ケニー・ドーハム(享年48歳)の生涯の録音は105枚で、ジョン・コルトレーン(享年40歳)が残した録音が195枚、と比較してもあまり意味はないが、ブルー・ノートのようなインディーズではジャズのアルバムは標準300多くて500枚もプレスされれば良い方で、とうていレコード売り上げだけで食っていけるジャズマンはいなかった。コルトレーンはアルバムもバンドも自己名義だから収入も高いが、ドーハムは一時「ジャズ・プロフェッツ」(前回の画像2)という自分のバンドを率いていたのは例外で、チャーリー・パーカー・クインテット→アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズ→マックス・ローチ・クインテット→フリーランスと、50年代後半までは名門バンドに勤め、フリーになってからも自分のバンドを持たなかった人だった。
その代わりドーハムは意外なところでアルバイトしている。夭逝したアルト奏者アーニー・ヘンリーとのコンビの2作も渋いが、ピアニストのリーダー作への参加が意表を突く。
まずセロニアス・モンク「ジニアス・オブ・モダン・ミュージックVol.2」1952への参加があり、「ホレス・シルヴァー&ジャズ・メッセンジャーズ」1955(画像1)でも貢献度の高いプレイを残し、後者はそのままのメンバーでアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズになる。
セシル・テイラーの第4作「ハード・ドライヴィング・ジャズ」1958(画像2)はプロデューサーのトム・ウィルソン(60年代にはロック畑で大プロデューサーになる)が次作のコール・ポーター名曲集とセットで持ってきた企画だが、ホレス・シルヴァーのドラマー、ビル・エヴァンスのベーシスト、テイラーのフリージャズ・ピアノにドーハムとコルトレーンの2管フロントと無理矢理な人選。コルトレーンが打ち合わせを提案したがドーハムはすげなく拒否したという。では支離滅裂な出来かというと、案外悪くない。このアルバムはブルー・ノートからの再プレス以降はコルトレーンの「コルトレーン・タイム」というアルバムにされてしまった。
ドーハム最大の挑戦はテイラーよりさらに実験的なアンドリュー・ヒル「ポイント・オブ・デパーチャー」1964(画像3)への参加で、ドーハムが発掘した新人ジョー・ヘンダーソンと急死3か月前のエリック・ドルフィーとの3管フロント。ドーハムはここまでやったのだ。