人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

高橋新吉の詩(前編)

[ 高橋新吉(1901-1987)・21歳、第1詩集『ダダイスト新吉の詩』刊行の頃 ]
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ダダイスト新吉の詩』中央美術社・大正12年(1923年)2月25日
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 愛媛県伊方町生まれの詩人・高橋新吉(明治34年=1901年1月28日生~昭和62年=1987年6月5日没)は長い詩歴を誇った人で、86歳で逝去する最晩年まで新作詩集を発表していましたから、1980年代半ばには高橋新吉や岡崎清一郎(1900-1986)、草野心平(1903-1988)、小野十三郎(1903-1996)、秋山清(1904-1988)、伊藤信吉(1906-2002)は死なないんじゃないかと思われていました。高橋らよりやや年長でやはり長命だった詩人に西脇順三郎(1894-1882)、金子光晴(1895-1975)がおり、西脇は88歳の長命でしたが80歳を限りに詩作を止めており、金子はあと半年で80歳の歳に亡くなりましたが逝去直前まで詩作は旺盛で、執筆半ばの新作長編詩が遺稿となりました。高橋、草野、小野らは80歳を越えても毎年のように新作詩集を出していたので(もっとも長命だった小野は逝去直前の93歳になっても新作を書いていました)逝去するまで現役感を保ち続けていました。それゆえ高橋の場合、同世代の数々の夭逝・早逝詩人に劣らず、それどころかもっと深刻な危機を青年時代に通ってきた詩人という実感が湧きづらいのです。高橋新吉は11歳で母を亡くし、父に無断で地元の商業高校中退後放浪生活を送り、大正9年(1920年)には早くも当時の大新聞「萬朝報」の懸賞短編小説に入選して辻潤に兄事し、辻潤を頼って上京後の大正11年(1922年)の12月には「俺はダダを宣伝するのだ!」とタクシー運転手に暴行し「ダダイスト発狂事件」として新聞をにぎわしてた経歴の青年詩人でした。翌年の第1詩集『ダダイスト新吉の詩』(中央美術社・大正12年=1923年2月25日)は高橋のパトロンとなった佐藤春夫の序文、辻潤の編集・跋文(巻末解説)で大反響を呼び、まだ10代半ばの中原中也(1907-1937)は高橋への尊敬と『ダダイスト新吉の詩』の影響から詩作を始め、上京し交友を持ったのちも高橋の人柄を慕い、生涯高橋を敬愛していました。『ダダイスト新吉の詩』から代表作を3篇上げます。このうち「ツンボ」は詩集刊行前の大正11年10月に当時の大総合誌「改造」に「ダダの詩三つ」(ツンボ、メクラ、オシ)として掲載された詩人としてのデビュー作になり、また「少女の顔」「皿」「料理人」は『ダダイスト新吉の詩』には無題の連作「一九二一年集」として収録され、のちに選詩集に再録されて以降タイトルがつけられたものです。「皿」は詩集の組版ごとに文字数が違いますが1行目は「皿」の字だけが重ねられる詩として知られ、「少女の顔」は中原中也の激賞によってのちに著名になった短詩です。

「ツンボ」

蝸牛は外聽道を歩いていた
鼓膜の中から誰か出て来た
去年亡なつた筈の蚯蚓だつた
前庭へヒツコンで了つた
遇ふのが恥しかつたんだろう

拙者は生まれた事もなければ
太陽舐(ねぶ)つた事もない

「少女の顔」

(「一九二一年集」37)

少女の顔は潮寒むかつた
歌つてる声はさらはれ声だつた

山は火事だつた

「皿」

(「「一九二一年集」49」)

皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿
 倦怠
 額に蚯蚓(みみず)匍う情熱
白米色のエプロンで
 皿を拭くな
鼻の巣の黒い女
其処(そこ)にも諧謔が燻すぶつてゐる
 人生を水に溶かせ
 冷めたシチユウの鍋に
退屈が浮く
 皿を割れ
 皿を割れば
 倦怠の響が出る

「料理人」

(「「一九二一年集」50」)

料理人の指がぶら下つてゐる
茶碗拭きの洟が垂れ下つてゐる
 残飯生活は血なし
 葱の匂ひ
包丁の嫉視
 燻すぶるものは
 くすぶれ


(以上4篇、詩集『ダダイスト新吉の詩』より)

 また高橋新吉の詩は日本敗戦の昭和20年(1945年)以前と以後に大きく分けられるので、続けて高橋新吉筑摩書房現代日本文学全集 89・現代詩集』(昭和33年=1958年2月5日刊)や角川文庫『現代詩人全集(第五巻)現代 I』(昭和35年=1960年10月10日刊)の「高橋新吉集」に自選した戦時中までの8詩集のうち、昭和3年(1928年)10月の帰郷~昭和7年(1932年)1月の再上京までの禅寺での精神医療体験を描いた長編連作詩集の第4詩集『戯言集』(読書新聞社・昭和9年=1934年3月15日刊)を除いた、第2詩集『祇園祭り』(紅玉堂・大正15年=1926年3月20日刊)、第3詩集『高橋新吉詩集(南宋社版)』(南宋社・昭和3年=1928年9月25日刊)、第5詩集『日食』(素人社書店・昭和9年=1934年3月28日刊)、第6詩集『新吉詩抄』(昭和11年=1936年8月20日刊)、第7詩集『雨雲』(昭和13年=1938年4月20日刊)、第8詩集『霧島』(邦畫荘・昭和17年=1942年7月13日刊)、第9詩集『父母』(黎明調社・昭和18年1月18日)からの代表詩を上げます。この間に詩文集『神社参拝』(明治美術研究所・昭和17年9月20日刊)と『大和根魂』(擁書閣赤門書房・昭和18年=1943年10月)がありますが、戦時下に文学報国会から強要されて執筆した翼賛的作品として高橋新吉自身はその後の全詩集でもこの2冊は抹殺しています。高橋新吉は結婚も昭和26年(1951年)7月、50歳で初婚と晩婚でしたが、前述の通り母を少年時代に亡くし、父子家庭で父親との確執を経て詩人・文筆家となりましたが、昭和3年秋~昭和6年いっぱいまで精神疾患によって帰郷・入院します。高橋の場合は禅寺で、薬学的療法のなかった当時は、精神病院のない地方では禅寺での修養と静養(ほとんどの場合座敷牢への監禁)が精神疾患治療として行われていました。ヨーロッパを始めとする海外諸国でも近世までは宗教施設が精神病院の役割を果たしていました。高橋新吉が禅寺入院中の昭和4年9月、父親は自殺します。敗戦までの高橋新吉の詩が宗教的(禅)指向と父母をモチーフにした作品が多いのはそうした体験により、また戦後にはダダと禅の統一を指向するようになって精神的な安定を得るとともに、日本を代表する禅思想詩人としてアメリカを始めとする諸外国にいち早く紹介される国際的詩人となりました。第2詩集以降の代表詩をご紹介します。

「あゝ鯖になりたや」

私の父は何時も鶯のやうな声を出す
耳の付け根から首の辺りは 肥料にする鰊そつくりだ
小さな雀程しかない頭をした私を
父はも一度鶏の卵の白味に包んで
孵化させようとする

あゝ鯖になりたや

「雀」

雀 地震が恐いのか
お屋根の瓦が落ちたとき
一番高い榛(はしばみ)の木の
小枝にとまつてチユチユと鳴く
お前の尾バチのゆれるよに
地震がゆれたら何うするか

「狐」

或雨の降る日に
 狐が山を降つた
さて私の仕事は
 骨を烏に与へない事でもない

「悲しい追憶」

明治卅八年と一人の息子が言った
それは何でもなく言つたんだけれども
彼の父の死んだ年であつた

(以上4篇、第2詩集『祇園祭り』より)

「赤ん坊」

(『高橋新吉詩集(南宋社版)』・5)

私は生れだての赤ん坊のやうに生きたい
時々野蛮な叫び声を出して
空腹を訴へる事を私の仕事としたい

「曇天」

(『高橋新吉詩集(南宋社版)』・57)

曇天の下をヒタ走りに走つて
私は櫨(はぜ)の木に登つた
そして赤い舌を出した

それから雨が降つたのだ

「血管」

(『高橋新吉詩集(南宋社版)』・65)

私の血管の中には 潮が流れてゐる
鯨が泳いでゐるのだ
海に飛び込めよ
青い海に手を出して 私は失敗した 沈んだ
汽車に抱きついた事もあつた
昼が夜になつた
月の光を私は吸つてゐる

(以上3篇、第3詩集『高橋新吉詩集(南宋社版)』より)

 この第3詩集『高橋新吉詩集(南宋社版)』は高橋新吉が帰郷して禅寺に入る直前に佐藤春夫の編集で番号のみの無題詩101篇をまとめたものであり、佐藤のはからいで療養費用の捻出のために刊行されたものです。いかにも大正~昭和初頭の詩の世界らしい情を感じさせる話です。また精神疾患悪化までのここまでの3詩集を中原中也が大きな共感を持って読み、自然に影響を受けたことも納得のいく文体と発想法を持っています。前述の通り高橋新吉昭和3年(1928年)10月に帰郷して禅寺で精神疾患の療養を受けることになり、その間の昭和4年9月には父が自殺し、ますます病状は悪化します。ようやく回復し上京したのは昭和7年(1932年)1月、ほとんど三畳間の座敷牢に監禁されて過ごした「療養」は3年間におよびましたが、高橋新吉ほど深刻な統合失調症の慢性症状に3年あまり陥っていたのが確認され、自立した日常生活ばかりか創作力においても回復できたのは精神医学的には世界的にもきわめて稀な例とされ、入院中に構想された長編連作詩集の第4詩集『戯言集』(読書新聞社・昭和9年=1934年3月15日刊)はその点でも異例の作品になっています。高橋新吉が復帰後すぐに旺盛な創作力を取り戻したのは、『戯言集』と同月に刊行された第5詩集『日食』(素人社書店・昭和9年=1934年3月28日刊)の冒頭2篇やそれ以降の充実した作品からもうかがえます。

「白い布」

不幸の影のさゝない幸福があらうか
幼児の瞳に映るものが
それが母親の顔であらうと
白い布であらうと
それが最初の不幸の影だとは言へないだらうか

「父」

父は私を愛の目でみた
父は私を今も愛の目でみてゐる
父の目は哀しみで充ちてゐた

父は物が言へなかつた
父は私を哀しみの目でみた
父はどれほどさびしかつた事であらう
父は自殺した
父は泣きながら死んで行つた
父は私の居る牢の外から 忍び寄つて覗いて私を見た
父は黒砂糖と空豆を 私に紙で包んでくれた
父はいのるやうな風をして それを格子の棚に置いた
父は哀しみの目で私を見た
父は夜もねないで咳をしてゐた
父は私を愛してゐた 世界中の誰よりも

(以上2篇、第5詩集『日食』より)

「黒い鳥」

二羽の黒い鳥が頭上を飛んで行つた
あれは父と母との喜びの姿ではないだらうか
風は冷く花立てにさした櫁(しきみ)を吹き動かしてゐる
墓石の前に立つて
雲間を破る月の光に照され
市街は寝静まつて
雪がチラ\/落ちてゐる
私の犯した罪悪は刃もて自らの首を切るに値する
墓石にコビリついた苔のやうに私を蔽つてゐるのは此の汚れた心である
さりながらお許しあれ
此の石の下に私はやがて置かれるでありませう
身を横たへ静かに朽つる事をお許しあれ

(第6詩集『新吉詩抄』より)

「眼鏡」

菊の花弁が焔で焼かれて黒く焦げた
騒乱の都会の轟音の中で
香気は失せた
殺戮は続けられてゐる
爆撃機が爆弾を瀧のやうに投下する
幼稚な文物は爆破され
過剰な欲望はもえつき
地上は毒瓦斯が充満してゐる

幾多の腐臭の堆積の中に
動顛せざる只一つのもの
壊れた眼鏡がすてゝある

(第7詩集『雨雲』より)

「懐胎」

春雨のしとゞ降る日に
母は懐胎した
父は高い山に登つて 雪を摧(くだ)いてゐた
蛇は喜んで 地面を太くうねつた
脊骨を打ちのめされた河は長く横つてゐた
母は胸を張り 身を弓の如く反らせて
毅然として歩いた
颱風がその突き出た腹を撫でた

父は石斧で トド松の凄じい幹を切り仆(たお)した
鹿は驚いて海ばたへ駆けた
鯨が潮を吹いてゐた
母の血は沸騰して 海峡を赤く染めた
噴火した火山島の方向に氷山が流れた

(第8詩集『霧島』より)

「風」

風と云ふものが別に意味があつて 吹くのでもない
地球を乾かす為に吹いてゐるのだ
風が吹けば わが心雨を呼ぶ
温度が 此れが為に冷くなるのだ

「父」

私は父の坐つてゐる膝の前に進んで
湯呑の蓋を取つた

父は
「要らぬ事をする」と呟いた

「大切」

君は縦に生きるつもりか
僕は横に生きようと思ふ

犬よ悲しげな声を出すな
お前が生れ出た事は神を冒涜する事になるのだ

地球を大切にせねばならぬ
我々はもつと地球を大切にせねばならぬ

(以上3篇、第9詩集『父母』より)

 第6詩集『新吉詩抄』と第7詩集『雨雲』の間に高橋は6歳年少の詩友、中原中也を亡くしています(昭和12年10月没)。抒情詩人として多くの愛読者を持つ中原中也が、発想や文体、諧謔の質では高橋新吉と兄弟のように類似した資質の詩人だったのをこれらの詩篇は証してあまりあります。後編では戦後の高橋新吉の、より神道・仏教の合一した禅的ダダイズム詩をご紹介いたします。また闘病体験を作品化した特異な長編連作詩集『戯言集』についてはのちに詩集全編をご紹介する予定です。