人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(30b)リー・モーガン(tp)

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よく言われるが、日本でモダン・ジャズのイメージをサウンド、ヴィジュアル共に広めたのはアート・ブレイキージャズ・メッセンジャーズではないかという複数証言がある。初来日は1961年(昭和36年)元旦で、15日までにほぼ毎日、昼夜2回の公演を満席にした。街の青年たちも『モーニン』を口笛で吹いていた、というくらいブームを巻き起こしたのは、やはり後に来日するマイルスやモンク、コルトレーン、早くから来日していたヴァーヴ・レーベルのオールスターズにはないヤバさというか、インテリ度は低いが野性で勝負というか、メッセンジャーズ自体は55年に発足していたが、58年10月録音の「モーニン」でリー・モーガンが加入して初めてメッセンジャーズ独自の音楽が完成されたといってよい。
戦後俳句の大物・金子兜太に、
・どれも口美し晩夏のジャズ一団
という佳作があるが、メッセンジャーズのことだろう。来日中のモーガンはステージ以外は素行不良でスタッフも手を焼いたという。そういう天才がやる音楽が面白くないはずはない。
モーガンは65年までの8年間にメッセンジャーズに25枚のアルバムを残して退団し、以後はフリーランスとして自分のバンドを持つが、メッセンジャーズ時代ではテナーがウェイン・ショーターに交代した「チュニジアの夜」1960(画像1)が傑作として名高い。

ショーターもモーガンと同時期にメッセンジャーズを退団し、ハービー・ハンコック(ピアノ)とトニー・ウィリアムズ(ドラムス)を擁するマイルス・クインテットに移ったが、彼らはリーダー作はブルー・ノートから発表し、当時は「ブルー・ノート派」、後に「新主流派」と呼ばれた。ショーターのブルー・ノート第一作「ナイト・ドリーマー」1964(画像2)はモーガン参加、リズム隊はコルトレーンから、という混成チームだが、メッセンジャーズでもコルトレーンでもない、ショーター加入後のマイルス・クインテットを予告する音楽になっている。

モーガン加入以前のメッセンジャーズの先輩テナー、ハンク・モブレーは61年に数か月でマイルス・クインテットを解雇された不遇の人だが、ブルー・ノートでは生き生きとしたリーダー作を発表し続けていた。人気曲『リカードボサ・ノヴァ』を含む「ディッピン」1965(画像3)もモーガンのやさぐれ風味がほど良く効いた好盤だろう。