人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

小津安二郎『その夜の妻』(松竹1930)

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その夜の妻(That Night's Wife)1930
https://www.youtube.com/watch?v=RfWfTr4GbaM&feature=youtube_gdata_player
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== あらすじ ==
 橋爪周二(岡田時彦)は病床に伏している娘みち子(市村美津子)の治療費を工面するため、ビジネス街に拳銃強盗に入る。金を盗みだした後、警官隊から逃れてタクシーで妻子の待つ家へ帰る。周二は妻のまゆみ(八雲恵美子)に奪った金を渡し、みち子の病気が治ったら自首すると告げる。その時、周二が乗って来たタクシーの運転手が訪ねてくる。実は運転手は変装して張り込んでいた刑事の香川(山本冬郷)だった。上がり込んだ香川に対しまゆみは銃をつきつけ、香川の銃も奪って周二にみち子の看病を頼む。やがて夫婦は眠り込んでしまい香川はピストルを奪い返すが、朝まで逮捕は待つと言う。夜が明け、須田医師(斎藤達雄)が往診に来てみち子の回復を告げていく。香川は眠ったふりをして周二を逃がすが、周二は戻ってきて香川に連行を頼むのだった。
== スタッフ==
監督:小津安二郎
原作:オスカー・シスゴール『九時から九時まで』
翻案・脚色:野田高梧
撮影・編集:茂原英雄
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 雑誌『新青年』1930年3月号掲載のオスカー・シスゴールの短編小説『九時から九時まで』を原作に野田高梧が脚色。映画化を薦めたのは松竹蒲田撮影所所長の城戸四郎で、岡田時彦が小津作品で初主演した。洋風のセット、刑事役にハリウッド映画への出演歴がある山本冬郷をキャスティングするなど、アメリカ犯罪映画の影響が表れている作品。1930年7月6日に帝国館で封切られた。(ウィキペディアより)
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 小津安二郎と言えばホームドラマを主力とする松竹の、日本映画の黄金時代を築いた大監督で、代表作もジャンル分けすればホームドラマに分類される作品になります。戦前では松竹は蒲田撮影所作品の松竹蒲田と、大泉撮影所作品の松竹大泉に区別されました。蒲田はホームドラマに、大泉は時代劇に特化していき、松竹大泉はやがて独立して東映になります。時代劇は要するに大衆アクション映画ですから、敗戦後に占領軍に時代劇の制作を禁じられた東映はアクション映画を主力とするエンタテインメント映画の会社になりました。小津は松竹蒲田に入社し、松竹の分裂でも旧蒲田の方に残りましたが、東映の監督になった小津というのも、少なくともトーキー以後の作風からは、ちょっと想像できません。ですが『その夜の妻』は、初期のサイレント作品の小津が最初からホームドラマ一辺倒の監督ではなかったことを教えてくれる作品です。
 小津は1903年12月12日生れですから、この映画は26歳の時の監督作品になります。1927年(23歳)で初監督作品『懺悔の刃』を手がけてから16作目、ただし1936年にトーキー化するまでのサイレント期小津作品は半数以上のフィルムが失われており、存在するもっとも古い作品でも1929年の第8作『若い日』になります。1929年に第8作、1930年に第16作とは間違いではなく、初期の小津は年間に5~7本の監督作品を制作していました。小津の監督作品は1927年~1936年にサイレント作品34本、1936~1962年にトーキー作品19本を数えます。
 溝口健二(1898~1956)は小津より五つ年上で、1923年に24歳で初監督作品を手がけており、同年には11本の監督作品を発表しているくらいで、散佚作品も小津以上ですが、年長だけあってサイレント期にすでに作風が確立がされ、サイレント作品の重要性は高く見られています。小津映画のリヴァイヴァルは1980年代末からの現象ですが、サイレント期の作品は溝口ほど重要視されていないとは言えるでしょう。
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 現代ではサイレントはおろかB/W映像ですら時代外れになっていますが、マンガに音声や着色がなくても成立するように映画にも色彩や音声が不要な時代がありました。カラー映画もテレビのカラー化により、テレビ放映も見込んだ作品という要請があったから定着したにすぎません。テレビのように家庭で楽しむ装置に、無声映画や黒白映画は馴染みません。
 発声映画は大衆演劇への対抗上アメリカでは急激に進みました。1928年に最初のトーキー作品が作られ大ヒットし、1929年には大半が、1930年には商業映画は100%トーキーになりました。ただしそれは大衆演劇の普及したアメリカだからで、ヨーロッパ諸国では1932年、日本や中国では1935年までサイレント映画の制作が続きます。
 小津は旧制高校(のち大学)受験に失敗しての一年間、当時無能者の閑職と蔑まされていた小学校代用教員を勤めた後に20歳で松竹に照明助手として入社します。助監督に登用されたのは関東大震災後の制作体制の混乱で人手不足になったからのようで、助監督は名目や給与は照明助手より上かもしれませんが、演出、撮影、照明、衣装、小道具などすべてのパートに駆り出される便利屋なのです。
 約2年の助監督経験で弟徒時代を終え、1927年というサイレント時代に今度こそ登用というべき監督昇進を果たしたのは、まだ映画が若い産業だったことからの幸運でした。戦後には大手五社(松竹、東宝大映東映、新東宝)は演出部は国立大卒業生しか採用せず、入社後10年以上助監督経験を積んでも監督昇進の口がかからない、というのも珍しくなくなります。現在では日本の大手映画会社は劇場の配給網を持っているだけで制作は作品ごとにフリーランスのスタッフ、または制作プロダクションに委託するシステムになっており、映画会社の専属社員(重役)監督は松竹の山田洋次ただ一人になっています。
 小津のサイレント時代は33歳までですが、足かけ10年で29本という数字がものを言っています。1910年生れの黒澤明は七歳年下にすぎませんが、戦時中の困難もあり監督昇進の『姿三四郎』は33歳、1943年の作品でした。小津の33歳の作品は35作目でトーキー第一作の『一人息子』1936になり、60歳の誕生日に逝去するまで20本あまりのトーキー作品を残しますから、小津と黒澤の年齢差はサイレントからトーキーへの過渡期に重なり、七歳の差が実質的には一世代を隔てるほどの差になったのです。
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 作品紹介よりもサイレント映画からトーキー映画への推移についての一文になりましたが、65分の小品『その夜の妻』は一晩の出来事、それも映画の冒頭で主人公が強盗し帰宅するまでは舞台が移動しますが、帰宅後は主人公の一家の住むアパートの一室に舞台は限定されます。原作の短編小説では数日間だそうですが一晩に圧縮したのは、舞台劇風ながら効果を上げています。
 主人公夫妻の娘は三歳くらいで、父親を恋しがってぐずり泣きしたり、父親が帰宅してとても喜んで笑顔になるなど、サイレントの演技が実に自然でうまい。この映画は字幕(タイトル画面)も極端に少なく、10枚よりは多くとも20枚にも満たないでしょう。登場人物も主人公夫妻、その娘、医者、刑事の五人だけです。日本語を解さない人でも、字幕に外国語訳がなくても理解できそうです。
 この夜、主人公が金を妻に渡したきりすぐに逃亡できないのは、幼い娘が今夜が峠という病状なのを医師から告げられているからで、おそらくインフルエンザか気管支喘息から悪化した肺炎でしょう。日本の大監督は溝口や小津も独身で、成瀬巳喜男は夫人が病身で子供を持たなかった人ですが、子供嫌いを公言していた溝口に較べて小津や成瀬は暖かく子供を描きました。小津の場合は小学校の代用教員経験から子供を丹念に観察していたのでしょう。子供を主役にした作品もサイレント時代に『生まれてはきたけれど』、晩年に『お早よう』があります。幼児から低学年の児童までの子供は急激に病状が悪化もすれば、回復も劇的なものです。
 妻が和服であること以外は屋外のセットも主人公夫妻の住むアパートの内装もまったく無国籍な欧米風に出来ており、壁のポスターや部屋のあちこちに置かれたオブジェから主人公はモダニズムの美術作家なのが推察されます。「俺たちの仲間にゃ貸せる金を持っている奴ぁいねえ!」と主人公が妻に強盗の理由を弁明しますから、村山和義や三好十郎らが主導していた、売れないモダニズム演劇の舞台美術家といったところでしょう。モダニズム演劇の関係者は映画のアルバイトも多くこなしましたから、小津にとってこの主人公は身近に思い描けるキャラクターだったでしょう。小津に限らず、映画自体が20代半ばの青年たちによって作られていた時代だったのです。そんな貧乏美術装置家がなんでピストルなんか持っていたかって、映画ですからそういう世界を描いているということです。
 なら娘の医療費にピストルを売ればいいじゃん?いやいや、きっと売れない理由があったのでしょう。
 まあ映画的虚構の無理や矛盾は置いといて、この作品は後年の小津映画へのつながりを考えるよりも、1930年という時代の新しさが生きいきと描かれている点で、見落としていた新作映画のように楽しめる作品でした。65分という短さも良く、臭くならない人情噺になっているのもこの映画では成功しています。