--//スカンクだけだ」がこの詩の胆をなす所以です。
おそらく詩人は野性とともに母性を自己回復のために求めていたのが、雄の単独行動スカンクではなく子連れの母親スカンクを描いたことで推察されます。これも詩人の内面を暗示させます。断定するべきことではありませんが、女性関係で幻滅を味わった過去が推察されます。「人生研究」に先立つ詩集の中に不倫と死を描いた長篇詩「入口と祭壇」があり、衝撃力と告白性ではむしろ「スカンクの時間」を凌駕するほどです。
トリニタリアン教会はカトリック。スカンクは意にも介さず街路を進み、語り手はいつの間にか家の裏口階段のいちばん上にに立って(さっきまで車で丘の上にいたのに)rich airを吸いながら「けっしておそれることがない」スカンクを眺めます(and〈she〉will not scare.)。
巧妙な書き方なので一読では気づきませんが、語り手は帰り道にスカンクを見かけたとしても最終連のスカンクは現実のスカンクではなく語り手のによって理想化された想像上のスカンクでしょう。時間経過と舞台転換からしてそれ以外考えられません。捕獲して車に乗せ自宅の裏口に放したなら別ですが(笑)。
これでやっと最終連まで解説できました。こうやって詩を読み解いていくやり方をぼくは深瀬基寛「エリオット」で学びました。解釈には異論がありますが、推薦します。
翻訳してみて解説も書いてなんですが、ぼくはこの詩は「魅力的な失敗作、ただしサンプルとしては成功」という感想を持ちました。構成があまりに図式的にすぎる。前半のノーチラス島の人物群像は詩人のペルソナであればいいので、まったく別物に置き換えてもいい。その意味でこの詩は緊密性に欠ける。
後半の展開も予定調和。そうした作為性がサンプルとしては成功したが、本当に心を奪う詩にはならなかった。
そんなところです。やっぱりコメントへの回答にしては長くなってしまい、やむなく本文回しとなりました。たった48行にこれだけの(さらに検討すればもっと)情報量があるのが、詩の面白さです。それを感じていただければと思います。