人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

小野十三郎「ロマンチシズムに」ほか(詩集『半分開いた窓』大正15年=1926年より)

[ 小野十三郎(1903-1996)、大正15年=1926年、第1詩集『半分開いた窓』刊行の頃、23歳。]
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第1詩集『半分開いた窓』(私家版)
大正15年(1926年)11月3日・太平洋詩人協会刊
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「ロマンチシズムに」

 小野十三郎

僕は頭脳の中で
非常に無性格な一つの風景を想起する
そこには僕がふだんに見るやうな
草木、家屋のただ一つもあつてはいけない
と云つて表現派の舞台面のやうに極端に変歪されてゐてもいけない
さあ何と呼んでいゝのか
かりに絶対平凡と呼んでおいてもよい
僕の思想や感情は
かゝる想像された色彩のない世界を
絵葉書を半分に引き裂くやうに
徹底的に破壊してしまふためには
実に豊富なあり余る力を蔵してゐるやうな気がする

虚無主義に」

 小野十三郎

お前の内容はね
貨物船の排水量のやうに
いやにドツシリと俺の脳髄の上にのつかつてゐるが
お前を繋留してゐる鎖は
浪にゆらぎ
潮に流れるたんびに
まるで凧の糸のやうに 伸縮自在
どこへでもその蠣殻の喰つついた錨をひきづつてゆく
ブルジヨアの処世術のやうな
お前の行動の自由さ加減は
いやまつたく俺を感心させるよ

「思想に」

 小野十三郎

僕の頭蓋骨の中には
煤けた共同長家が列んでゐる
そこには実にありとあらゆる思想が
隣りあひ向ひあつて棲んでゐる
やつらは各々孤独をまもつて
朝夕の挨拶すらロクに交さない
奴らは揃ひも揃つて働きのない怠け者で
その日その日の糧にも窮してゐる
うちつづく営業不良に見る影もなく痩せ衰へてゐる
穴居時代の民族のやうに
みんな憂鬱でありみんな疲れてゐる
こゝには弱肉強食も相互扶助もないんだ
ひとりを隔離しひとり存在してゐる
秋がきた
冬も近い
時々奴らは家を空にして
何処かへ出てゆく
冬眠の仕度にかゝるんだらう
が、獲物を仕入れて帰つてくる奴もあれば
そのまゝ永久に姿を晒してしまふのもある
空家はすぐに塞つてしまふのだ
入れ代りに変つた野郎がいづこからともなくやつてきて
一言の挨拶もなくその家の主人におさまりかへる
そして自分の周囲に
以前に倍する高い堅牢な城壁を築いてしまふ
あゝ
その一つ一つの巣に
これらの生気の無い蒼ざめた思想の一つ一つの形骸を眠らせて
僕の頭蓋骨も又冬に突き入る 

(詩集『半分開いた窓』大正15年=1926年11月私家版より3篇)


 小野十三郎(1903-1996)23歳の第1詩集『半分開いた窓』が第一部、第二部に分けられ、これがおおむね年代順と推定されて第一部が比較的短い抒情詩、第二部が比較的長い思想詩的作品を集めた構成であるのは前回でも触れてきましたし、前2回では第一部に収録された詩篇からご紹介しました。小野十三郎の詩は抒情詩の場合でも自然詠嘆詩、恋愛詩などではなく、内省的な自己(自我、自意識への)観照詩である点ですでに思想詩的な側面を備えたものですが、第二部では明確にアナーキズム詩人としての批評性の強い詩が並び、巻末ではスローガン的な直接メッセージ性の高い長詩で締めくくられます。小野十三郎自身が第1詩集『半分開いた窓』を後年「抹殺したい」「カスだ」と嫌うのも、それらスローガン的なメッセージ詩にクライマックスを置いた詩集という構成に若書きへの羞恥を拭いきれなかったからと思われます。

 詩集第二部から今回引いた3編は、詩集での配列順では「思想に」の方が早く置かれ、数篇置いて「虚無主義に」「ロマンチシズムに」の順で並びますが、3編を抄出するなら「ロマンチシズムに」「虚無主義に」「思想に」の順で読む方がこれらの詩の着想や思考の流れが明確に伝わると思われるので、この配列でご紹介しました。前2回でご紹介した『半分開いた窓』第一部の詩にあった流露感はここでは理屈っぽい自己分析に置き換わっており、親しみの持てる詩ではありませんし、文体の明晰性の面でもどこで一文を区切って読めばいいのか読者を混乱させ、詩人自身も放り投げてしまったような混乱が見られます。佳作と呼ぶにも完成度の低い、詩としては不出来で消化不良気味の試作とも言えます。しかし「ロマンチシズムに」「虚無主義に」から「思想に」に読み進むと、

 僕の頭蓋骨の中には
 煤けた共同長家が列んでゐる
 そこには実にありとあらゆる思想が
 隣りあひ向ひあつて棲んでゐる

 ――と明確な自我の分裂意識が規定され、攻撃の対象はさまざまに分裂した自我の器である自分自身の思想的混乱であることが暗示されます。第一部の抒情詩の内向的な攻撃性の根拠を解き明かしているのが第二部の未熟な思想詩群であり、それが表裏一体であっても統一した詩には示されないのが東京遊学中の23歳の第1詩集『半分開いた窓』の段階の自己認識であり、その点で結婚して郷里・大阪に所帯を持ち、十分な生活体験によって抒情詩と思想詩の区分のない具体性を備えた次の31歳の新作詩集『古き世界の上に』(昭和9年=1934年)を小野十三郎が自信を持った初の詩集とするのはわかる気がします。第1詩集『半分開いた窓』は同世代のアナーキスト詩人・多田不二から「萩原朔太郎の模倣以上の何ものでもない」と酷評され、小野はその酷評を苦々しく感じながら受け入れています。しかしまだ生硬な、理屈をこねただけのような「ロマンチシズムに」「虚無主義に」「思想に」にもまだ年少の詩人の自意識との格闘から来る青臭い魅力はあるので、こうした詩はまだ学生上がりの若年詩人の第1詩集ならではの特権でもあり、一人の詩人の履歴にはこうした試作を経るのが必要だったのがこれらの不出来な詩の手応えからも確認できるのです。

(旧稿を改題・手直ししました)