人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

高橋新吉「断言はダダイスト」(『ダダイスト新吉の詩』大正12年=1923年より)

ダダイスト新吉の詩』中央美術社・大正12年(1923年)2月25日
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[ 高橋新吉(1901-1987)・21歳、第1詩集『ダダイスト新吉の詩』刊行の頃 ]
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「断言はダダイスト

 高橋新吉

DADAは一切を断言し否定する。
無限とか無とか、それはタバコとかコシマキとか単語とかと同音に響く。
想像に湧く一切のものは実在するのである。
一切の過去は納豆の未来に包含されてゐる。
人間の及ばない想像を、石や鰯の頭に依つて想像し得ると、杓子も猫も想像する。
DADAは一切のものに自我を見る。
空気の振動にも、細菌の憎悪にも、自我と云ふ言葉の匂ひにも自我を見るのである。
一切は不二だ。仏陀の諦観から、一切は一切と云ふ言草が出る。
断言は一切である。

宇宙は石鹸だ。石鹸はズボンだ。
一切は可能だ。
扇子に貼り付けてあるキリストに、心太(ところてん)がラブレターを書いた。
一切合財ホントーである。
凡そ断言し得られない事柄を、想像する事が、喫煙しないMr. Godに可能であらうか。

神はオールマイテイだとキリストが言つた。
DADAは一切のものがオールマイテイだと断言する。
だからオールマイテイは、一燭の電球をオホーツク海に投じても、底の方で、時々灯つてゐるやうなものだと断言する。
DADAは一切を否定する。
無我を突き摧(くだ)く、粉々に引き裂く。
無二無三になつて無の所で、無理な小便をする。
DADAは滞る所を知らない。
DADAは一切を抱擁する。
DADAは聳立する。何者もDADAを恋する事は出来ない。
DADAは一切に拘泥する。一切を逃避しないから。

物事に矛盾や調子を感じなくなつた舐瓜(まくはうり)はダダイストになり損ねなかつた。ではない、矛盾や調子もダダイストなのである。
存在がダダ的なのだ。
凡てのものは穿き替えられ得る。
変化は価値だ。価値はダダイストだ。

誰かダダイストは、食べられないものだと言ひ得るだらうか? では舐められないものであらうか?
一切は食物だ。食物は無政府主義者だ。

ダダイストは死んだ。それは彼が胎児であつて、流産するよりも一世紀前の話だ。
千九百廿二年十月九日午前零時三十四分に、地球はお玉杓子の眼球、乃至人間の眼球位に収縮すると予覚したダダイストがある。ハツキリとしてゐる。彼は不死身である。一切の予言は的確だ。
ダダイストは、夫(それ)を飲めば半千年の間、少しも食物を摂らないで、息災に働く事の出来る薬を発明した。
彼は階級戦がたけなはになつたら一服宛プロレタリアに分配しようと待ち構えてゐる。

北極から一輪車で、一秒間と廿二忽しかかゝらないで、若い女が僕の所へ尋ねて来た。
彼女はブルジヨアを憎むと言つた。
資本と聞いてさへ身顫ひするのであつた。
妾は凡ゆる金銀白銅白金を瞬時に唾液にして了ふ磁石を持つて来ましたと彼女は言つた。そして呪文と其の唱へ方を僕に教へた。
何時(いつ)でも構ひませんから、あなたが必要だとお思ひになつたら――――
彼女は燐光的の発音だつたと或ダダイストは話した。

空のマツチ箱と、若干の秘密を右の袂に入れてブラブラ彼は炎熱の電車線路を歩るいてゐた。
彼は此の頃になつて場末の居酒屋を彷徨(うろつ)き廻つて夜更しも女郎買ひも止して、ピユリタンになつたと仲間のものに噂されてゐるダダイストであつた。
彼は下駄を脱ぎ棄てゝ裸になつた。それから着物を丸めて、線路へ叩き付けた。
袂から煙が出だしたのである。
交番も直ぐ其処にあつたが、巡査も恐がつて寄り付かなかつたのである。
彼は、燐寸(マツチ)の擦火で、太平洋を沸騰さすことは易々たるものだ、と此の間も話してゐた。

或る男は朝起きるとから毎日、寝床に這入つてからも拳銃を離さないで、射撃の訓練をしてゐる。
此のダダイストは市街戦で、七千人の人間を打斃さない限り、ピストルを手から外さないと言つてゐる。

一人のダダイストは、どんなにくだらないつらい生活でも好い、死ぬのが厭だ、一呼吸でも永く生きて居たい、と遺書の中に書いてゐた。
彼は或結社の三階の図書室の電燈と紐で首を縊つて死んだのである。
生前彼は非常に温厚で、結社の規約に違反するやうな言行は一度もなく、皆のものから絶対に信用されてゐた。
又色々の涙を、化学的に分析したりして博士になつたダダイストもある。

DADAは一切のものを出産し、分裂し、総合する。
DADAの背後には一切が陣取つてゐる。
何者もDADAの味方たり得ない。
DADAは女性であると同時に無性欲だ。
だから生殖器を持つと同時に、凡ゆる武器を備へてゐる。
DADA位卑屈なものもない。猛烈な争闘心を腰にブラ下げてゐるから瞬時も絶え間なく彼は爆発し、粉砕し、破壊しつゞける。
一切のものがDADAの敵だ。
一切を呪ひ殺し、啖(くら)ひ尽して、尚も飽き足らない舌を、彼は永遠の無産者の様にベロベロさしてゐる。

 八・十四

(原題「ダガバシ断言」、大正10年=1921年執筆・初出「週刊日本」大正11年=1922年9月・詩集『ダダイスト新吉の詩』巻頭詩)


 高橋新吉(明治34年=1901年1月28日生~昭和62年=1987年6月5日没)の第1詩集『ダダイスト新吉の詩』は高橋が兄事した英文学者・批評家の辻潤(1884-1944)の編集・跋文(巻末解説)により、1ページ目から28ページには辻潤高橋新吉パトロンだった人気作家・佐藤春夫(1892-1964)が「高橋新吉のこと」と題した序文を寄せています。詩集本文は29ページから40ページまで10ページにも及ぶマニフェスト散文詩「断言はダダイスト」が巻頭詩の座を占めており、詩集中でも質量ともに最重要と目せる詩篇ですが、長大さと純粋な散文詩と呼ぶには詩的エッセイとも言うべき内容のため、最初の一連(「DADAは一切を断言し否定する。」~「断言は一切である。」まで)くらいしかあまり引用・紹介されることのない作品となっています。ヨーロッパではイタリアでフィリッポ・マリネッティ(1876-1944)の「未来主義創立宣言」が1909年、スイスでトリスタン・ツァラ(1896-1963)の「ダダ宣言1918」が1918年、フランスでアンドレ・ブルトン(1896-1966)の「シュルレアリスム宣言」が1924年にあり、日本では山村暮鳥(1884-1924)の詩集『聖三稜玻璃』が大正4年(1915年)と大正6年(1917年)の詩論・エッセイ集『小さな穀倉より』が先駆をつけ、平戸廉吉(1893-1922)の「日本未来派宣言運動」が大正10年(1921年)、そして晩年の平戸廉吉と親交があった高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』が大正12年(1923年)に刊行されています。辻潤訳のロンブロウゾウ『天才論』のベストセラーが大正3年(1914年)で、辻潤はデ・クインシイの『阿片常用者の告白』を大正7年(1918年)、マックス・スチルネルの『唯一者とその所有』『自我経』を大正9年~大正10年(1920年1921年)に訳出刊行し、大正10年秋に初めて高橋新吉の訪問を受けます。辻潤最初のエッセイ集『浮浪漫語』の刊行は大正11年(1921年)6月で、日露戦争勝利(明治38年=1905年)と大逆事件(明治44年=1911年)に終わった明治末から大正時代は国家権力の増大への反発と享楽主義に傾いた世情で、マルクス主義輸入前夜の無政府主義に自由国家の理想を見る青年層が多かったのです。

 高橋新吉の詩集『ダダイスト新吉の詩』は大反響を呼び、以降、代表的な日本のダダ詩集は大正13年(1924年)の宮沢賢治(1896-1933)の生前唯一の自費出版詩集『春と修羅』、大正14年(1925年)の北川冬彦(1900-1990)『三半規管喪失』、遠地輝武(1901-1967)『夢と白骨の接吻』、萩原恭次郎(1899-1938)『死刑宣告』、尾形亀之助(1900-1942)『色ガラスの街』、大正15年(1926年)には小野十三郎(1903-1996)『半分開いた窓』、北川冬彦『検温器と花』と続きました。昭和期に入るとダダの詩人たちは共産主義モダニズム、抒情詩に移行してしまうのでダダは高橋新吉一人一派に縮小し、詩誌「歴程」(草野心平主宰)の庶民的アナーキズムの気風に吸収された観があります。「歴程」という同人誌も一人一派のグループでしたが、師表した詩人は高村光太郎高橋新吉、没後同人とされた八木重吉宮澤賢治だったので、宮澤の逝去は昭和8年でしたが草野心平中原中也らに先駆的ダダイズム詩人として敬愛・愛読されていたのです。今『ダダイスト新吉の詩』や『春と修羅』を読むと、アメリカであればヒッピー文化の始祖とされそうな無政府主義的コミューン指向が目につきますが、高橋新吉には上京者的な無政府主義自由主義として、宮澤賢治では農本主義的な共同体指向として詠い上げられているのが後続の詩人たちに迎えられ、モダニズムの屈曲とともに方法化されてより明確な共産主義モダニズム、抒情詩へと変化した日本の大正~昭和初期の詩史的な役割が見えてきます。「断言はダダイスト」自体は21歳の威勢の良い文学青年の若書き(日付の通りなら大正11年=1922年8月14日執筆)にすぎないとも言えますが、2020年現在からは99年前の8月にこの詩を書いた21歳の高橋新吉の瑞々しい感受性と高揚感はありありと伝わってきます。高橋新吉の青春は昭和3年(1928年)には挫折し、精神疾患に陥った高橋は3年間にも及ぶ禅寺監禁を余儀なくされるので、その挫折を刻みつけた退院直後の第4詩集『戯言集』(読書新聞社・昭和9年=1934年3月15日刊)の前に、この「断言はダダイスト」をご紹介した次第です。