人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年3月29日~31日/エルンスト・ルビッチ(1892-1947)のハリウッド作品(3)'40年代から3作

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 エルンスト・ルビッチ(1892-1947)監督作品から9作観直しての感想文も今回が最後になります。ルビッチのハリウッド進出後の作品のうち'20年代、'30年代、'40年代から3本ずつ、一応代表作と言えるものが揃ってはいますが、'20年代から3本はあれでいいとして'30年代にはまだまだ他にも代表作と呼べる作品が多く、晩年に属する'40年代作品はすべて代表作と言えるだけに本来なら今回観直したよりも倍以上の本数を通して観てから語るべき監督です。特に'43年の、ルビッチ自身による生前葬のような引退作的名作『天国は待ってくれる』を落としたのが痛い。同作は1990年に日本初公開となった作品ですがキャプラの『素晴らしき哉、人生!』'46を先取りした設定で(それを言えばルビッチがスウェーデンサイレント映画の古典、シェーストレムの『霊魂の不滅』'20を観ていないわけはないので、特に独創的な設定でもないですが)、キャプラ作品が往年の冴えがなくなってペーソスに切り替えたなという観があるのに対して『天国は待ってくれる』はルビッチは最後までルビッチだったと嬉しくなるような脳天気で楽しい臨終コメディでした。実際はルビッチは同作の後心臓疾患の療養で3年休み『小間使』'46で復帰、翌'47年『あのアーミン皮の貴婦人』'48(ルビッチに師事したオットー・プレミンジャーにより完成公開)撮影中に心臓発作で急死しますが、ルビッチ邸に居候していたビリー・ワイルダーの証言ではセックス(誰と?)後にシャワー室で倒れたとのことで、心臓疾患も抱えていたし財をなし地位も名誉も得た'40年代は1年1作のどれもがこれがヒットしたら引退してもいいや→ヒットしたからもう1本作ろう、という調子だったと思われ、実に悠々自適の巨匠の晩年という気がします。現在ではめったに語られない『結婚哲学』以前のサイレント作品も少なくとも15本はYouTubeに確認できたので(第1回参照)うち3本しか観たことない作品ですがそれはいずれまたの機会にして、'40年からの年1作の連続3作の感想文で今回のルビッチ編は区切りをつけることにします。

●3月29日(木)
『桃色の店 (街角)』The Shop Around the Corner (MGM, 1940)*99min, B/W、日本公開昭和22年('47年)8月12日; https://youtu.be/xr3nsHRKZJA (Trailer)

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○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より)「天使」「青髭八人目の妻」のエルンスト・ルビッチが製作、監督した映画で、「お人好しの仙女」のマーガレット・サラヴァンが「わが家の楽園」のジェームズ・スチュアートと主演する。ニコラウス・ラスロ作の戯曲に基づいて「断崖」のサムソン・ラファエルソンが脚本を書いたもの。助演は「お人好しの仙女」のフランク・モーガン、「三銃士」のジョセフ・シルドクラウト、「美人劇場」のフェリックス・フレサート、「緑のそよ風」のセーラ・ヘイドン等で、撮影は「征服」のウィリアム・ダニエルスが指揮している。
○あらすじ(同上) ハンガリーの首都ブタペストのとある街角に、中流の客を相手の雑貨店がある。主人のマトチェック(フランク・モーガン)は35年間この商売をして、かなりの財産を蓄えたが子供がなく、家庭はさびしかった。それだけに商売は熱心で、店員も六人いる。若いクラリック(ジェームズ・スチュアート)は9年前に丁稚にきて今は一番の古顔で販売主任格であった。彼よりは年上のヴアダス(ジョゼフ・シルドクラウト)、妻子あるピロヴッチ(フェリックス・ブレサート)、女店員のフロラ(セーラ・ヘイドン)、イローナ(イネズ・コートニー)、丁稚のペピ(ウィリアム・トレイシー)の五人がクラリックの下で働いている。クラリックに対する主人の信用は対したもので、晩食によばれるのも店員では彼一人である。店は夏の買い出しで忙しかった。そこへクララ(マーガレット・サラヴァン)という女が販売係りに雇って貰いたいといってきたが、六人でも多すぎるくらいなので、クラリックは独断で断った。そこへ主人が顔を出したので、彼女は今度はマトチェックに申し込む。折しも一人の女客(サラ・エドワーズ)が来たのを捕らえ、クララはクラリックが売り物にならぬと言って仕入れを断るはずになっていた煙草入れを巧みに売り付けた。クララが店員となりクラリックの胸は穏やかではなかった。二人はことごとにいがみ合った。そのころから主人も無口になり、特にクラリックによそよそしくなった。クラリックは新聞広告で見た見知らぬ女と文通していた。女は手紙で見ると相当教養もあり、美しい処女であるように想像された。面会を申し込めばできるのだか、楽しみがなくなるようでもあり、怖いようでもあり会わないままで文通を続けていた。こうしてクリスマスにも近いある日、理由もなくクラリックはクビになった。その日の晩にクラリックはかの見知らぬ女性と初会見をする約束だったが、失業しては会う元気もなかった。その晩マトチェックの店に訪問客があった。かねてマトチェックが頼んでいた私立探偵(チャールズ・ハルトン)で、彼の夫人の愛人は店員ヴァダスだという報告だった。マトチェックが自殺を企てたとき助けにきたのはペピであった。ペピの急報にクラリックは主人を病院へ見舞いに行った。マトチェックは疑ってすまなかったとわび、改めてクラリックを支配人に任命し、ペピも販売員に昇格した。新支配人はヴァダスをクビにし、病気で休んでいたクララを見舞った。彼が文通していた女はクララだった。二人が結婚するのは近々らしい。

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 アメリカ議会図書館選定アメリカ国立フィルム登録簿保存登録作品(1999年)。ハンガリーが舞台といっても街中の看板や貼り紙は英語、人名や服装がそれっぽいだけで本作はニューヨークのハンガリー移民地区が舞台でもいいような作品で、ルビッチがやりたかったのは下町人情ロマンス映画なのは明らかです。時勢はドイツが東欧諸国を次々と侵略していた頃ですから、アメリカ人の多くを占めるヨーロッパ諸国からの移民二世、三世にとっては心痛む時代だったでしょう。本作は平和な時代のハンガリーブダペストの街角の店(原題)に勤める店員たちの淡々とした日常と淡い人情ドラマの中から生まれるロマンスを描いてまるで最上の出来の松竹映画のようですが、それは順序が逆で、戦前の松竹映画がサイレント時代のルビッチやスタンバーグの都会喜劇や人情ドラマに感化された監督たちを多く抱えて人気を得ていたことから生まれた松竹映画の伝統なので、オリジナルはルビッチの『結婚哲学』『思ひ出』やチャップリンの『巴里の女性』『街の灯』、スタンバーグの『紐育の波止場』であり、それらに通じるルネ・クレールのパリの下町連作です。本作もルビッチ映画の例に洩れずキャスティングが見事で、この映画のジェームズ・スチュアートは実はあんまり感じの良くない、感情表現が下手で対人関係がうまくこなせない性格設定ですから作中の役柄のように有能な売り場主任とはとても思えず、つまり性格設定と役柄がかみ合っていないのですが、ハンガリー人の雑貨店店員などこんなものだろうという人種的な見方から雰囲気には合っている。これがニューヨークの雑貨店店員ならスチュアートのようなぼんくらでは勤まらないので、他の冴えない店員たち(オールドミスふたりも合わせて)もそんな感じです。店のオーナー役で妻の浮気相手がスチュアートと邪推して理由も言わずにクビにするフランク・モーガン(同名のロサンゼルスのパーカー派黒人アルトサックス奏者とはもちろん別人)の初老のハンガリー人雑貨店店主ぶりも存在感があって実にいい。妻の浮気相手は店員中唯一如才なく他の店員から好かれていないジョゼフ・シルドクラウトなのですが、これも裏表のある軽薄な好漢ぶりが自然に信用ならないやつというキャラクターを臭わせていて食えない演出です。スチュアートの親友といえるのが妻子持ちの店員仲間フェリックス・ブレサートですが、前作『ニノチカ』の能なし三人組のひとりブルジアノフ(笑)役の俳優で、ユダヤ系の気弱でお人好しのキャラクターを演じて今回も見事にはまっています。
 映画の山場になる、スチュアートの文通相手が実は新入り女店員マーガレット・サラヴァンと判明する喫茶店での初デートの約束場面は、店をクビになったばかりのスチュアートを慰めに来たブレサートについて来てもらって一方的にスチュアートの側から文通相手がサラヴァンだとわかる運びになっており、ここまでで映画はまだ前半で、後半はどうやってスチュアートがサラヴァンに自分が文通相手だと明かすかというのが主眼になります。まず店主モーガンからの誤解が解けて解雇が撤回され妻の不貞のショックで療養中のモーガンに代わってスチュアートが店長代理になる、店ではサラヴァンは意識して気丈な振る舞いで通しているので何かとスチュアートにつっかかってくる。それはスチュアートが文通相手がサラヴァンだと知る前からなので以前はスチュアートも本気で怒っていたが、繊細な手紙のやりとりをしていた相手がサラヴァンだと知ってしまうと負けず嫌いの性格からわざとつっかかってくるのがわかってしまって怒りより困惑してサラヴァンがいじらしく思えてきて、そういうスチュアートのリアクションの変化に徐々にふたりの関係も変わってくる。その間もスチュアートとサラヴァンの匿名の文通は続いているので、サラヴァンがどれほど相手のことを理想化して夢見ているのかもスチュアートはサラヴァン自身から聞かされる。結末はキネマ旬報の紹介記事通りですしあらすじを読まずに映画をご覧になればなお良いでしょう。本作は文通を電子メールに置き換えてトム・ハンクス主演作『ユー・ガット・メール』'98にリメイクされています。ルビッチらしさという点では豪快な辛辣さや隠微なエロティシズム、痛烈な皮肉やばかばかしさ、表現の微妙さを抑えて広い観客層に受け入れられるような優しい上出来の市井恋愛ロマンス映画になっているのがパワー全開の時のルビッチとは違いますが、アメリカ参戦も間近な世界情勢のこの頃、こういう万人受けする小品を作っておきたかった移民一世のルビッチの気持もわかるような気がして、本作はアメリカ人観客のうち総合すれば数多い少数民族系移民への慰問映画という意図があり、それがさりげないようでいていつまでも心に残る名作と定評を呼んだ本作の隠し味になっているのだと思います。また映画の中盤で視点人物スチュアートの側には文通相手がわかってしまうという構成はシナリオの立て方としては大胆で、そのあたりにも相手の正体が判らない同士(観客にはばらしておく)が結末で一気に結ばれる、という常套手段ではない工夫が複雑な味わいを生んでいるあたりは、やはりルビッチならではと感心させられます。

●3月30日(金)
『淑女超特急』That Uncertain Feeling (MGM, 1941)*84min, B/W、日本劇場未公開・映像ソフト発売; https://youtu.be/1AKoQcczNNc (Full Movie)

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○解説(キネマ旬報映画データベースより) ピアニストとの不倫に走った妻を奪還すべく奮闘する夫を描くロマンチック・コメディ。監督は「桃色の店」のエルンスト・ルビッチ。出演はマール・オベロン、メルヴィン・ダグラス、バージェス・メレディスほか。ルビッチ監督の「当世女大学」(1925)のセルフリメイク。日本未公開作。1992年に"ルビッチ生誕100年記念"としてVHSがリリースされた。
○あらすじ(同上) 結婚生活に失望した不眠症に悩む人妻ジル・ベイカー(マール・オベロン)が、ピアニストのセバスチャン(バージェス・メレディス)と恋仲になるが、それを知った夫のラリー(メルヴィン・ダグラス)は猛然と奪還作戦を開始する……。

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 前回ご紹介した『君とひととき』'32がサイレント時代の『結婚哲学』'24のセルフ・リメイクだったように本作もサイレント時代の『当世女大学 (Kiss Me Again)』'24のリメイクで、『君とひととき』は『結婚哲学』と比較して観ることができますが『当世女大学』のオリジナル・ネガはワーナー・ブラザース社自身によって廃棄(Junk)されてしまいました。ワーナー社の記録では'48年12月27日に廃棄作業が行われ、同社では'40年代末から'50年代初頭にかけて1933年以前の(発火性の強い)ニトロ式(Nitrate)フィルムによる映画の一斉廃棄作業が行われたそうで、その際耐久性のある現行素材フィルムへのコピーは一切取られず、また市場からも上映用プリントは回収済みでこちらも回収する端から廃棄していたため現在『当世女大学』の現存プリントは存在を確認されていません。古典映画の組織的保存運動が起きるのが'50年代半ばのフランス、ようやく世界的規模に定着するのが'80年代ですからトーキー初期までの映画はヒットし名作と評判を呼んだ作品さえも再上映の需要かよほどの偶然でもないとオリジナル・ネガはおろか上映用プリントすら残らなかったので、アメリカ国内作品だけでも確認された1933年以前の映画の残存率は28%、つまり82%の映画は廃棄もしくは行方不明ということになります。残存しているサイレント作品すら字幕を差し替えた海外版だったり再上映用短縮版だったりするので、サイレント時代末期の作品などはすぐトーキー作品に上映の場を奪われたので、ムルナウ最後の長編劇映画『四人の悪魔』'28やスタンバーグのサイレント時代最終作『女の一生』'29がキネマ旬報ベストテンに入った公開当時名作と誉れ高かった作品なのにスチール写真しか残っていない。日本映画など'20年代~'30年代作品で完全版が残っている作品など全体の割合から見ればほとんどないほどで、とにかく本作はサイレント版『当世女大学』のリメイクだけれどサイレント版は観ることができないとだけ心得ていればいいでしょう。本作のテーマはカール・Th・ドライヤーのサイレント喜劇『あるじ』'25(原題直訳なら「亭主再教育」または「亭主改造」)と同じで、「女房再教育」または「女房改造」というところです。邦題が『淑女超特急』となったのは往年の代表作『極楽特急 (Trouble in Paradise)』'32にあやかったものでしょう。有閑マダムが調子に乗って公然と愛人を作って亭主を追い出すが、この愛人のピアニストが熱が冷めればとんでもない変人で奥さんも音を上げ、亭主に許しを乞いて家に呼び戻して(亭主の方は最初からこうなる成り行きを予期している)、愛人を叩き出してもらう、といういかにも『結婚哲学』に続くサイレント作品だったのが納得できる話で、'40年代作品だからルビッチの代表作として上げることもできますが、これは『メリイ・ウィドウ』'34後の一時休業後に『天使』'37、『青髭八人目の妻』'38、『ニノチカ』'39、『桃色の店 (街角)』'40と年1作で名作を連発してきたルビッチの箸休め的な1作、といったところでしょう。出来はすこぶる良い小品ですが、サイレント時代の作品のセルフ・リメイクでお茶をにごした観は否めません。
 しかし本作発表の'41年といえば『マルタの鷹』に始まるフィルム・ノワール元年で、同作や『ヨーク軍曹』、『偽りの花園』『市民ケーン』『断崖』など並みいる名作の中からジョン・フォードの真面目映画『わが谷は緑なりき』がアカデミー賞作品賞で、翌年は『ミニヴァー夫人』、翌々年は『カサブランカ』と確かに名作ばかりには違いないですが、崖っぷちに追いつめられてもルビッチならば絶対撮らないような映画ばかりです。そうしたアメリカ映画界の風潮にノリまでサイレント時代の'25年のままのお気楽な艶笑コメディを平然とまた作ってしまうあたりがルビッチらしいと言うか、本作はクレジット・タイトルの後いかにもサイレント映画風に字幕画面から始まります。1枚タイトルで「人類(The Man)は進化の歴史の中であらゆる場所を征服してきた。ただ一つの場所を除いては――」実写カット「女子トイレ」。ドアを開けて出てくる夫人たちを過ぎてカメラが室内に入ると鏡に向かって化粧を直しながらおしゃべりしている夫人たち、という具合で、この頃よく眠れないから精神科にかかっているのという話にヒロインのマール・オベロンが「私しゃっくりが止まらないのよ」「それは精神科に行った方がいいわ」そして精神科通いしているうちにしゃっくりが出てくるきっかけがいつも夫のメルヴィン・ダグラスがふざけて脇腹を突っついてくる時と気づいた頃、待合室で知りあった男性患者がボサボサ髪の変人ピアニストのバージェス・メレディスで、生命保険会社取締役の夫にない芸術家然としたメレディスの言動は芸術家というよりただの変人なのですが(口癖が"Fool It!"で、日本盤DVDでは「ダサッ」と訳されているのがまた何とも……)、のぼせ上がったヒロインにはメレディスを主賓にホーム・パーティを開いたりする。メレディスがピアノを弾こうとするとダグラスが慌てて高級花瓶を戸棚に避難させたりする。メレディスベートーヴェンの『悲愴』を弾きます」隣室に移ろうとするダグラス、その友人が「長い曲なのか?」「葉巻3本分だ」カット変わって曲が終わるとパーティ室にはピアノに向かうメレディスとピアノにもたれかかるヒロインしかいない、「ダサッ」という調子でメレディスがヒロインの友人から居候になり、ついに夫から出ていくから離婚手続きをしよう、という話になります。夫がホテル住まいになるとようやくヒロインもメレディスの変人ぶりに気づいてくる。調子に乗ったメレディスがヒロインの脇腹を突っついてしゃっくりが出て、ヒロインは泣く泣く夫を呼び戻しに行く。まだまだあるのですが、だいたいこういった調子で時代背景は違ってもサイレント作品『当世女大学』のストレート・リメイク作り自体をルビッチが楽しんでいる感じの盆栽趣味的な映画です。観ている間はいまいちだなあと思ってしまいますが、感想文を書いているうちにそう悪くない映画なんじゃないかと思えてきました。これはこれでルビッチ本来の趣味全開の作品で、作りたくて作った映画に違いないと思えるからです。ちなみにバージェス・メレディスは『ロッキー』'76でシルヴェスター・スタローン演じる主人公のボクサーのトレーナー役のあの人です。意外なところに意外な人が出ているものです。

●3月31日(土)
生きるべきか死ぬべきか』To Be or Not to Be (Romaine Film Corp. / United Artists, 1942)*99min, B/W、日本公開昭和64年('89年)6月28日; https://youtu.be/7W_B10VbYjI : https://youtu.be/n4KQTrMLWmI (Trailer)

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○解説(キネマ旬報映画データベースより) ナチス占領下のワルシャワから脱出する俳優一座の姿を描くコメディ映画。製作はアレクサンダー・コルダ、監督はエルンスト・ルビッチ、脚本はエドウィン・ジャスタス・メイヤー、撮影はルドルフ・マテ、音楽はウェルナー・ハイマンが担当。出演はキャロル・ロンバート、ジャック・ベニーほか。
○あらすじ(同上) 39年のワルシャワ。俳優のヨーゼフ(ジャック・ベニー)とマリア(キャロル・ロンバート)のトゥラ夫妻は、シェークスピアの「ハムレット」の中で、2人でハムレットとオフェーリアを演じ、当たりをとっていた。ある日マリアは、若くハンサムなポーランド空軍のソビンスキー中尉(ロバート・スタック)に言い寄られ、夫ヨーゼフが「生きるべきか、死ぬべきか……」の長ゼリフの場面を演じている間、楽屋で中尉との逢瀬を楽しんでいた。しかしその間にも、ポーランドの情勢は悪化し、一座もナチスを刺激しないように、政府から風刺劇「ゲシュタポ」の公演中止を言い渡される。やがてワルシャワもドイツ軍に占領され、ナチの暴虐に対しポーランド人の抵抗は続いた。その頃ロンドンに配属されていたソビンスキー中尉は、ワルシャワに向かったシレツキー教授(スタンリー・リッジス)がナチのスパイであることを知り、英国情報部の協力を得て、単身ワルシャワに帰国、知らせを聞いたトゥラー一座は、「ゲシュタポ」の衣裳であるナチの制服を着て、シレツキー教授を迎える大芝居をうつ。そして教授の陰謀を未然にくいとめた一座の人々は、やがてヒトラーポーランドを訪れたチャンスを利用して、ポーランドから脱出する計画をたてる。そして中尉の先導のもと、彼らは一座の人々の正体を知って追跡するドイツ軍を振り切って、イギリスへと旅立つのだった。

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 アメリカ議会図書館選定アメリカ国立フィルム登録簿保存登録作品(1996年度)。本作は撮影終了後に主演女優キャロル・ロンバード(1908-1942)が戦時国債キャンペーンのために全米各地を慰問旅行中飛行機の墜落事故で急逝したのち公開されました。主演女優の事故死という不吉さに重ねて本作はシリアスな題材をふざけて扱っていると批判の的になり興行的にも不振で、ルビッチのハンガリーからの亡命者の友人が書き下ろした原案によるオリジナル脚本の意図は当時の観客・批評家には伝わらなかったことになります。しかし今日では本作はルビッチ畢生の傑作でチャップリンの『独裁者』'40と同等かそれ以上の作品と評価され、ルビッチの弟子ビリー・ワイルダーの『ワン、ツー、スリー』'61は本作を冷戦下のスパイ映画として換骨奪胎し、また『メル・ブルックス大脱走』'83は本作の正式なリメイクです。公開当時は本当にナチスによる危機的状況が同時進行していましたしヨーロッパに親類を残してきた移民一世、二世も多かったでしょうから反ナチ映画とはいえふざけちらした喜劇映画、しかもチャップリンの『独裁者』のようにヒューマニズムを訴えた反ナチ映画ですら喜劇映画仕立てというだけで批判されたのですから、格別ヒューマニズムなど訴えもしない、舞台背景こそナチス侵攻下のポーランドワルシャワですが、いつもの調子で俳優夫婦の夫と浮気妻と間男の三角関係喜劇から始まった話が、いつの間にかレジスタンスに化けたナチス・スパイに渡ってしまった地下組織の名簿の奪取を賭けた争いになり、それが俳優夫婦の属するワルシャワ劇団まるごとのナチス出し抜け大作戦になり輸送機を乗っ取って国外脱出亡命に成功するという、およそつながりようがないようなものが自然につながっている映画が今日の目から観れば映画の魔法を見るような思いがしますが、公開時には何を言いたい映画かよくわからず不快感すら招いたのでしょう。ここではナチスは私利私欲で動いている侵略軍団でヒットラーの掲げたアーリア人帝国の理想などは形だけでワルシャワ市民から聞いたヒットラー・ジョークを影で笑いあっているような連中ですし、イギリス人教授に化けてロンドンから来たナチス・スパイは好色爺父丸出しですし、スパイから名簿奪還を謀る主人公も妻の浮気相手のイギリス人青年将校にひと泡吹かせたいからで、ワルシャワ一座の全員が主人公夫妻に協力するのも地下組織名簿がナチスにわたったら親類縁者友人知人が危ないからですが、何より主人公夫妻が劇団の主役俳優・女優で、座付け作者兼演出家がナチス侵略本部に全員潜入し(裏方含め全員が演劇人ですし、ちょうどナチスワルシャワ侵攻までに新作のナチス軍部風刺劇を準備してナチスの軍服一式作ってあったのです)、 輸送機を乗っ取って国外亡命しようという主人公夫妻の一座全員が力を合わせて向かわなければ実現できない大芝居を企てたからです。
 つまり本作には反ナチ映画につきものの類型化した小型ヒットラーの集団みたいなナチス軍人は出てきません。ナチス軍部がヒットラーの掲げたアーリア人至上主義などではなく物資と領土の剥奪を目的にした実利的軍隊であることをはっきり描いています。だから建て前のヒットラーの主義主張の話題になると軍人たち自身が恥ずかしくて必ずジョークのネタにしてしまう。またナチスを出し抜くワルシャワ一座も祖国ポーランドのためなど口にもしない。名簿奪還は近親者の安全のためですし、芝居一座ですから演劇人の芸をもってヒットラーから上位命令を持ってきた部隊になりすまし、ワルシャワ侵略本部長に命令して一部隊を運ぶ輸送機を出させる。実にちゃっかりした話で、別に「悪」のナチスに対する「正義」のための戦いではないのです。イギリスに亡命した一座はさっそく得意のレパートリー『ハムレット』の興行を打ちます。いかにしてナチスを出し抜いたかを上演したりしないのは、つい今しがた映画観客が観てきた通りだからですし、作戦成功に英雄気取りの人物はひとりも出てきません。国外脱出の亡命計画を成功させたのは劇団全員の力であって個人の手柄ではない、主演俳優・女優夫妻だけの手柄でもなければ座付け作者兼演出家個人の手柄でもないからです。またポーランドはドイツ同様に反ユダヤ人主義的思潮が伝統的な国で、ポーランド政府がドイツ在住のポーランドユダヤ人の帰国受け入れを公的に拒絶したことから2万人近いポーランドユダヤ人が難民状態になり、その中からドイツ大使館暗殺テロ事件の実行犯が出たことから1938年11月のドイツ国内のナチス突撃隊(SA、いわゆるナチス親衛隊=SSとは別組織)による反ユダヤ主義暴動、いわゆる「水晶の夜」事件が起こったとされます。ポーランド自体はドイツに劣らず自国のユダヤ人を迫害していた反ユダヤ主義的国家だったのは注意すべきで、そこにユダヤ系ドイツ人だったルビッチのシニカルな、決して現実は反ナチ=ヒューマニズム=親ユダヤという図式ではないことに対する醒めた視点があります。欧米諸国の大半は、アメリカも含めて基本的には反ユダヤ主義思潮が蔓延しており、ドイツはそれが極端な政策方針として現れたために欧米諸国各国のユダヤ系財閥が財界・政界・軍部に脅しをかけたのが第二次世界大戦の始まりであり、本作の劇団がポーランドに何の未練もなくイギリスへ亡命したのはユダヤポーランド人劇団だからです。本作が反ナチ喜劇を理由に批判されたのは的はずれで実際は触れてはいけないタブー、すなわちポーランドに代表されるようにどこの国だって反ユダヤ主義じゃないかという着目を隠蔽されてきたのはいずれ後世にはわかるさとハンガリー亡命者の友人からの原案を買った監督兼プロデューサーのルビッチは達観していたでしょう。本作のエグゼクティヴ・プロデューサーになったハンガリー出身のイギリスの大プロデューサー、アレキサンダー・コルダも偉ければ旧オーストリア=ハンガリー帝国(現ポーランド)出身のカメラマン、ルドルフ・マテも最上の仕事ぶりです。主人公の俳優役のジャック・ベニーは本名ベンジャミン・キューベルスキー、シカゴ生まれの両親ともポーランドユダヤ人移民の俳優・コメディアンです。こうした人たちが反ユダヤ主義国家ポーランドへのナチス侵攻にヒューマニズムとか反戦以前にまず、歴史や国家への皮肉を感じないわけはなかったはずではありませんか。