(「伯母からの年賀状」~「ある女友達への手紙」からの続き)
あるいは父が、ふたたび次女とぼくを引きあわせたものと考える。-だがまるで駄目だ。とうてい納得できない。なっちゃいない。
ぼくは別れた妻や娘たちとの会話を望んでいなかった。留守電で知らせればよかった。健在を知ることができたのは唯一の収穫だったが、ますます距離感を確認する、虚しさだけが残る通話だった。
これが父の引きあわせならば、「ほらみろ、言わないことじゃい」という父の生前の口癖通りだろう。父に愛情表現があったとしたらそれは屈折したもので、たいがいは愚弄・嘲りの言葉だった。
父の晩年の闘病生活は10年に及ぶ永いものだったが、その間に信仰が薄れていくのがありありと判った。ぽくなど礼拝出席をさぼるとそれこそ打擲されたものだが、腹違いの弟は甘やかされ放題だった(継母が出産することになったため、ぼくは実家を出されたのだった。「三日以内に出ていけ」は無理だったが、一週間以内には一人暮らしを始めた。学費だけ、経済的援助はしてくれた)。
食前の祈りすらせず、聖書も手にとらず、信仰について語ることもなくなった。ぼくの結婚式の後の親族会の席ではひとり延々福音の恵みについて長広舌をふるい座をしらけさせた父とは別人になっていた。
父、そして継母は別れた妻の告訴を受けてぼくが住所不定になっていた時、二度に渡ってぼくを警察に引き渡した。二度ともぼくをだますやり方で、一度は父のリハビリ通いに付き添うように言われて出たら父に「来なくていい」と胸を突かれ、その間に継母は鍵を閉めて警察を呼んだ。
数日後にまたぼくは夜道で不審尋問され実家に送られた。朝食後タバコを吸いに出て戻ったら鍵がかかっていた。途方にくれて実家の玄関前に座っていたら覆面パトカーが来た。ぼくの足取りは追跡されていて、別れた妻の住居最寄りに現れたら県条令違犯で拘置、刑事告訴というシナリオができていたのだ、と判ったのは裁判の一週間前の弁護士との接見の時だった。
釈放された一晩だけ実家に泊めてもらった(先に町内の幼なじみを訪ねたが断られた)。ぼくを売った実家だ。そのことは話題にしなかった。四か月間獄中にいたのだ。戦場から帰ってきたような気分だった。以来実家には数回も顔を出していない。すでに絆を裁ち切っていたことに悔いはない。