人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

黒田三郎『風を喰う』

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『夕方の三十分』をはじめに黒田三郎(1919-1980)の詩作品をご紹介してきて、「愚痴っぽい」とネガティヴな感想を持たれたかたもいるかもしれない。前回に五十歳の前後で突然作風の安定があると指摘したが、詩人は私生活でも五十歳を期に勤め先を早期退職して専業文筆家になった。すると自然と依頼作品の比率が増加するわけで、日本の詩の伝統は詩型を問わず嘱目だから抽象度の高い思想詩は書かれなくなる。
俳句では作句時季と作中の季語の不一致すら忌避されることも珍しくないほどで、現代日本の詩の基本思想はリアリズムなのだと言える。藤原定家松尾芭蕉がぬけぬけと和歌や発句で巧妙なフィクションを書いていたのは古典時代の大詩人として例外視される。
黒田の場合もぬるま湯的な日常詩が求められた70年代の詩の風潮に流された、と言えるかもしれない。黒田の属した「荒地」グループは政治的な思想を刑而上的に思索する従軍経験者の生き残り集団だったが(だから女性詩人はいなかった)黒田は例外的に叙情的な資質を持っていた。また、詩人的感受性の特権を認めない考えから初期の詩では社会主義的に民衆の視点を仮構したが、ほとんどが無理が目立つものに終った。黒田の考える民衆の中に、黒田自身はいなかった。
ご紹介する一編は詩集「ふるさと」1974の、ごくさりげない作品。うまい詩を書こうとも思想を盛ろうともしていない。そこがいい。

『風を喰う』黒田三郎

カチャと言えば
インドネシア語ではガラス
ガチャは象
カチャカチャ
ガチャガチャ
ふたつ重ねると複数になる
たくさんのガラス
たくさんの象

騒々しさになれてそれをもう
騒々しいとも思わなくなった
都会の暮しの中で
カチャカチャガチャガチャ
たくさんのガラス
たくさんの象と
お伽話のように懐かしく
思うことがある

高原に来て十日余り
とうもろこしと花豆畠の間を歩き
僕が思うのはマカン・アンギン
インドネシア語
散歩が「風を喰う」であるとは
全くさわやかでしゃれている

「風を喰らう」と日本語で言えば
素早く逃げ出すことだ
でも僕は
都会から逃げ出したわけではないのだ

ただ「風を喰う」ために
僕はいま高原の道にいる
(詩集「ふるさと」より)