人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(31c)ウェイン・ショーター(ts)

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ジャズ・メッセンジャーズを退団したショーターはすぐさまブルー・ノートからのリーダー作の第1作「ナイト・ドリーマー」1964.4(以下19略)、第2作「ジュジュ」64.8を録音。当然のように全曲オリジナル。秋のマイルス・クインテットのヨーロッパ・ツアーから正式メンバーになり「マイルス・イン・ベルリン」64.9で早くも存在感を示し、12月にはブルー・ノート第3作にして翌年5月のハンコック「処女航海」と双璧をなす「ブルー・ノート派」(後に「新主流派」)の完成と言える大傑作「スピーク・ノー・イーヴル」を録音する。この64年のショーターの充実ぶりは翌65年にも続き、マイルス・クインテットを本職としつつまた3枚もリーダー作を録音してしまう。ショーター在籍時のマイルスのアルバム(マイルス生前に公式発表のもの。発掘作は含まず)は、これだけある。

○マイルス・イン・ベルリン(64.9*ライヴ)
○E・S・P(65.8・画像1)
○アット・プラグド・ニッケル(65.12*ライヴ)
○マイルス・スマイルズ(66.10)
ソーサラー(67.5・画像2)
○ネフェルティティ(67.6)
○ウォーター・ベイビーズ(67.6/68.11)
○マイルス・イン・ザ・スカイ(68.5・画像3)
キリマンジャロの娘(68.6/68.9)
○イン・ア・サイレント・ウェイ(69.6)
○ビッチズ・ブリュー(69.8)
○ビッグ・ファン(69.11/70.2)

65年はマイルスの体調不良でメンバーはアルバイトする時間がたっぷりあったらしい。ショーターも66年と67年はマイルス・クインテット優先。当然マイルスはトップクラスだからメッセンジャーズのように乱作はしない。この時期、マイルスは自作曲は書かず、ショーター、ハンコック、ロン、トニーらクインテットの若手メンバーたちに自由にオリジナル曲を持ち寄らせた。「E.S.P.」ではほぼ均等だが「ソーサラー」「ネフェルティ」ではショーター色が濃く、「イン・ザ・スカイ」で8ビートの導入と共にマイルスのオリジナルが増えてくる。
そして「キリマンジャロの娘」のロック化を「イン・ア・サイレント・ウェイ」で促進し、「ビッチズ・ブリュー」のビッグ・バンに至るまで、ショーターは常にマイルスの側近だった。