「ダダイスト新吉の詩」に続き、前回で詩集の概要を解説し、ようやく「戯言集」1934の紹介に入る。
これは高橋新吉(1901-1987)の第一詩集「ダダイスト新吉の詩」1923(その前に「まくわうり詩集」という習作がある)・第二詩集「祇園祭り」1926・第三詩集「高橋新吉詩集」1928に次ぐ第四詩集で、前詩集からこの詩集までに詩人は3年間の長期精神入院を体験している。
詩集の記述では板壁・二畳の隔離室入院で、詩人がこれを「牢屋」と呼ぶのは、時代こそ違え拘置所独居房経験も隔離室入院も体験した筆者には妥当な感覚と思える。
詩集の大半を占めるのは表題作の連作長篇詩『戯言集』1-67で、他に12篇の短詩を収める。
これからご紹介するのが回復不可能と診断され入院した詩人が、退院を果した後50年以上の執筆活動に向った第一声ともいえる連作長篇詩『戯言集』で、おそらく「ダダと禅」の始まりは入院中の作業療法・認知療法にある。では作品を。
『戯言集』
1
私は盲目も同然である
四方は板壁にふさがれた牢屋の中に居る
2
手足を動かさないで 凝乎しているから くだらぬ事を考えるのだ
働くものには 罪悪と恩怨が与えられる
3
いくらあせっても もがいても
此の二畳敷の牢の中より 一歩も外へ足を踏み出す事も 手を出す事も出来ない
此の苦しみを三年の間 一日も例外なしに 憤怒と汚辱で精神を磨滅し 骨をケズル思いで過した事は 私の将来に何を持ち来すと云うのか
早死にと悔恨以外にはあるまい
4
誰がいつどういう悪い事をするか それはわからない
だから悪い事を人にせられられないような立場に身を置きたいものである
5
かくの如くにして 日は流れ 日が去る
私は精神病者には違いない 精神を病んでいる
6
又同じような明日を迎える事の馬鹿らしさ
此の窮屈な牢屋の中で 首をくくる事も又大儀で 馬鹿らしくて不可能なのだ
-なにしろ67篇もあるので適宜解説を挟みたい。この冒頭6篇で語り手の置かれた状況はほぼ理解できる。板壁・二畳は現在の隔離室や独居房に比較しても劣悪な環境で、監禁ストレスで病状が悪化しかねない。狂気・権力・監禁というテーマがこの連作長篇詩にはある。