石原吉郎(1915-1977)は帰国翌年に早くも商業誌に作品が登用された。読者投稿欄に応募した処女作がアマチュアのレヴェルではないと評価され(選者は鮎川信夫と谷川俊太郎)、翌月号からは毎月のように新作が依頼されるようになった。第一詩集の刊行は48歳。すでに第一線詩人として詩の一流出版社から商業出版され、刊行と同時に現代詩の古典と目された。以降晩年まで七冊の単行詩集と一冊の句集、四冊の詩論・エッセイ集、一冊の対談集を刊行。急逝後に生前に編集された詩集二冊、歌集一冊が刊行され、全著作と未収録作品やエッセイ、書簡を集成した全三巻の全集が編まれた。
晩年の詩人は詩壇の名士としてもてはやされていた。逝去の半年後には掲載画像にある追悼特集書が発行され、その翌年には全集が刊行されるほどだった。
だがまもなく関係者は石原について一斉に口を閉ざすようになる。追悼書や全集の月報、注釈や年譜では直接的には触れられていないが、私生活にかなりの問題を抱えていたらしい。石原は入浴中に心不全で急逝したのだが、当時夫人は精神病棟に入院していた。全集のために集められたが、公表できない書簡が晩年に多数ある。友人だった批評家の自殺。アルコール依存と狂言自殺の誇示。若い女性詩人たちとの関係。こうしたことが、誰も直接証言としては語らないが、没後しばらくは流言され、やがて誰も語らなくなった。
石原は20代初めからのキリスト教徒でプロテスタントの洗礼を受けており、神学校への受験準備中に召集された。戦後(帰国後)も受洗した教会に戻り、葬儀も同教会で行われた。二編を引こう。
『世界がほろびる日に』
世界がほろびる日に
かぜをひくな
ビールスに気をつけろ
ベランダに
ふとんを干しておけ
ガスの元栓を忘れるな
電気釜は
八時に仕掛けておけ
(詩集「禮節」1974より)
『風』
男はいった
パンをすこし と
すなわちパンは与えられた
男はいった
水をすこし と
水はそれゆえ与えられた
さらにいった
石をすこし と
石は噛まずに
のみくだされた
そのあとで男はいったのだ
風と空とをすこしずつとと
(詩集「足利」1977より)
このような詩人が書いた俳句と短歌とはどのようなものだろうか?
(次回へ)