人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源(16); 萩原朔太郎詩集『氷島』(viii)

萩原朔太郎(1886-1942)、詩集『氷島』刊行1年前、個人出版誌「生理」(昭和8年6月~昭和10年2月、全5号)創刊の頃、47歳。

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萩原朔太郎詩集『氷島昭和9年(1934年)6月1日・第一書房刊(外函)

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 詩集『氷島』本体表紙

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 新作抒情詩からなるオリジナル詩集としては詩集『氷島』は萩原朔太郎の最後の詩集となったものでした。萩原はこの年48歳、享年は『氷島』刊行8年後の昭和17年、56歳です。生前最後の著作は逝去のちょうど2年前で晩年1年半は病伏にあったそうですから健康には恵まれず、明治生まれの人はまだ人生50年と言われた世代ですが衛生環境の整備や医療の発達普及で長寿化が始まった頃ですから、萩原の享年は早逝とは言えず、長寿とまではいかず、病伏からの期間を考えれば急逝でもなく、また詩作の減少の代わりに昭和年代には15冊あまりの批評・エッセイ集を発表していますから病に伏せるまで文筆家として著作の分量はむしろ多産になっていたのです。昭和年代には大正時代の全詩集『萩原朔太郎詩集』(「愛憐詩篇」『月に吠える』『青猫』「青猫以後」「郷土望景詩」)を昭和3年に、『氷島』を昭和9年に刊行していますが、その後は全詩集から『青猫』「青猫以後」の部を再編集し遺漏詩編2編を加えた『定本青猫』を昭和11年に、前半に『定本青猫』後半部と「郷土望景詩」『氷島』のほぼ全編を選んだ抒情詩選集、後半に『青猫』刊行の時期から発表してきた断章的エッセイで萩原自身が「情調哲学」「アフォリズム」「新散文詩」と呼んできた散文断章を散文詩として改めて選び、新作6編を加えた選詩集『宿命』を昭和14年に刊行したのが『氷島』以降の詩集刊行になり、つまり時代区分と編集に満足していなかった『青猫』の再編集と抒情詩・エッセイ断章の選集きりになります。『氷島』の後に発表された数編の散文詩を除けば、抒情詩の新作は南京事変(いわゆる「南京大虐殺」ともされる事件です)の報に新聞社に依頼されて書き発表された昭和12年12月の「南京陥落の日に」しかなく、それが遺作となってしまいます。晩年5年間には詩作はなかったことになりますが、病伏する前年には1年の間に3冊の批評・エッセイ集を刊行しており、詩人の集まりや往来も盛んでした。萩原の持論では詩は青春の産物でなければならないとあり、萩原自身も病伏する54歳の年まで青春が続いたと言えそうです。
 詩作の寡作にも萩原には持論があり、芭蕉は生前に一冊の家集も持たず、ニーチェ(生田長江訳の表記ではニイチェ)も厖大な著作集に詩集は生涯に一冊しかないではないか、詩人は生涯に一冊の詩集を持てば十分である、という意見でした。大正時代のベストセラーは生田長江訳のニイチェ全集で、萩原はその全集を座右の銘にしていました。詩集『青猫』の前年大正11年に書き下ろし刊行された「第一情調哲学集」『新しき欲情』に始まる断章的エッセイ集は生田長江訳ニイチェ全集から自身を現代日本のニイチェであるという自負で書かれたものです。フリードリヒ・W・ニーチェ(1844-1900)と萩原には共通点はほとんどなく、萩原がニイチェ全集に自己を見ていたのは高山樗牛に始まる当時のニーチェ理解がどれだけ曲解されてたかを示すものでもあり、その原因は当時のニーチェ歿後の全集が原著のドイツ版全集でさえ編者によって甚だしい改竄を施されていたことに大半が由来します。全集の編者が作り上げた都合の良いニーチェ像によって編纂されたニーチェ全集ですから読者にはそれしかニーチェを読む手がかりはなく、伝記研究や改訂版・新版全集が第2次大戦後に進められるとニーチェの妹とその夫が編集した初版のニーチェ全集がいかに読者を固定したニーチェ像に誘導するものだったかが明らかになりました。つまりドイツのナショナリズムを鼓舞する悲劇的で英雄的な思想家に見せるための作為が加えられているばかりか未発表原稿の偽造まで含まれており、初版全集の段階で原稿が散乱した状態になったためドイツ本国でも真正の決定的な校訂版全集を試みて数種類の全集が林立しているのが第2次大戦後のニーチェ全集状況です。ヒトラーナチス政権が大衆を国粋思想に誘導した際に利用したのもニーチェが心酔し後に決別した音楽家ワーグナー(1813-1883)ともども初版全集のニーチェ像で、萩原が熟読した大正時代のニーチェとはそのようなものであり、現在でも通俗的ニーチェ像は大正時代の解釈から大して変わっていないのです。ニーチェが愛読したドイツ古典詩人はヘルダーリーン(1770-1843)であり、青春時代から共感した詩人はボードレール(1821-1867)で、小説家ではドストエフスキー(1821-1881)でした。ヘルダーリーンからの影響はニーチェ最大の長編詩「ディオニソス頌歌」に表れていますが、真に悲劇的な詩人ヘルダーリーンをドイツのナショナリズムに結びつけるのは見解も附強に過ぎるでしょう。ボードレールドストエフスキーに至ってはナチス・ドイツの基準では頽廃文学とされた部類です。ボードレールドストエフスキーニーチェと並んで大正時代に本格的な紹介が始まった文学者ですが、ニーチェが訳者の生田なりに限界のあるテキストから最善の努力で翻訳されたのよりは良い条件、つまり原著自体の問題は少ない状態で翻訳者にも恵まれて紹介されたにも関わらずボードレールは耽美主義的詩人、ドストエフスキートルストイとともに人道主義的小説家と誤解されて読まれた風潮が主流であり、それどころかボードレールドストエフスキートルストイといった文学者は自他ともに容赦ない道徳的・宗教的感覚と自己破壊的な悪魔を抱えた作家たちでした。ニーチェもそうです。こうした作家たちがどのような対決から作品を残してきたかを思うと、萩原は当時の日本の文化からは疎外された詩人だったかもしれませんが、萩原自身は自己に悪魔を持たず、自我との対決の必要を持たなかった詩人だったように思えます。

 萩原の時代の日本でそのような悪魔を抱えた詩人を萩原の身近から上げれば萩原がもっとも尊敬した明治の詩人・蒲原有明がいますし、萩原と同世代の山村暮鳥大手拓次が上がります。石川啄木も晩年ははっきり自分自身の地獄と向かいあった詩人でしたし、啄木の盟友の高村光太郎も早くから頽廃への感受性がありました。そうした詩人たちと較べると萩原の詩は真摯に書かれている詩には違いなくても決定的な軽さを感じずにはいられない面があります。萩原が北原白秋への傾倒から本格的に詩作に手を染めるようになったのは萩原も公言しており、詩人としてのデビューは白秋の詩誌「朱樂(ざんぼあ)」誌上であり、第1詩集『月に吠える』の序文も師である白秋が門下生の処女出版を祝う体裁になっています。後年、萩原の押しかけ弟子になった三好達治(三好もまた頽廃とぎりぎりに詩作を続けた詩人でした)は白秋の詩を認めず、白秋の萩原への影響を断固として否定しました。しかし萩原の、どこか浮ついた軽さの由来を求めるなら、明治と大正の狭間にそれまでの日本の詩にない華やかさと軽やかさを備えて登場した白秋との共通した趣味性は案外重要で、逆に言えば白秋と萩原を結ぶ線はそれだけしかないので、なおさらその軽さの持つ意味はなおざりにできないのです。この軽さを軽薄さと呼ぶこともできますし、青春特有の無責任さとしてもいいと思いますが、白秋にあった華も萩原にあった自由の感覚もそれとは無縁のものではないでしょう。白秋は童謡詩に行きついて最高の日本語の純粋詩を達成した詩人であるのは軽視できません。それは日本の多くの詩人の目標とは異なる達成だったので北原白秋は例外的詩人と目されてしまったのです。白秋は大正7年(1918年)7月に鈴木三重吉が創刊した児童芸術誌「赤い鳥」の童謡欄を担当し、毎号、のちに山田耕筰らに作曲されて人口に膾炙されることになる童謡詩を発表しました。

 赤い鳥、小鳥、
 なぜなぜ赤い。
 赤い實をたべた。

 白い鳥、小鳥、
 なぜなぜ赤い。
 白い實をたべた。

 青い鳥、小鳥、
 なぜなぜ青い。
 青い實をたべた。
  (「赤い鳥」全行・大正7年10月「赤い鳥」)

 からたちの花が咲いたよ。
 白い白い花が咲いたよ。

 からたちのとげはいたいよ。
 青い青い針のとげだよ。

 からたちの畑(はた)の垣根よ。
 いつもいつもとほる道だよ。

 からたちも秋はみのるよ。
 まろいまろい金(きん)のたまだよ。

 からたちのそばで泣いたよ。
 みんなみんなやさしかつたよ。

 からたちの花が咲いたよ。
 白い白い花が咲いたよ。
  (「からたちの花」全行・大正13年1924年7月「赤い鳥」)

 雪のふる夜(よ)はたのしいペチカ。
 ペチカ燃えろよ、お話しましよ。
 むかしむかしよ。
 燃えろよ、ペチカ。

 雪のふる夜はたのしいペチカ。
 ペチカ燃えろよ、おもては寒い。
 栗や栗やと
 呼びます、ペチカ。

 雪のふる夜はたのしいペチカ。
 ペチカ燃えろよ、ぢき春來ます。
 いまに楊(やなぎ)も
 萌(も)えましよ、ペチカ。

 雪のふる夜はたのしいペチカ。
 ペチカ燃えろよ、誰(だれ)だか來ます。
 お客さまでしよ。
 うれしいペチカ。

 雪のふる夜はたのしいペチカ。
 ペチカ燃えろよ、お話しましよ。
 火の粉ぱちぱち、
 はねろよ、ペチカ。
  (「ペチカ」全行・大正13年8月『漫州唱歌集』)

 萩原朔太郎が『青猫』の作品群を書いていた頃に白秋はこうした童謡詩を書いていたのですが、白秋のこれらの詩は幼児にも理解し口ずさめる平易さと愛唱性で現在でも幼児の言語・音楽教育に用いられているものです。これらは歌曲として3歳の幼児をも魅了するほど広い読者に訴え、その平易さと楽しさではこれほど優れた詩はないでしょう。文意だけなら翻訳可能ですが翻訳によって失われるのが日本語の美しさなのは明瞭で、それは白秋の童謡詩が語感にすべてを託したものであり、幼児の感受性の次元で語感を解放することから生み出された純粋さなのは白秋にして初めてなし得た発明でした。現代詩の詩人で白秋の童謡詩の語感を意識的に用いた唯一の詩人が中原中也であり、中原の詩の批判者が問題とするのもその歌唱性なのも注目すべき現象です。次の詩は中原の晩年、乳児のうちに長男を亡くした後に盛んに創作された乳幼児を歌った作品のひとつです。

 菜の花畑で眠つてゐるのは……
 菜の花畑で吹かれてゐるのは……
 赤ン坊ではないでせうか?

 いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です
 ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です
 菜の花畑に眠つてゐるのは、赤ン坊ですけど

 走つてゆくのは、自轉車々々々
 向ふの道を、走つてゆくのは
 薄桃色の、風を切つて……

 薄桃色の、風を切つて……
 走つてゆくのは菜の花畑や空の白雲
 ――赤ン坊を畑に置いて
  (「春と赤ン坊」全行・昭和11年=1936年「文學界」掲載月不詳)

 三好達治は中原の親友たちと親好が深く、また堀辰雄とともに主宰した同人誌「四季」にも迎えたため(中原は小林秀雄の「文學界」、草野心平の「歴程」と「四季」の3誌のかけ持ち同人でした)批判はしませんでしたが積極的な評価もせず、白秋から学んでダダ(三好はスマートなモダニズムは好みましたが破壊的なダダイズムは嫌いでした)の要素もある中原の作風を好んだ様子はありませんが、晩年まで北原白秋への批判を崩さなかったにもかかわらず、三好自身にも長い詩歴の最後まで童謡詩・歌謡詩・民謡詩の試みはあるのです。

 こんこんこな雪ふる朝に
 梅が一りんさきました
 また水仙もさきました
 海にむかつてさきました
 海はどんどと冬のこゑ
 空より青い沖のいろ
 沖にうかんだはなれ島
 島では梅がさきました
 また水仙もさきました
 赤いつばきもさきました
 三つの花は三つのいろ
 三つの顏でさきました
 一つ小島にさきました
 一つ畑にさきました
 れんれんれんげはまだおきぬ
 たんたんたんぽぽねむつてる
 島いちばんにさきました
 ひよどり小鳥のよぶこゑに
 こんこんこな雪ふる朝に
 島いちばんにさきました
  (「こんこんこな雪ふる朝に」全行・昭和32年=1957年1月「日本經濟新聞」)

 ――また、三好晩年の絶唱と言える名作に、

 葛飾の野の臥龍
 龍うせて もも すもも
 あんずも青き實となりぬ
 何をうしじまちとせ藤
          はんなりはんなり

 ゆく春のながき花ふさ
 花のいろ揺れもうごかず
 古利根(ふるとね)の水になく鳥
 行々子啼きやまずけり

 メートルまりの花の丈
 匂ひかがよふ遅き日の
 つもりて遠き昔さへ
 何をうしじまちとせ藤
          はんなりはんなり
  (「牛島古藤歌」全行・昭和37年=1962年3月『定本三好達治全詩集』書き下ろし)

 原石鼎(1886-1951)の名句「頂上や殊に野菊の吹かれけり」(大正2年)や「青天や白き五辨の梨の花」(昭和11年)を連想させる無心の抒情が感じられる作品ですが、成功したこれらの歌謡詩・民謡詩は花や木の実を詠いこんでなるべく人事から離れているのが特徴でもあり、伝統的な花鳥風月の趣味性を洗練させたものに過ぎないではないか、という批判も当然生まれてくるわけです。現在でこそ名作という評価が定着していますが、発表後半世紀以上もの長い間、奇を衒っただけの作品として否定的な評価がされてきた山村暮鳥(1884-1924)の、

 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 かすかなるむぎぶえ
 いちめんのなのはな

 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 ひばりのおしやべり
 いちめんのなのはな

 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 いちめんのなのはな
 やめるはひるのつき
 いちめんのなのはな
  (「風景」副題「純銀もざいく」全行・大正4年=1915年6月「詩歌」)

 山村暮鳥という詩人は萩原朔太郎の『月に吠える』『青猫』と同年代の詩人だったために、萩原との比較で批判的な評価をされてきた詩人でした。しかし「風景」を含む大正4年の詩集『聖三稜玻璃』は高村光太郎の『道程』、萩原の『月に吠える』と並んで大正時代の口語自由詩の可能性を切り拓いた詩集です。キリスト教伝道師として東北各地の小教会の牧師を転々とし、教会本部からは信徒の獲得に無能な牧師と目され冷遇されて40歳の病弱な短い生涯を送った暮鳥の苦しみは、遺産相続と金利で暮らしていた萩原どころではありませんでした。『聖三稜玻璃』の過剰な実験性はそうした暮鳥の衝迫力の強さに由来するもので、「いちめんのなのはな」はキリスト者としては異端とも言えるアジア圏の古代宗教的な涅槃のイメージすらあります。それはキリスト教牧師による詩作としては背教背徳の詩に他ならず、山村暮鳥にとっては、この「いちめんのなのはな」は『聖三稜玻璃』のもう一編の代表詩で巻頭作品(「風景」は巻末から2番目の作品でした)「囈語」と同じ発想で書かれた詩なのは明らかです。こちらは白秋主宰の詩誌「アルス」掲載で、白秋の萩原とともに白秋の門下生で「アルス」の衛星誌「にんぎょ詩社」を主宰し『聖三稜玻璃』の発行人になった室生犀星の口利きによるものと思われますが、チューリッヒ・ダダに先んじて突然変異的に日本に現れたダダ詩として発表時にはこれを評価したのは金子光晴草野心平らデビュー前の若い詩人くらいだったものです。

 竊盜金魚
 強盜喇叭
 恐喝胡弓
 賭博ねこ
 詐欺更紗
 涜職天鵞絨(びらうど)
 姦淫林檎
 傷害雲雀(ひばり)
 殺人ちゆりつぷ
 墮胎陰影
 騷擾ゆき
 放火まるめろ
 誘拐かすてえら。
  (「囈語」全行・大正4年年6月「アルス」)

 これを『道程』や『月に吠える』を比較すると暮鳥の詩が孤独な実験に終わったのがわかるような気がします。明治以降の日本の多行形式の詩は明治'20年代~'40年代に「新軆詩」と呼ばれた時期を経て口語詩の試みが始まり、大正時代を迎えてさまざまな試行錯誤の末に(その極端な例が山村暮鳥の詩です)ようやく口語自由詩が定着しますが、そのもっとも革新的かつ優れた確立者は高村光太郎萩原朔太郎に尽きる、と昭和年代の早い時期にはすでに認められていました。その割に高村・萩原が詩人の社会で偉い人にならなかったのは二人とも組織的地位には無頓着であり、早い話が一対一か一対他でしか人間社会を捉えられない感覚によって家庭から職業社会に至るまで社会的帰属意識が稀薄で、常に発展途上な青春のまま年を取っていったような人だったからでしょう。そういう人は畏敬はされても役職には就けません。高村は詩誌「明星」(与謝野鉄幹・晶子夫妻主宰)に属していた白秋、啄木らと並んで萩原より早くデビューしていましたが大正3年(1914年)の第1詩集『道程』は口語自由詩としての画期性よりも当時流行の民衆主義詩を穏健にした人道主義的詩集として読まれてしまいます。一方、第1詩集『月に吠える』に先立つ萩原27歳~28歳の1年間の初期作品「愛憐詩篇」(第4詩集『純情小曲集』大正14年8月刊)は文語詩であっても従来の新軆詩とは切れて口語以上の柔軟性を持ち、豊かで清新な素晴らしいデビュー作群でした。萩原の青春が詩の青春性と調和した幸福な時期の作品が「愛憐詩篇」とも言えます。これらは大正2年(1913年)5月から大正3年(1914年)7月までに発表された作品41編から18編が選ばれたものですが、今回見てきた諸家の詩や萩原自身の晩年作品『氷島』との比較のためその全18編をご紹介しておきましょう。これらは歌謡詩には決してならずに自然な愛唱性を実現している点で『月に吠える』以降の本格的詩集を凌いで萩原の作品の頂点と見ることもできるのです。

萩原朔太郎詩集『純情小曲集』大正14年(1925年)8月12日・新潮社刊(カヴァー装)

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 愛 憐 詩 篇


  夜 汽 車

有明のうすらあかりは
硝子戸に指のあとつめたく
ほの白みゆく山の端は
みづがねのごとくにしめやかなれども
まだ旅びとのねむりさめやらねば
つかれたる電燈のためいきばかりこちたしや。
あまたるきにすのにほひも
そこはかとなきはまきたばこの烟さへ
夜汽車にてあれたる舌には侘しきを
いかばかり人妻は身にひきつめて嘆くらむ。
まだ山科(やましな)は過ぎずや
空氣まくらの口金(くちがね)をゆるめて
そつと息をぬいてみる女ごころ
ふと二人かなしさに身をすりよせ
しののめちかき汽車の窓より外をながむれば
ところもしらぬ山里に
さも白く咲きてゐたるをだまきの花。
 (大正2年=1913年5月「朱樂」)


  こ こ ろ

こころをばなににたとへん
こころはあぢさゐの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。

こころはまた夕闇の園生のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかひなしや
ああこのこころをばなににたとへん。

こころは二人の旅びと
されど道づれのたえて物言ふことなければ
わがこころはいつもかくさびしきなり。
 (大正2年5月「朱樂」)


  女 よ

うすくれなゐにくちびるはいろどられ
粉おしろいのにほひは襟脚に白くつめたし。
女よ
そのごむのごとき乳房をもて
あまりに強くわが胸を壓するなかれ
また魚のごときゆびさきもて
あまりに狡猾にわが背中をばくすぐるなかれ
女よ
ああそのかぐはしき吐息もて
あまりにちかくわが顏をみつむるなかれ
女よ
そのたはむれをやめよ
いつもかくするゆゑに
女よ 汝はかなし。
 (大正2年=1913年5月「朱樂」)


  櫻

櫻のしたに人あまたつどひ居ぬ
なにをして遊ぶならむ。
われも櫻の木の下に立ちてみたれども
わがこころはつめたくして
花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ。
いとほしや
いま春の日のまひるどき
あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを。
 (大正2年=1913年5月「朱樂」)


  旅 上

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。
 (大正2年=1913年5月「朱樂」)


  金 魚

金魚のうろこは赤けれども
その目のいろのさびしさ。
さくらの花はさきてほころべども
かくばかり
なげきの淵ふちに身をなげすてたる我の悲しさ。
 (大正2年=1913年5月「朱樂」)


  靜 物

靜物のこころは怒り
そのうはべは哀しむ
この器物(うつは)の白き瞳(め)にうつる
窓ぎはのみどりはつめたし。
 (大正3年=1914年7月「創作」)


  涙

ああはや心をもつぱらにし
われならぬ人をしたひし時は過ぎゆけり
さはさりながらこの日また心悲しく
わが涙せきあへぬはいかなる戀にかあるらむ
つゆばかり人を憂しと思ふにあらねども
かくありてしきものの上に涙こぼれしをいかにすべき
ああげに今こそわが身を思ふなれ
涙は人のためならで
我のみをいとほしと思ふばかりに嘆くなり。
 (大正2年8月「創作」)


  蟻 地 獄

ありぢごくは蟻をとらへんとて
おとし穴の底にひそみかくれぬ
ありぢごくの貪婪(たんらん)の瞳(ひとみ)に
かげろふはちらりちらりと燃えてあさましや。
ほろほろと砂のくづれ落つるひびきに
ありぢごくはおどろきて隱れ家をはしりいづれ
なにかしらねどうす紅く長きものが走りて居たりき。
ありぢごくの黒い手脚に
かんかんと日の照りつける夏の日のまつぴるま
あるかなきかの蟲けらの落す涙は
草の葉のうへに光りて消えゆけり。
あとかたもなく消えゆけり。
 (大正2年8月「創作」)


  利 根 川 の ほ と り

きのふまた身を投げんと思ひて
利根川のほとりをさまよひしが
水の流れはやくして
わがなげきせきとむるすべもなければ
おめおめと生きながらへて
今日もまた河原に來り石投げてあそびくらしつ。
きのふけふ
ある甲斐もなきわが身をばかくばかりいとしと思ふうれしさ
たれかは殺すとするものぞ
抱きしめて抱きしめてこそ泣くべかりけれ。
 (大正2年8月「創作」)


  濱 邊

若ければその瞳(ひとみ)も悲しげに
ひとりはなれて砂丘を降りてゆく
傾斜をすべるわが足の指に
くづれし砂はしんしんと落ちきたる。
なにゆゑの若さぞや
この身の影に咲きいづる時無草もうちふるへ
若き日の嘆きは貝殼もてすくふよしもなし。
ひるすぎて空はさあをにすみわたり
海はなみだにしめりたり
しめりたる浪のうちかへす
かの遠き渚に光るはなにの魚ならむ。
若ければひとり濱邊にうち出でて
音ねもたてず洋紙を切りてもてあそぶ
このやるせなき日のたはむれに
かもめどり涯なき地平をすぎ行けり。
 (大正2年11月「創作」)


  緑 蔭

朝の冷し肉は皿につめたく
せりいはさかづきのふちにちちと鳴けり
夏ふかきえにしだの葉影にかくれ
あづまやの籐椅子(といす)によりて二人なにをかたらむ。
さんさんとふきあげの水はこぼれちり
さふらんは追風(つゐふう)にしてにほひなじみぬ。
よきひとの側(かた)へにありてなにをかたらむ
すずろにもわれは思ふ「ゑねちや」の「かあにばる」を
かくもやさしき君がひとみに
海こえて燕雀のかげもうつらでやは。
もとより我等のかたらひは
いとうすきびいどろの玉をなづるがごとし
この白き鋪石をぬらしつつ
みどり葉のそよげる影をみつめゐれば
君やわれや
さびしくもふたりの涙はながれ出でにけり。
 (大正2年9月「創作」)


  再 會

皿にはをどる肉さかな
春夏すぎて
きみが手に銀のふほをくはおもからむ。
ああ秋ふかみ
なめいしにこほろぎ鳴き
ええてるは玻璃をやぶれど
再會のくちづけかたく凍りて
ふんすゐはみ空のすみにかすかなり。
みよあめつちにみづがねながれ
しめやかに皿はすべりて
み手にやさしく腕輪はづされしが
眞珠ちりこぼれ
ともしび風にぬれて
このにほふ鋪石(しきいし)はしろがねのうれひにめざめむ。
 (大正3年10月「アララギ」)


  地 上

地上にありて
愛するものの伸長する日なり。
かの深空にあるも
しづかに解けてなごみ
燐光は樹上にかすかなり。
いま遙かなる傾斜にもたれ
愛物どもの上にしも
わが輝やく手を伸べなんとす
うち見れば低き地上につらなり
はてしなく耕地ぞひるがへる。
そこはかと愛するものは伸長し
ばんぶつは一所(いつしよ)にあつまりて
わが指さすところを凝視せり。
あはれかかる日のありさまをも
太陽は高き眞空にありておだやかに觀望す。
 (大正3年6月「創作」)


  花 鳥

花鳥(はなとり)の日はきたり
日はめぐりゆき
都に木の芽ついばめり。
わが心のみ光りいで
しづかに水脈(みを)をかきわけて
いまぞ岸邊に魚を釣る。
川浪にふかく手をひたし
そのうるほひをもてしたしめば
かくもやさしくいだかれて
少女子どもはあるものか。
ああうらうらともえいでて
都にわれのかしまだつ
遠見にうかぶ花鳥のけしきさへ。
 (大正3年6月「創作」)


  初 夏 の 印 象

昆蟲の血のながれしみ
ものみな精液をつくすにより
この地上はあかるくして
女の白き指よりして
金貨はわが手にすべり落つ。
時しも五月のはじめつかた。
幼樹は街路に泳ぎいで
ぴよぴよと芽生は萌えづるぞ。
みよ風景はいみじくながれきたり
青空にくつきりと浮びあがりて
ひとびとのかげをしんにあきらかに映像す。
 (大正3年6月「創作」)


  洋 銀 の 皿

しげる草むらをたづねつつ
なにをほしさに呼ばへるわれぞ
ゆくゆく葉うらにささくれて
指も眞紅にぬれぬれぬ。
なほもひねもすはしりゆく
草むらふかく忘れつる
洋銀の皿をたづね行く。
わが哀しみにくるめける
ももいろうすき日のしたに
白く光りて涙ぐむ
洋銀の皿をたづねゆく
草むら深く忘れつる
洋銀の皿はいづこにありや。
 (大正3年5月「創作」)


  月 光 と 海 月

月光の中を泳ぎいで
むらがるくらげを捉へんとす
手はからだをはなれてのびゆき
しきりに遠きにさしのべらる
もぐさにまつはり
月光の水にひたりて
わが身は玻璃のたぐひとなりはてしか
つめたくして透きとほるもの流れてやまざるに
たましひは凍えんとし
ふかみにしづみ
溺るるごとくなりて祈りあぐ。
かしこにここにむらがり
さ青にふるへつつ
くらげは月光のなかを泳ぎいづ。
  (大正3年5月「詩歌」)


(引用詩の用字、かな遣いは初版詩集複製本に従い、明らかな誤植は訂正しました。)
(※以下次回)