人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

乾直惠詩集「肋骨と蝶」1932(4)

詩集「肋骨と蝶」というシュルレアリスム的なタイトル(シュルレアリスムは異質な概念の衝突を基本とした詩の方法論だった)だけから、具体的な作品内容を推測できる読者は現代では少ないだろう。この詩集では既出『光の氷花』『菊』に続き、次の『朝は白い掌を……』でさらに具体化し、詩集標題作でピークに達するテーマがある。当時の読者にとっては、それは身近で切実だったろう。『丘の上』の諦念はイロニーではなく、現実だった。
このテーマは日本のシュルレアリスト(北川冬彦梶井基次郎、初期太宰治高見順ら)にはあり、本家フランスには見当たらない。また、内面性への志向と相対的な社会的関心の限定にも結びつく。だがそれをそのまま作品の限界といえるだろうか。

7.『朝は白い掌を……』

朝が白い掌を私の額に翳らす。私は新しい翼を生やす。
私は窓を開く。家々をめぐった樹木は、もはやみんな葉をふるった。それは約束された切手のように、吹き曝らされた小庭の隅や軒下に聚り、毀(やぶ)れた私の人生観とともに蹲まる。
私は障子を閉ざす。葩(はな)は花瓶に。子猫は私の膝の上に。そして、昼の小窓の空気の透明! 私はそこでインクの香たかい新刊書の頁にペイパア・ナイフを入れる。荷馬車のふりこぼして行った枯草の匂に混って、小鳥の声が近い方向から透って来る。陽脚の速力。読書力の倦怠。私は無造作にペンをとり上げる。ペンは四辺の薄暗さと呼応する。
夕暮は私の羽がいを毟りとる。私は悄然と寝台に倚りかかる。
あの神経質な雑木林の梢の間へ落下したのは何だろう。あの痴鈍な灰色の雲の中へ消えて行ったのは何だろう。それは森の鍛冶屋の、瑚の枝々に咲いた華ですよ!いいえ、それは私の影でしょう。私は疲労した咳をする。咳は影を追いかける。
私は静かに吸入器をかける。吸入器の霧の中の天使たち! 彼女らは私を隙間なく包囲する。私の胸の金属の錘が、しだいに海綿体になって行く。やがて私は気体になってしまうだろう。そしてこのまま昇天するだろう。私は傍らのフラスコをとる。液体を机上のビイカアに移す。ビイカアの中の冷却した沈澱!ただ沈澱のそれのように、私の悲哀のみが残される。悲哀は刻々洋燈を暗くする。

(隔日掲載)