Soft Machine - Live in Paris 1970
Soft Machine - Live in Paris 1970 (Full Concert) : http://youtu.be/a0O5YgTFE68
Recorded live, march 2, 1970/TV Broadcast
1. Facelift
2. Robert Wyatt Vocal Improv : 19:17
3. Esther's Nose Job: 22:18
4. Eamonn Andrews / Backwards(Slightly All The Time) : 33:16
5. Out-Bloody-Rageous : 47:00
[Personnel]
Lyn Dobson - Soprano and Tenor Saxophone
Elton Dean - Alto Saxophone,Saxello
Mike Rutridge - Keyboards
Hugh Hopper - Bass
Robert Wyatt - Drums,Vocals
このブログではジャズとロックを交互にご紹介しているが、フェラ・クティなどはジャズともロックともどちらとも取れるような、だがジャズともロックともカテゴライズできないような音楽をやっていたアーティストだった。今回取り上げるソフト・マシーンなどもデビュー当初はやはりデビュー当初のピンク・フロイドと肩を並べるヒップなサイケデリック・ロックのバンドと見られていたのだが、フロイドと同じくメンバー・チェンジによってセカンド・アルバムで音楽性が急変、サード・アルバムではデビュー・アルバムからは音楽的には別バンドと言っていいほど変貌を遂げていた。
ピンク・フロイドともまったく逆方向にソフト・マシーンが向かったのは、マイルス・デイヴィスが『イン・ア・サイレント・ウェイ』と『ビッチズ・ブリュー』で示したエレクトリック・ジャズ・ロックの方向だった。マイルスのこの2作への反響は非常に大きく、前者は1969年7月、後者は1970年2月発売だが、ジャズの分野ではマイルス作品に直接参加したウェイン・ショーター、トニー・ウィリアムズ、ジョン・マクラフリンらはともかく、マイルス作品によってエレクトリック編成によるジャズは一気に限界が見せられてしまった観があった。同種の試みは60年代半ばからあったが、エレクトリック編成によるリズム・セクションからソウル・ジャズ以上の発想の転換がなされた例はマイルス以前にはなく、マイルスがエレクトリック編成に持ち込んだポリリズム解釈によるファンクはリズム感覚自体の改革になので、これは一朝一夕に踏襲できる手法ではなかった。
皮肉なことにマイルスの新しいリズム解釈を即座に習得したのがイギリスやヨーロッパ諸国の白人ジャズマンたちだったのは、マイルスが前記2作で起用したギタリストとベーシストがイギリス白人ジャズマンだったことと考え合わせても興味深い。アメリカ人ミュージシャンは黒人白人問わず、従来の伝統的ビートから生理的に抜け出せなかったが、イギリスやヨーロッパ諸国のジャズマンにはジャズ自体が外来音楽だったからマイルスが打ち出したビートの解体もそのまま抵抗なく習得できた、ということもあるし、一聴して従来のジャズより構造的に複雑に聴こえるマイルスのエレクトリック・ジャズは、楽理的に解析すれば、むしろ生理的なビート感覚に真髄がある従来のジャズよりも学習と訓練によって習得し、再生産できると考えられた、ということになる。
イギリスではその先駆けになったバンドがソフト・マシーンやニュークリアス、センティピードらであり、彼らと人脈的にも親しいミュージシャンたちからハットフィールド&ザ・ノース、ヘンリー・カウらが続いた。これらのバンドのメンバーたちはどちらかといえばジャズに親しみながら、世代的には若手ロック・ミュージシャンらと同世代であり、ジャズの表現力をロックの訴求力で演奏したい、という実験的な意欲を持っていた。
( Soft Machine "Third" )
ソフト・マシーンは元々ジャズ志向のあるバンドであり、デイヴィッド・アレン、ケヴィン・エアーズらジャズ志向の薄いメンバーからバンドを離脱していき、セカンド・アルバムでマイク・ラトリッジ(オルガン)、ロバート・ワイアット(ドラムス、ヴォーカル)にさらにジャズ志向の強いヒュー・ホッパー(ベース)が加入したトリオになったのが分岐点だった。『Esther's Nose Job』はここでのライヴではかなり短縮されているが、数曲分のモチーフをメドレーにしたセカンド・アルバムのB面全曲の総称になっている。セカンド・アルバムではヒュー・ホッパーの実兄ブライアン・ホッパーがサックス奏者としてゲスト参加していた。
70年6月発売のサード・アルバムは同年3月~5月録音で、ラトリッジ、ホッパー、ワイアットにエルトン・ディーン(アルトサックス、サクセロ)がレギュラー・メンバーになり、リン・ドブソン(ソプラノ・サックス、フルート)、ジミー・ヘイスティングス(フルート、バス・クラリネット)、ニック・エヴァンス(トロンボーン)の総勢4管のホーン陣になる。ホーンの加わらない曲ではラブ・スパールがヴァイオリンで参加している。『ビッチズ・ブリュー』の発売翌月から録音が始まり、わずか4か月後の発売になるから、これほど同作の直接的影響が早くも現れた例はない。
ただしソフト・マシーンもマイルス作品をそのままなぞったわけはなく、まるで関連のない作品として聴いても通るものになっている。『ビッチズ・ブリュー』とソフト・マシーン『サード』が比較されるのは、『ビッチズ~』発表半年も経たずジャズのみならずロックでも問題作としてクロスオーヴァー・ヒットしている最中に『サード』が発表されたからだった。『ビッチズ~』同様LP2枚組でABCD各面1曲、先例として思い浮かぶアルバムは『イン・ア・サイレント・ウェイ』と『ビッチズ・ブリュー』しかない、ソフト・マシーン『サード』とはそういうかたちで世に現れたのだった。
ジャズとは元々黒人音楽と白人音楽のキャッチボールだったのだが、ロックも黒人音楽のリズム&ブルースを白人カントリー音楽で再解釈して生まれたものだった。黒人音楽的要素が希薄になるたびにロックは最新の黒人音楽を摂取してきて、ブルース・ロックや後のディスコ・ミュージック、白人レゲエ、アフロビートなどもそうだが、ジャズのように元々黒人音楽と白人音楽の混血性の高いものは、ムード的にはともかく方法的に本質までをロックと融合する発想は難しかった。『ビッチズ・ブリュー』と『サード』ほど見事なジャズとロックのキャッチボールは空前絶後かもしれない。
ただし『ビッチズ・ブリュー』→『サード』という流れは実際にあったわけだが、その逆はあり得なかっだだろう、とも想像される。マイルスの個人的な才能の大きさによるものではあるにせよ、『ビッチズ・ブリュー』のような実験はジャズだからこそ実現した企画と思われ、その成功例がなければロックにはソフト・マシーンの『サード』が制作されるような土壌はなかっただろう。マイルスは長年CBSコロンビアのアーティストだったが、ソフト・マシーン『サード』もバンドのコロンビア移籍第1弾アルバムだった。レコード会社にとっては柳の下のドジョウだったが、ソフト・マシーンにとっても2枚組大作、しかも『サイレント・ウェイ』『ビッチズ~』並みに大胆な実験が商業的に許されるという大きなチャンスだった。
その意味では音楽的な影響と言うよりも、ソフト・マシーンが『ビッチズ・ブリュー』という大きなキャンヴァスを与えられて思い切り音楽的な冒険を試みて成功したのが『サード』だった、という方が正当な評価だろう。このライヴでは『サード』で唯一のヴォーカル曲『Moon In June』(サイドC)を除き(その代わりロバート・ワイアットのヴォーカル・インプロヴィゼーション曲がある)、『Facelift』(サイドA)、『Eamonn Andrews / Backwards(Slightly All The Time)』(サイドB)、『Out-Bloody-Rageous』(サイドD)が、ディーンとドブソンの2管クインテットで演奏されている。
このフランスのテレビ・プログラムは、おそらくつい先日ご紹介したブラック・サバスの70年パリ・オリンピア劇場ライヴと同じ番組だと思われるが、サバスのエンド・ロールでアナウンスされた次回予告がヴァン・ダー・グラーフ・ジェネレーターだった。1970年にはソフト・マシーンもヴァン・ダー・グラーフ・ジェネレーターもブラック・サバスも普通に聴かれている人気ロック・バンドだった。その振幅があったからこそ、ジャズの側からも『ビッチズ・ブリュー』のようなアルバムが生まれたのだと思えるのだ。