石原吉郎(大正6年=1915年11月11日生~昭和52年=1977年11月14日没)
位置
しずかな肩には
声だけがならぶのでない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備の空がついに撓(たわ)み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である
(初出・昭和36年=1961年8月「鬼」)
事実
そこにあるものは
そこにそうして
あるものだ
見ろ
手がある
足がある
うすらわらいさえしている
見たものは
見たといえ
けたたましく
コップを踏みつぶし
ドアをおしあけては
足ばやに消えて行く 無数の
屈辱の背なかのうえへ
ぴったりおかれた
厚い手のひら
どこへ逃げて行くのだ
やつらが ひとりのこらず
消えてなくなっても
そこにある
そこにそうしてある
罰を忘れられた罪人のように
見ろ
足がある
手がある
そうして
うすらわらいまでしている
(初出・昭和31年=1956年2月「文章倶楽部」)
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以上2篇、第1詩集『サンチョ・パンサの帰郷』(昭和38年=1963年12月25日・思潮社刊)より。石原吉郎(1915-1977)の詩は以前、晩年の壮絶な心中詩「相対」をご紹介した際に簡略に経歴も記しましたが、再度触れておきましょう。石原吉郎は静岡生まれの詩人で、23歳で受洗し宣教師になるため退職、神学校に入学直前の昭和14年(1939年)に召集を受け、ハルピンに派遣されました。敗戦によってソヴィエト軍に部隊ごと捕虜にされ、シベリアでの強制労働から帰国したのはスターリン死去による特赦を受けた昭和28年暮れのことで、24歳から30歳までを軍人、さらに38歳までをシベリア抑留兵として過ごしたことになります。帰国した石原吉郎は翌年から詩作を始め、雑誌への投稿詩が即座に特選となり、会社員生活のかたわら旺盛な詩作を続け、昭和38年には帰国10年目にして48歳で第1詩集『サンチョ・パンサの帰還』を刊行し、第一線の現代詩人の地位を築きました。石原は晩年には奇行が目立ち、60代にしてますます旺盛な詩作に連れて狂言自殺をくり返すようになりましたが、昭和52年11月に新作詩集2冊の編集を完了する間際に入浴中に心不全で急逝しました。
石原吉郎は日本の昭和の歴史の犠牲者と呼んでいいような生涯を送った人でした。青年~壮年時代をまるごと兵役と捕虜に奪われた上に、帰国した石原に支払われた8年間の軍人棒給は4万円に過ぎず、しかも朝鮮戦争の開戦に応じた日本の再軍備(自衛隊発足)とともにレッド・パージの風潮が起こっていた時期だったので、シベリア抑留兵にはソヴィエトでの共産主義洗脳疑惑がかけられ、正規の再就職もままなりませんでした。39歳で詩作を始めた石原の投稿詩は選者の鮎川信夫・谷川俊太郎に即座に「投稿詩のレベルどころではない」と認められて第一線級の詩人とされましたが、石原吉郎が立原道造(1914-1939)と同世代なのを思うと、石原が48歳にして刊行した第1詩集『サンチョ・パンサの帰郷』は戦前の抒情詩とも、また戦後の「荒地」同人や詩誌「ユリイカ」に拠った詩人とも異なる異様な作風を確立したかを思い知らされます。
今回上げた2篇のうち「位置」は詩集刊行に近い昭和36年(1961年)に、「事実」は詩人としてデビューしてからまだ3年目の昭和31年(1956年)の作品ですが、象徴詩ともシュルレアリスムともまったく無関係に平易で日常的な言葉と文体で書かれているにもかかわらず、詩の伝える緊張感は異常と言っても良いほどです。石原吉郎は兵役~捕虜体験を通じて生死の境を10年あまり強制されてきた人でした。しかしそうした伝記的な背景を知らずとも「位置」「事実」はぎりぎりの限界までに圧迫された精神状態(当然それは肉体的な死にもつながります)を切り詰めた語彙と文体で伝えてくるので、これらの詩の生まれた背景にはどれほど常人には耐えがたいほどの危機があったのだろうと読者を唖然とさせるものがあります。石原吉郎は生前あまりに存在感が大きかった詩人だけに、没後は現代史の風化とともに閑却されがちになっていますが、叫びになる一歩手前で押し殺したようなこの緊張感はおそらくいつの時代の人間にも隣り合わせのもので、石原吉郎自身も帰国後に詩人として身を立ててからも最晩年までその地獄に身を置いていたのが生涯の全詩集からうかがえます。これらは詩が詩として成り立つぎりぎりの線で成立していますし、抒情詩でも人生訓でも心境詩でもありません。しかもここには一種の軍人的な危うさ、一人一殺的な刹那への任侠的指向があり、決定的に大らかさを欠いている点で人を追い詰めるような性格の詩になっているのも否定できません。