Bud Powell Trio-"At the Golden Circle"1962
https://www.youtube.com/watch?v=Q3hiFI52J78&feature=youtube_gdata_player
1.Swedish Pastry(~03:40)/2.There Will Never Be Another You(~10:30)/3.Move(~17:35)/4.Just A Gigolo(~18:45)/5.Relaxin' At Camarillo(~28:15)/6.I Remember Clifford(~38:00)/7.Reets And I(~47:05)
Bud Powell-Piano
Torbjorn Hultcrantz-Bass
Sune Spangberg-Drums
Recorded At The Club "Golden Circle", Stockholm/1962.4.16
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バド・パウエルをアルバム一枚分まとめてご紹介する機会ができて嬉しい。この人はビッグ・ネームだが独特の取っつきづらさがあるので、知名度ほど広く聴かれていないが、バドを聴いている人は全アルバムを聴いているくらいに強烈な訴求力を持つ。しかもこのライヴ演奏は没年の四年前、演奏活動を休止する二年前の、バドの楽歴が最後に輝いていた頃のものになる。バドについてはうまく冷静に書けそうにないので、ウィキペディアの項目を足したり削ったりしてまとめて、それから今回ご紹介したアルバムについて解説したい。
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[バド・パウエル]
バド・パウエル(Bud Powell 本名:Earl Rudolph "Bud" Powell, 1924年9月27日 - 1966年7月31日)はアメリカ合衆国のジャズ・ピアニスト。
チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーらによって確立されたビバップ・スタイルのジャズをジャズ・ピアノの分野に定着させ「モダン・ジャズピアノの祖」とも称される。また、現在まで続くピアノ、ベース、ドラムスによる「ピアノ・トリオ」形式を創始した。
[来歴]
1924年、ニューヨークに生まれる。パウエルの祖父はフラメンコ・ギタリストで、父はストライド・ピアニスト、兄のウィリアムはトランペット奏者という音楽一家で育つ。また、弟のリッチー・パウエルや、学友のエルモ・ホープも後にピアニストとして名を成すことになる。バドは最初はクラシックの勉強をしていたが、アート・テイタムらの影響でジャズに興味を持つようになり、15歳になる頃には兄のいるバンドでピアノを弾くようになっていた。
スイング・ジャズ系ピアニストの中でもモダンなスタイルを持つアール・ハインズやビリー・カイルの影響を受けた右手の高速なシングルトーン(単音)と、頻繁なコードチェンジに対応するため左手はコードプレーに徹するという、ビバップに最適化された新たな演奏スタイルを確立した。また、同時代のジャズピアニストであるセロニアス・モンクとは深く親交があり、若き日のパウエルはモンクから音楽理論を学んだと言われている。
1940年代後半から50年代初頭にかけて音楽面の最盛期を迎えるが、50年代中期以降は麻薬やアルコールなどの中毒に苦しみ、精神疾患(統合失調症)を負う。しかしながら、不調期の録音においても、呻き声を発しながらの鬼気迫る演奏を聴くことができ、これを含めてパウエルの個性として評価する声が多い。
1960年代初頭は本国アメリカにジャズ不況が訪れ、多くのジャズメンがヨーロッパに活動の場を移した時期であるが、パウエルもまたフランスに渡って活動を続ける。良好な環境と好意的な聴衆に支えられて麻薬禍からは脱却するが、既に体はボロボロであり、1964年アメリカに帰国した後は活動休止し、栄養失調と肺炎から1966年死去。
パウエルは精神疾患の治療で電気ショック療法を受けた、また警官に頭部に暴行を受けた為に、指が以前の様に上手く動かなくなったというのが通説である。
ルーレット、ヴァーヴ、ブルーノートなどのレーベルに演奏を残す。アルバムの代表作に『バド・パウエルの芸術』『アメイジング・バド・パウエル』『ジャズ・ジャイアント』など。作曲も多く『ウン・ポコ・ローコ』『パリジャン・ソロフェア』『クレオパトラの夢』などが知られる。
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楽してますね今日の俺(笑)。ウィキペディアには何か所か単純なデータ誤認があったので、それは直しました。「1966年に帰国し死去」ではなく「1964年に帰国し1966年に死去」という具合に。パウエルの演奏中のうなり声は有名だが、インタビュー中に歌い出したりする様子からは歌は音痴で、「鬼気迫る」どころかパウエルがうなっているのはご機嫌な証拠なのはライヴ盤を聴けばわかる。
パウエルの精神疾患の原因も、電気ショック療法の失敗か警官からの殴打か、どちらも伝説でわからない。とにかくまともにコミュニケーション取れるのは、バドから可愛いがられている若手ミュージシャンくらいというほどだった。わりとよくあるタイプの奇行だが、クラブ出演前にその日のギャラを全部ボーイに渡して、全額使って消しゴムを買ってきてくれ、と命じて10万円分全部消しゴムを買ったこともあった。
初期から後期まで管楽器奏者との共演や、他人のアルバムへの参加は数えるほどしかないのもピアニストとしては例外的。バド自身が若くして一枚看板を張れたからでもあるが、生涯レギュラー・メンバーで活動しなかったのはバンドの運営に興味がなかったのだろう、ベーシストやドラマーは誰でもよかった。
バドのヨーロッパでの活動はマネジメントの言いなりで、念のいったことに女性マネージャーをつけてバドの愛人にさせ、子供を生ませて結婚させた上でヨーロッパに出稼ぎに行かせている。ヨーロッパでは公私ともに献身的にバドを世話してくれるパトロンがついたが、ニューヨークに帰国したバドは遺作『リターン・オブ・バド・パウエル』1964の後クラブ出演もほとんどできなくなり、精神疾患の悪化と思われる栄養失調と体力・免疫力低下からくる肺炎で逝去した。まだ41歳だった。結婚していたはずじゃなかったのか?
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この『アット・ザ・ゴールデン・サークル』というアルバムは実はVol.1からVol.5までの5枚ある。バドの大ファンがバド本人の了解を得て客席録音していたもので、1978年に発掘発売された。ヨーロッパ滞在中のバドはスタジオ盤は『ポートレイト・オブ・セロニアス』『バウンシング・ウィズ・バド』『バド・パウエル・イン・パリ』『ブルース・フォー・ブッフモン』と、ドン・バイアス、デクスター・ゴードン、ディジー・ガレスピーのアルバムに各1枚ずつ参加していて、没後早い時期にESPレーベルから発掘ライヴが出た。今では20枚以上ライヴやプライヴェートな自宅録音がCD化されているが、78年の時点ではこの発掘は大発見で、しかも演奏・録音ともに内容がすこぶる良かったのだ。
厳密に言うと、演奏は微妙なものだった。初期のバドの駆け抜けていくような疾走感、汲めども尽きないイマジネーション、思い切った歯切れのいいタッチなどは見る影もなかった。集中力は途切れとぎれで、つっかえたり明らかにアーティキュレイションからはミストーンな、流暢とは言いがたいフレーズは音楽的にはまるで別人のようだった。だが、演奏に込められたほとんどイノセントな情熱や即興に賭けるエモーションは初期から晩年までまったく変わらなかったのだ。それがアルバム5枚分のライヴ盤でだめ押しのように出てきた。
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実はご紹介する音源は編集されていて、1.は『アット・ザ・ゴールデン・サークルVol.3』から(フェイドアウト)、2.はESPレーベルからのライヴ盤から、3.~6.が『Vol.1』から、7.が『Vol.4』からとめんどくさいことをしている。2.は名曲名演だから、ゴールデン・サークルでは演奏されていないので入れたかったのだろう。1.をフェイドアウトで入れるのは不要だし、一曲カットせずに『Vol.1』をそのままアップすればよかっただろう。照合する手間がめんどくさかったぞ。
バド・パウエルは生涯ビ・バップのミュージシャンで、ビ・バップ出身者のほとんどがハード・バップへ転身していったのには目もくれなかった。パウエルのヨーロッパ時代はアメリカ本国ではフリー・ジャズが台頭していたが、フリー・ジャズのミュージシャンはハード・バップは反動として軽蔑していたが、ビ・バップはアヴァンギャルドの先達として尊敬していた。パウエルは技法ではなく熱意によって、フリー・ジャズを先取りした存在と見做された。
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フリー・ジャズの話に寄り道したのは、『アット・ザ・ゴールデン・サークル』の発掘によって『クリフォードの思い出』がヨーロッパ時代のバドの最重要レパートリーだと判明し、次々発掘されるライヴ盤でもほとんどが同曲を演奏していることでそれは決定的になった。実はこの曲は、テナー奏者ドン・バイアスのアルバムで61年12月、バイアスのバンドでオムニバス盤に収録された四曲の中で63年1月に、それぞれ録音されている。だがバイアスのためのレパートリーだろうと、それを注目する人はいなかった。
パウエルが自分のトリオでもレパートリーにしていたのには感慨を催させるものもあった。トランペット奏者のクリフォード・ブラウンはバド自身も可愛いがっていた後輩であり、ツアー中に自動車のスリップ事故で早逝したが、同乗していて一緒に亡くなったのがブラウンのバンドのピアニストだったバドの弟リッチー・パウエルだった。
だからバドにとっては、ベニー・ゴルソン作のこの追悼曲は二重に思いの重なるものだが、バイアスとの演奏とトリオだけの演奏では決定的な違いがある。これは元々テーマのワン・コーラスだけで2分かかる、長音符だらけのプレイヤー泣かせの曲で、その上AとA'で小節数とコード進行を取り違えやすい実は相当の難曲だが、バドはこの曲を極限までテンポを落として演奏している。遅い上に音符が少ないということは一音一音のタイミングが極端に難しくなるということで、ベースもドラムスも崖っぷちのような演奏を試されているのがわかる。
『アット・ザ・ゴールデン・サークル』はVol.1とVol.3の人気が高いが、どちらもこの曲が入っているからでもある。『クリフォードの思い出』のやばさはすぐわかるし、それがわかれば『ゴールデン・サークル』の全五枚のどの曲からもバド・パウエルの肉声が伝わってくる。タイム・テーブルを併記しておいたので、ぜひ『クリフォードの思い出』一曲だけでもお聴きください。