●2月18日(日)
『浪華悲歌』(第一映画社嵯峨野撮影所/松竹キネマ'36)*72min(オリジナル89分), B/W; 昭和11年5月28日公開 : https://youtu.be/w497OJtsYxw
○あらすじ 製菓会社の電話交換手アヤ子(山田五十鈴)は才気ある美貌の娘だったが、父が公金を使いこんで罪に問われる事態になり、これを救うため店主惣之助(志賀迺家辨慶)の妾となった。だが店主の妻(梅村蓉子)に見つかり二人の間は断ち切られた。金づるを失った彼女は兄(浅香新八郎)の学費を稼ぐため、恋人西村(原健作)と共謀して株屋(進藤英太郎)を脅迫するが、訴えられて警察にひっぱられる。恋人は我が身可愛さから彼女に罪をおしつける。ひさしぶりに帰った我が家では家族さえも彼女に冷たかった。絶望した彼女は再び家を出るのだった。キネマ旬報ベストテン第3位の問題作である。
(津村秀夫『溝口健二というおのこ』長崎一編・溝口健二監督作品総リストより)
ほぼ観られる限りの溝口映画を観てから思うと、溝口作品でこれだけ喧嘩腰の映画は本作と『赤線地帯』の2作なのではないでしょうか。同年作品でスタッフ、キャストも重なるので『浪華悲歌』は『祇園の姉妹』と一対に語られることが多く『祇園~』の山田五十鈴のキャラクターは境遇こそ違え本作のヒロインとほとんど同一人物ですが、作品の狙いは梅村蓉子演じる姉との対照にありますし、男性キャラクターの多彩さと重要性も『祇園~』ではずっと高くなります。『浪華悲歌』では冒頭しばらくして山田五十鈴のヒロインが登場してからは場面はすべてヒロインに密着したエピソードばかりなので、本作には完全な一人称ショットは観た限りまったくありませんが、ヒロイン以外のキャラクターはヒロインとの関わり以外から描かれることはないので観客はヒロインに同化・共感する意識はなくてもヒロインの尺度から映画内の現実を観ていることになります。フランソワ・トリュフォーがヒッチコックの発明を従来の古典的な遠近法に基づく客観的モンタージュから遠近法を固定しない主観的モンタージュへの転換と系統化と評してオーソン・ウェルズと並べましたが、溝口の映画技法はトリュフォーの分類からはこぼれ落ちてしまうような破格な性格があります。ドラマとして面白いのは客観的な描き分けにアクセント的に主観的な強調が入る『祇園の姉妹』の方だけれど、ヒロインに密着するあまり語り口にはバランス感覚を欠いている『浪華悲歌』の方が訴求力の強い映画になっている。つまり映画として線が太い。もちろんその分抵抗感も強くて、これは他の溝口作品と比較しなくてもわかる。いわゆる悲劇的な人情メロドラマのように涙を誘う映画でもなく、下世話な欲と恨みつらみでヒロインがしっぺ返しになる話ですから、映画の現実はしょせん虚構の現実だとしてもそれを観客に突きつけるのは非常に挑発的で、調和的な世界を描いていたのが古典映画の時代ならこの映画は現代映画の始まりなのがひりひりするような感覚で感じられる。もちろん古典映画と現代映画の区分は創作意識の歴史的な変化でしかなく、優劣はありません。同時期の映画で連想するのはジャン・ルノワールの『トニ』が'35年、『どん底』が'36年ですが、ルノワール作品は男性主人公ではあるけれどやはり映像が主人公に常に密着していて、客観的・主観的という区別ではなく突き放した映像そのものが主人公の身の置き所の不安感を体現している点で『浪華悲歌』のヒロインと共通しています。
溝口の代表作をひと通り観ると、前置きにも書いた通り本作は溝口健二の監督第58作になるという驚愕の事実にまず圧倒されます。先立つトーキー2作は『マリアのお雪』はモーパッサンの「脂肪の塊」の翻案、『虞美人草』は夏目漱石が原作ですから本作と次作『祇園の姉妹』がともに溝口自身の原作によることからして気合の企画だったでしょうし、現存しているサイレント長編2作『瀧の白糸』(やや欠損あり)と『折鶴お千』はともに泉鏡花原作で、フィルムが散佚しまったく観ることのできない50作以上のサイレント作品には記録によるとけっこう溝口自身の原作・脚本作品がある。現在観ることのできる溝口作品は大家として名を成してからのものばかりなので映画オリジナルにせよ原作ものにせよ監督溝口自身が企画段階から噛んでおり、専属脚本家に依田義賢を任命して溝口の要求通りに撮影進行中でも書き直しさせている、という具合に、『浪華悲歌』から後の作品だけ(それ以前の作品は『瀧の白糸』'33他数本)で溝口の全貌を測るのは『駅馬車』'39から後のジョン・フォード、『レベッカ』'40から後のヒッチコックしか観られないようなものでしょう。初期作品から作風の変遷がたどれるフォードやヒッチコックと異なり、溝口作品は質量ともに評価に十分な作品を残しながらキャリアの前半がごっそり失われているので作風の形成過程がつまびらかでなく、突如として第二の処女作のように現れた『浪華悲歌』を観るしかありませんし、しかも本作のヒロイン像は'40年代アメリカのフィルム・ノワール作品や『不良少女モニカ』'53、『素直な悪女』'56にすらつながる先駆的なもので、映画がヒロインに同化している点ではさらに後のインディペンデントのフェミニズム映画の登場まで比類がない、実験的ですらある超時代性があります。次作『祇園の姉妹』と併せて観るといっそう本作の突然変異ぶりが際立ってくると思えるので、感想は『祇園~』の方でまとめて書くことにします。といいますか、感想に移る前置きだけでこれだけ長々と書いたからには感想文本文の方がつけ足しになってしまうではありませんか。
●2月19日(月)
『祇園の姉妹』(第一映画社/松竹キネマ'36)*69min(オリジナル95分), B/W; 昭和11年10月15日公開 : https://youtu.be/LfCMeVELdIM
○あらすじ 京都の色街。梅吉(梅村蓉子)とおもちゃ(山田五十鈴)の二人は姉妹芸妓で、姉の梅吉は義理と人情を心得た古風な女で、落ちぶれた昔の旦那吉沢(志賀迺家辨慶)を家にひきとって面倒をみている。妹のおもちゃは打算に強く、そんな姉がじれったかった。おもちゃは呉服屋木村の番頭定吉(林家染之助)をたらしこみ、姉の踊りの着物を盗み出させたあげく、木村の主人(深見泰三)まで色目を使いろうらくしてしまう。それを恨んだ木村に彼女は自動車からつき落とされて大怪我をしてしまう。祇園街で精一杯生きぬく姉妹芸者のきびしい現実を捉えた溝口健二の代表的傑作である。キネマ旬報ベストテン第1位。
(津村秀夫『溝口健二というおのこ』長崎一編・溝口健二監督作品総リストより)
しかし実際は『祇園の姉妹』1位だったわけで、依田氏は溝口の命令を受けて大変な苦労で色街に日参し芸妓の生活実態を下調べして溝口原作の材料を集めてきたそうですが、製作中は宣伝になると協力的だった色街の親分格の人が映画の上映が始まるとイメージが悪くなる、営業妨害だと苦情を言ってきたといいます。依田氏の誇る通り美化されたドラマではなくリアリズムで芸妓たちの本音の表裏を描いた映画が本作で、これ以前にそういう映画はなかったそうですし今観ても面白いのは、あまり景気のよくない芸妓たちの生活実態を多彩な切り口からテンポよく描いて成功しているからで、簡単に言ってしまえば不良少女の話の『浪華悲歌』よりも特殊な世界ののぞき見、暴露的な面白さがある。その上構成も前作の一元描写から一転して客観的な多元描写を基本としているので映像的に端正で、すでに溝口の特徴として現れている長回しの撮影法が前作ではヒロインのフラストレーションを伝えるような緊張感になっていたのに対し、本作では多くの場合ぐっと落ち着いて人物たちを観察する客観的視点となっている。溝口には珍しく、ごく短かくインサートされるだけですが主観ショットも少しだけ見当たります。依田氏によると溝口がロングショット、長回しの手法に意識的に徹底ようになったのは『残菊物語』'39からとされていますが、本作冒頭の梅吉の旦那吉沢の問屋の売り立て場面の長い下手~上手への横移動はハワード・ホークスの『暗黒街の顔役』'32(日本公開'33年4月、ちなみにキネマ旬報'33年度日本映画ベストテン第1位は小津『出来ごころ』、第2位溝口『瀧の白糸』、3位成瀬巳喜男『夜ごとの夢』、4位タイで成瀬『君と別れて』・衣笠貞之助『二つ燈籠』)を連想させる意表を突いたもので、この冒頭の長回しは『浪華悲歌』での長回しの性格に近い。その点ではまだ映像の躍動感や連続性のために視点の移動がカット割りによらずそのまま長回しによる移動ショットで表現されている場合と、ピント送りやパン程度によるほぼ固定ショットによって現実時間とドラマ時間が同期され演技への集中した凝視が行われている場合とがどちらとも取れる形で混在しており、依田氏の指摘通り『残菊物語』では長回しは技法として確立していて『浪華悲歌』『祇園の姉妹』のように不規則な使われ方ではなくなっています。『祇園の姉妹』では『浪華悲歌』より整理され安定しているように見えても技法意識からというよりはドラマの客観的構成によって演出上の発想から長回しの性格が変わったと見る方が自然でしょう。
内容的な共通性は確かにあるのに前作より『祇園の姉妹』が整理された映画になっているのは、ヒロインが男を手玉に取る、しかし男に裏切られるという図式が『祇園の姉妹』では役割別に複数の男に振り分けられて明瞭になっており、男からの報復もよりドラマティックなのに対して、『浪華悲歌』ではヒロインの行き当たりばったりの行動がドラマを形成していくことにも原因があるでしょう。現在観られる両作は長さはほぼ同じ(オリジナルからの短縮が『浪華悲歌』では17分、『祇園の姉妹』では25分あまりに及ぶ)なのですが『浪華悲歌』の70分は重く、『祇園の姉妹』の70分は軽快なテンポに感じます。前者ではヒロインのキャラクターからドラマを発想していき、後者ではドラマに合わせてキャラクターを配置していった違いが『浪華悲歌』の淀んだようなムードと『祇園の姉妹』の小気味良いくらいの展開を分けているのでしょう。古風な姉を演じる梅村蓉子と対比されて描かれているのもありますが、キャラクターはほとんど同じか、むしろ徹底しているほどなのに『浪華悲歌』より『祇園の姉妹』の山田五十鈴はその分単純化された役割です。どんどん話を進めていくためにそうなっているのですが、ヒロインを筆頭に気が利きすぎているきらいがあります。「ねえ、不良少女って病気は治ります?」「そいつは医者でも治せないねえ」という橋の上の会話、そして前進してくるヒロインの姿で『浪華悲歌』は終わりますが、「男にとって脱け出すことって何なの?」「自由ってことじゃないかな」そして歩き始めるアイダ・ルピノの姿で終わるハンフリー・ボガートの初主演作『ハイ・シェラ』'41を連想させるものの、これはテーマとしては『祇園の姉妹』の方にふさわしい終わり方で、では『祇園の姉妹』はどう終わるかというと『赤線地帯』'56の結末のように終わっていて『赤線地帯』の激しい眩惑感には及ばない。覚悟が決まっていないというか、ヒロイン姉妹を挫けさせて終わってしまうのですが、それなら『浪華悲歌』のヒロインだってストーリーの上では痛烈に挫けているけれど映像からは強い意志を感じさせてくれます。ビリー・ビッツァー(!)の技法に学んだという三木稔のロー・キーの撮影が最高に生きたラストシーンになっている。脚本の依田氏があえて『浪華悲歌』に軍配を上げるのも『祇園の姉妹』の映画全体の収斂具合からで、サイレント時代以来の俳優たちもサイレント臭のない見事な演技ですし演出・撮影ともトーキーとして素晴らしい達成を示していますが、結末にかけての急展開だけがどこかまだサイレント時代の映画の締めくくり方を引きずっているようで、『浪華悲歌』で一気に突破してみせたトーキーならではのリアリズムの水準から巧妙ではあるけれど手慣れた、観客批評家ともに無事な着地点に届ける落とし所に本作を留めていると見えるのです。しかし本作と『浪華悲歌』どちらが面白くお薦めできる映画かというと『祇園の姉妹』1位なのもわかるので、長い間幻の名作だった次作『愛怨峡』'37が今日容易に観られる楽しみも増そうというものです。