人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(18a)エリック・ドルフィー(as)

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Eric Dolphy(1928-1964,alto sax,bass clarinet,flute)。欧米より日本で生前から人気が高かったジャズマンがドルフィーで、遅いニュー・ヨーク進出(1960年・32歳)から早すぎる死(1964年・36歳・糖尿病)までドルフィーをメンバーに起用し、音楽的な親交を保ち続けたのがチャールズ・ミンガスジョン・コルトレーンオーネット・コールマン(アルト・サックス)の3人だった。
生前この人はオーネットの亜流と批評家にもリスナーにも思われていた。だが今なお評価が上がる一方なのは、セロニアス・モンクと同じくその音楽が解析不可能な謎だと浸透してきたからで、パーカーを基準にすればコルトレーンやオーネットだって解けるが(パーカーの逆を行ったトリスターノやマイルスも)、モンク、ドルフィーアルバート・アイラー(テナー・サックス)は解けない。

特にドルフィーが曲者なのは、パーカーのビ・バップを徹底的に研究した第一人者と言えるのに、ディフォルメの仕方が半端ではない。本人は鳥のさえずり、動物の鳴き声からインスピレーションを受けている、と言っていた。オーネットが和声進行無視のメロディ・ラインを紡いでいくのに対し、ドルフィーはあくまでもビ・バップの原則に乗っ取り和声進行に忠実だが、破壊的に不協和音をぶつけて行く手法だった。オーネットは無理のない中音域を好んだが、ドルフィーのアドリブは楽器の最低音から最高音まで駆け抜けた。

ロサンジェルス出身のドルフィーは1958年に西海岸の名門チコ・ハミルトン・クインテットで遅咲きのデビュー(30歳)、だが先にニュー・ヨーク進出したオーネットの圧倒的な評判からニュー・ヨークでフリーランスになり、第一作「アウトワード・バウンド」1960(画像1)、続く同年の「アウト・ゼア」「ファー・クライ」のスタジオ盤三部作で圧倒的な実力を見せる。
ドルフィーは23歳の俊英トランペッター、ブッカー・リトルクインテットを組み、61年7月に一晩で傑作ライヴ「アット・ファイヴ・スポット」三部作を録音するが、リトルは10月に急死(尿毒症)してしまう。
同年9月に単身渡欧し、現地ジャズマンとのライヴが「イン・ヨーロッパ」三部作で、これもいい。
次回は参加作をご紹介する。