人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(17b)ジョン・コルトレーン(ts)

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前回の3枚はプレスティッジ専属時代の名作で、リハーサルなしの3時間のセッション2回でアルバム3枚分を要求されたプレスティッジはスタンダード集になるが、さすがにデビュー作「コルトレーン」1957はリハーサルがあり(ただし自腹)、ちゃんとリハーサルにも全員にギャラが出るブルー・ノートにはオリジナル曲集「ブルー・トレイン」1957を吹き込んだのもこの人らしい。低予算セッションでも「ソウルトレーン」1958のようなワン・ホーン・カルテットの名作をものした。58年の後半で契約消化でアルバム6枚を吹き込み、59年からアトランティック時代が始まる。
ここまでは前回のおさらいで、59年~61年までの3年間・8枚のアルバムでコルトレーンは未来の巨匠の地位を固めた。この期間も優先順位はマイルスのバンドだったから驚異的だが、コルトレーンはマイルスから学んだことをまったく独自に生かしてみせたのだ。

移籍第一作は会社企画で、ヴィヴラフォンのスター、ミルト・ジャクソンとの共演盤(1959年)だったが、マイルス・セクステットの超名作「カインド・オブ・ブルー」録音後に製作した全曲オリジナルの「ジャイアント・ステップス」1959(画像1)はそれにも劣らない大傑作になった。楽理の話は面倒だから省くが、マイルスが「コード進行なし、音列変化でソロを取る」という方法(理解できなくてもいいです)で理論的に反ビ・バップを成立したのに対し、コルトレーンは「1曲の中で12回転調、12の転調すべてでソロを取る」という、ビ・バップの究極型をやってしまった。理論的にはどちらもありだが、考案したのももちろん簡単に実践はできない。ものすごく難しいことをいとも軽々と、しかも格好よく、聴きやすい。

だがこの年にアルバム「ジャズ来るべきもの」を引っ提げてニュー・ヨークに登場したオーネット・コールマン(アルト・サックス)にはみんなひっくり返った。批評家にパーカー以来の革新、「フリー・ジャズ」と呼ばれたその音楽は理論化不可能な代物だった。
コルトレーンは翌年初めてソプラノ・サックス(ジャケット参照)を使用した「マイ・フェヴァリット・シングス」(画像2)、「夜は千の目を持つ」(画像3)をヒットさせるが、その後オーネットとの対決が生涯の課題となる。61年のインパルス移籍後の足跡を次回から見ていこう。