人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

夜ごと太る女のために(4)

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前回は例によって文字数制限いっぱいに本文を書いたため図版に何の説明もなかった。そこで再掲載。これがキャラヴァン73年の名作「夜ごと太る女(For Girls Who Grow Pump In The Night)」のアルバム・ジャケットでございます。意外に思う方もおられるのではないか。タイトルの直訳に感じる揶揄的な印象はジャケットにはない。そういう曲名や歌詞もない。
キャラヴァンはいわゆるプログレッシヴ・ロックのバンドで、技巧に走らない上品な音楽性で今でも評価は高い。ではこのタイトルはいったい何なのか?

ずばりこれは、ダダイズム的なユーモアなのだと思う。作品の実体とはまったく無関係なタイトル。文学より美術のダダの方が例えにはいい。マルセル・デュシャン。代表作は便器と割れたガラスで、便器は「泉」、ガラスは「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」と題されている。

美術の前衛がフォルマリズム、抽象主義に向かっていた時期に、ダダは一気に芸術の破壊へ進んだ。中でもデュシャンは突出していた。ダダの画家の多くはシュールレアリズムというかたちで芸術性の回復に向かったが、デュシャンは作品制作すら放棄しコンセプトだけを提示する反・芸術家となった。発想が常に日用品から離れなかったというのも興味深い。

たとえば晩年のデュシャンはオリジナルおみくじに凝っていた。会心作にこういうのがある。

「だけれども死ぬのはいつも他人ばかりなり」

さすが「もう作品制作はしないんですか?」と訊かれるたびに、
「人生の方が大事だ」(実家も奥さんも資産家だったのは言うまでもない)と答えていた人だけある。しかもこのおみくじは真理を捉えていて不吉だ。

ゴダールの処女作「勝手にしやがれ」(59年)は5年後の「気狂いピエロ」と双璧をなすジャン=ポール・ベルモンド主演の傑作だが、原題の直訳は「息切れ」になる。実際リチャード・ギア主演のリメイクの邦題はそのまま「ブレスレス」となっていた。
勝手にしやがれ」があまりにキマリすぎた邦題なので「息切れ」というと何か間の抜けた感じがする。
だがデュシャンのおみくじに「死ぬのはいつも他人」と共に「息切れ」という言葉が出てきたらどうか。「勝手にしやがれ」もそんな不吉な映画(「~ピエロ」はさらに不吉だが)ではなかったか?