人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

溝口健二『武蔵野夫人』(東宝1951)

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溝口健二『武蔵野夫人』(東宝1951)
Exparts of Sequence
https://www.youtube.com/watch?v=Q9vrFYuDl5E&feature=youtube_gdata_player
https://www.youtube.com/watch?v=AiT1jRPLWbI&feature=youtube_gdata_player
(宣伝資料より)
 武蔵野の高台に住む良家出身の道子(田中絹代)と夫の大学教授・秋山(森雅之)のもとへ道子の従弟勉(片山明彦)が復員してくる。勉は秋山家の同居を望んだが、嫉妬深い秋山は彼をアパートに住まわせる。勉の生活が荒れることを心配した道子は元・民間軍需工場経営者の従兄・大野(山村聡)の妻富子(轟夕紀子)の提案で、富子の娘雪子の家庭教師になる。武蔵野の小道を一緒に散策するうちに道子と勉は互いに男女として意識しあうようになった。しかし富子はそれを秋山に暴露し、秋山はそれをきっかけに富子と関係を持つようになる。ある時嵐にあった道子と勉はホテルで一夜を過ごすが、道子は勉の激情を退けるだった。その頃、道子が大野に懇願され事業の金策に地所を抵当に入れると知った秋山は、登記証書を盗んで富子と旅に出たものの委任状がないため売却できず富子に捨てられ帰宅すると、道子は登記証書の売却を無効にするために……。
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 原作は言わずと知れた大岡昇平のベストセラー小説で、敗戦後の世相を描いて今日でも読まれている秀作です。○○夫人、というタイトルは西洋小説の翻訳では普通ですが、日本でも○○夫人、というタイトルで小説が書かれるようになったのは『武蔵野夫人』の大ヒットによるものです。
 『雪夫人絵図』(新東宝1950)、『お遊さま』(大映1951)に続く溝口健二のフリー時代は『武蔵野夫人』(東宝1951)を経て『西鶴一代女』(新東宝1952)でヴェネチア国際映画祭監督賞の成果を上げ、次の『雨月物語』(1953、ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞)からは1956年の没年まで大映に看板監督として専属契約することになります。そして『雪夫人絵図』『お遊さま』『武蔵野夫人』の三作は、『西鶴一代女』でかつての全盛期以上の復活を見せた溝口のスランプ三部作というのが定評です。昔テレビの深夜放映で観た時も散漫で小味な印象でした。
 今回もDVD視聴ですからサイズは大差ないのですが、テレビ放映は民放でしたからCMが入りました。映画のテレビ放映にCMが入るのはそう悪いことではないでしょう。お茶の間で休憩なしに二時間前後の映画鑑賞をするのは窮屈です。テレビ放映につきものの再編集(カット)も現在では映画会社側で行われており、何より現代ではテレビ放映権による収益を前提としないでは新作映画の予算が立ちません。イーストマン・カラーの普及と映画のテレビ放映が始まった60年代の半ばからは、映画はテレビ放映を意識した(前提とした)ものになったと、一般的には言えるでしょう。
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 しかし溝口健二はテレビ放映を意識しない時代の人だったので、CMの入らない鑑賞だと印象がまるで変わってしまいます。DVD視聴だって一時停止してトイレに立ったりもしますが、それにテレビ放映だって録画してCMを飛ばせばいいのですが、録画の場合も強制的に切れ目が入るわけです。
 で20数年ぶりに観ましたよ『武蔵野夫人』、おお、悪くないじゃないか。これが代表作だったら困るが、『雪夫人絵図』で焦点が定まらず、『お遊さま』で狙いを外した経験からか、悲劇に終わる風刺的コメディとしてテンポ良く、キャラクターの描き分けも簡潔で的確です。
 『雪夫人』や『お遊さま』で失敗したのが、手法的には同じでも今回は成功したのは、溝口が『武蔵野夫人』に描かれた世界、登場人物たちを憎んでいたからじゃないか、と思われるのです。『雪夫人』や『お遊さま』の時は中途半端に作品世界を大事にしてしまったから輪郭のぼやけたものになった。『武蔵野夫人』が成功作と認めても代表作とはしたくないのはその意味です。憎しみをもってくっきりと描くのは屈折のありさまとしては単純で、上手くは行っても深みはない。愛しているものを突き放して見つめる時にこそ、溝口のような映画作家の場合には本当の真髄が発揮されるでしょう。
 今回は唯一ヒロインの肩を持ってはいますが、俗物たちばかりの人間関係の中では追い詰められていくしかない。『お遊さま』では狙いと外れてしまった田中絹代の意志の強いキャラクターが、『武蔵野夫人』では作品にうまくかみ合っている。しかし本当に田中絹代のキャラクターを生かすならストイックな方向ではない強さなので、次は『西鶴一代女』になるわけです。また、『武蔵野夫人』ではヒロイン以外は要するに底の浅い悪役なので、彼女の苦難も人間性の悪に苛まれているというより、単に近親者の身勝手や欲の浅ましさにこらえているだけのように見える。
 その程度の次元でこの映画の世界は組み立てられているため、成功していると言っても題材に見合った卑小さしか溝口は描けなかったのです。『武蔵野夫人』の原作が卑小なのではなく、溝口は東京の、敗戦直後の世相から卑小さしか引き出せなかった。これが京阪神が舞台なら、もっと人の心や街のうつろいをドラマに反映させていたはずです。
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 褒めるつもりで、実際褒めながら書き始めていたものが、追えば追うほど評価を落とすような書き方になってしまって自分でも意外ですが、こうして三作とも感想をまとめてみると、溝口スランプ三部作はどれを取っても他の二作と較べて見劣りする、という不思議な関係になっていて、『武蔵野夫人』で言えば結局『雪夫人絵図』や『お遊さま』より溝口らしくない、ということになります。『雪夫人』や『お遊さま』がそれぞれどのようにまとまりを欠いた作品だったかは指摘した通りで、見どころは三作ともにあるけれど、どれもどこかしら首尾の整わないところがある。そうなるとやはり世評どおりスランプ三部作なのか。溝口びいきとしてはなんだか口惜しく感じますが、この三作を続けて観たのは今回が初めてなので、実に楽しく観ることができました。それはもう、観ないより観る(観直す)方が楽しいに決まっています。