山村暮鳥(1884-1924)の詩集「聖三稜玻璃」1915(三稜玻璃は「プリズム」のこと)については前回解説した。この詩集最大の悪評は巻頭作『囈語』と、巻末近い次の作品による。
『風景~純銀もざいく』
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしゃべり
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな
(大正4年6月「詩歌」)
のちにモダニズムの人気詩人・春山行夫が詩集「植物の断面」1929で「白い少女」を1行6回×14行繰り返して物議をかもしたが、山村はさらに15年早いのだ。理解されるわけもない。
山村は視覚性もさることながらリズミカルな音楽性でも卓越していた。
『だんす』
あらし
あらし
しだれやなぎに光あれ
あかんぼの
へその芽
水銀歇私的利亜(ヒステリア)
はるきたり
あしうらぞ
あらしをまろめ
愛の「さもわる」に
烏龍茶をかなしましむるか
あらしは
天に蹴上げられ。
(大正4年4月「卓上噴水」)
また、山村は牧師を生業とした人でもあった。明らかに信仰をテーマにした作品がいくつもある。
『岬』
岬の光り
岬のしたにむらがる魚や
岬にみち尽き
そら澄み
岬に立てる一本の指。
(大正4月4月「詩歌」)
『いのり』
つりばりぞそらよりたれつ
まぼろしのこがねのうおら
さみしさに
さみしさに
そのはりをのみ。
(大正4年6月「新評論」)
『岬』の「岬に立てる一本の指」は灯台で、魚がむらがる光景。『いのり』は誘惑についての詩だろう。山村は牧師としても型破りで、40年の生涯は少数の理解者しか持たなかった。