清水宏も戦前松竹の生んだ多作な監督で、戦後には自主プロダクションを起こしてメジャー会社の制約に縛られない映画作りを目指した人でした。現在のソフト化状況、上映状況ではその片鱗しか知ることができませんが、トーキー以降の戦前作品から今回観た3本のうち1本だけでも破天荒な個性は明らかで、いったい何をどうしたらこんな変な映画ができたものか、しかもどれもが愛嬌に溢れて愛すべき作品なのはどうなっているのか呆気にとられてしまいます。前回観たサイレント作品『港の日本娘』'33 : https://youtu.be/VufG3iDCz8I (Full Movie) は一応親友同士の女学生二人の対照的な幸・不幸がドラマの主軸にありました。しかしドラマは後半ではほとんど進展しないまま投げ出したように終わってしまうので、成瀬巳喜男や女性映画の監督として成瀬の先輩格である溝口健二のように始終張り詰めたドラマに関心のある映画監督ではない様子が伝わってきます。単純に映画の成り立ちをキャラクターとムード、ドラマの関数で表した場合、清水宏の映画は成瀬巳喜男の映画とヴェクトルを全く違えたものであり、一般に劇映画は第一にドラマありきとすれば清水宏の映画ほどとらえどころのない劇映画は'20年代のフランス印象主義映画くらいしか先例がなく、しかもフランス印象派の肉付けの乏しい、観念的で貧血気味な、技法先行の発想から来る頭でっかちな単調さに対して、清水の映画は豊かでたっぷりとした情感と生き生きとした性格描写を備え、自然な流露感に溢れている点では対立関係にあると言ってもいいほどです。肝心な版元・松竹が清水作品を7作しか市販ソフト化していないのでサイレント時代だけでも100本以上、トーキー以降も多作を誇りながら『サヨンの鐘』'43を最後に松竹を退社するまで、さらに5年間のブランクを経て独立プロ作品『蜂の巣の子供たち』'48から始まる戦後作も含めた清水作品の全貌は容易にうかがい知れませんが、一種の観光映画としてまとめてソフト化された今回の3作もそれぞれ特色のある名作揃いで、清水宏の映画に入るには格好の作品群ではないかと思います。
2月26日(日)
『有りがたうさん』(松竹キネマ'36)*76mins, B/W : https://youtu.be/3fK3kVs4eJs (Full Movie)
・伊豆を走るバスの運転手(上原謙)と乗客たちのある一日、始発地から終点地まで。ただそれだけの映画。同趣向の映画としてルイス・ブニュエルの『昇天峠』(メキシコ'51)を思い出すが、ブニュエル作品は母の臨終に駆けつける主人公、頻繁な運行中断事故などドラマ的要素に満ちていた。この清水作品ではすれ違う・追い越す荷馬車、人、牛馬に必ず「ありがとうさん~」と声をかけるバス運転手も特にドラマの主役ではなく、都会から帰郷して帰る水商売らしき女(桑野通子)、威張り散らす中年紳士(石山隆嗣)、奉公に出される娘(築地まゆみ)とその母(二葉かほる)、行商人(仲英之助)など乗客やバスを追いかけて遊ぶ小学生、同じ道を行脚する旅芸人たち、外国人労働者たち、待合いの茶店に集う人々など30人以上の登場人物が現れては去って行く。やりとりから伝わるプロフィール以上のものは一切描かれず、バス搭乗時間(または登場時間)の長さに比例しただけの公平な人物描写しかなされない。回想(フラッシュ・バック)や連想(フラッシュ・フォーワード)、多元視点描写もなく、始発地から終点地までのバスの運行以外のドラマはない。しかし「~ない」ということは単に一般的な映画の慣習的技法から見ると「~ない」というだけで、この映画ではその他の要素ですべてが満たされているわけなので、『昇天峠』はブニュエルの傑作だが本作を知っていたら作られなかったのではないか。また同年生まれで松竹の同僚の小津安二郎の映画は日本的な挨拶の映画と指摘されるがそれは昭和24年の『晩春』からなので、登場人物の挨拶だけで成り立っている昭和11年の本作は戦後の小津作品の発想を先んじてはいないか。『晩春』以前の小津はドラマチックな映画監督だっただけに、ドラマ性を極端に稀薄な、単なる枠組みだけにした『有りがたうさん』は清水作品以外先例がなく、清水自身もまたこの独創を自負していたのではないか。今回観た観光地映画3作を観ると明確な方法的自覚が感じられる。つい書き落としそうになったが全編ロケは画期的(セットではなく実際にバスを走らせながら撮影している)。撮影上の制約のためか音声は全編アフレコらしく登場人物全員の台詞が棒読みだが、それもよそ行きらしいユーモラスな効果を生んでいる。
2月27日(月)
『按摩と女』(松竹大船'38)*66mins, B/W : https://youtu.be/lFrM4X3t3Ag (Full Movie)
・石井克人監督、草彅剛主演『山のあなた~徳市の恋~』2008に清水宏のオリジナル脚本通りリメイクされて再評価された作品。季節変わりに温泉地を巡業して回る二人組の按摩(徳大寺伸、日守新一)が東京から来た訳ありらしい女(高峰三枝子)に贔屓にされる。女の美貌は温泉地中に評判になるが、次々と盗難事件が起こって、やがて女が按摩に打ち明けた滞在の事情は……と一応は大きなドラマの軸はあるが、按摩を視点人物にしているから映画はひたすら行動を追って、やはりフラッシュ・バックやフラッシュ・フォーワード、多元描写などの装飾的技法は一切排除されている。障害者(視覚障害)が主役という今日ではデリケートな題材だけに封印作品にならず本当に良かった。ラストシーンは『港の日本娘』のように新生活に向かって別れていく登場人物たちが描かれ、『港の日本娘』は海中に投じられるたくさんの肖像画が鮮やかながら唐突な急展開のエンディングだったが、本作はほど良く意外性と納得のいく帰結感のバランスがとれ爽やかな哀愁がある。徹底した客観描写は『有りがたうさん』同様だが本作では按摩の視点による客観描写であるだけ『有りがたうさん』より物語に入りやすく、またドラマの展開とエピソードの連続性も一見のんびりしながら緊密で飽きさせない。高峰三枝子はすでに落ち着いた大人の色香を感じさせて好演。湯治先のロマンスという枠組みは3年後の『簪』でも生かされることになるので、両方観るとどちらも工夫に富んでいて面白い。
2月28日(火)
『簪(かんざし)』(松竹大船'41)*70mins, B/W : https://youtu.be/R6M1bM-ZQ9E (Exact)
・戦時色をほとんど感じさせないのを除いても『按摩と女』からさらに進境著しい名作。『按摩~』より明快な温泉宿コメディで、日蓮宗の団体客で賑わう旅館で個人客の(静養中の傷痍軍人らしい)青年(笠智衆)、気難しい学者(斎藤達雄)、新婚夫婦(日守新一、三村秀子)が旅館のご隠居、主人夫婦と子供たちともども親しくなる。青年が入浴中に先に立った女性客の落としたかんざしを踏んで歩行困難なほどの怪我を負う。東京から見舞いに来た女性(田中絹代)は怪我の全快まで留まることにし、宿の行為で半分住み込み従業員になる。女性は実は東京では妾の身で、宿で旅客仲間と過ごすうちに東京へは帰らない決意を固めてそのまま従業員になる。やがて学者、新婚夫婦らは帰京していき、最後に青年の足も全快して帰っていき、女はいつかまたこの宿に集まりましょうという約束を胸に青年からの葉書を読み、青年と歩行訓練をした宿の近くのあちこちを歩いて思いにふける。高峰三枝子の生活感を感じさせない美貌が異化効果を倦んだ『按摩~』と較べて、役に同化するタイプの田中絹代の違いが『簪』にはよく出ている。田中絹代の登場まではガミガミ親父の学者演じる斎藤達雄が狂言回しの役所で場をさらう。『按摩~』で軸になったような太いドラマ性は本作では再び稀薄になり、温泉宿が舞台とはいえノリは大らかな長屋の人情ドラマに近い。1941年といえば第二次世界大戦から丸2年経過、大東亜戦争の経過と東條内閣の組閣から世論のファッショ化が高まり、12月8日には真珠湾攻撃によって戦局は太平洋戦争に突入する。『簪』の登場人物たちの再開の約束が果たされなかっただろうこと、それを予感した上での隣人愛の約束だっただろうことは寂寥感の漂う結末からも観客には自明であり、時代背景を意識せずに観る今日の観客にも間違いなく伝わる。反戦とまではいかずとも厭戦映画ぎりぎりに世相が反映しており、それを不純な要素として『按摩~』を上位に置くか、濃厚な情感からも『簪』を上位に置くかは好みの次元なので、今回の3作はいずれ劣らない日本映画の珠玉とお勧めしたします。