人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

Ornette Coleman - Tomorrow is the Question! (Contemporary, 1959)

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Ornette Coleman - Tomorrow is the Question! (Contemporary, 1959) Full Album : http://youtu.be/HjVURhB4bsE
Recorded January 16, February 23 and March 9-10, 1959 at Contemporary's Studio, Los Angeles
Released 1959, Contemporary S-7569
(Side A)
1. "Tomorrow Is the Question!" - 3:09
2. "Tears Inside" - 5:00
3. "Mind and Time" - 3:08
4. "Compassion" - 4:37
5. "Giggin'" - 3:19
6. "Rejoicing" - 4:01
(Side B)
1. "Lorraine" - 5:55
2. "Turnaround" - 7:58
3. "Endless" - 5:18
All pieces written by Ornette Coleman
Track B1 recorded on January 16, 1959; tracks B2 and B3 on February 23; tracks A1-6 recorded on March 9 and 10, 1959.
[Personnel]
Ornette Coleman - alto saxophone, soprano saxophone
Don Cherry - trumpet
Percy Heath - bass (tracks 1-6)
Shelly Manne - drums
Red Mitchell - bass (tracks 7-9)

 このアルバムのライナーノーツには59年9月14日と記されているから(筆者はナット・ヘンホフ)、アトランティック移籍第1作(59年5月録音)で59年10月リリースの『ジャズ来るべきもの』と同時か、少し遅れて発売されたかもしれない。『ジャズ来るべきもの』のライナーノーツ(筆者はヘンホフのライヴァル、マーティン・ウィリアムズ)には日付の記載がないし、ジャズのディスコグラフィーが録音年月日を基準にするのが標準なのは、録音年月日は諸経費の記録通りに特定できるが、レコード発売日の記録はアメリカほどの大国になると当てにならないからだ。記録や業界誌の告知、広告などで発売予定日はわかっても、流通の関係上1、2か月早まったり、半年や翌年にようやく流通したり、ひどい場合は発売中止になったのにカタログ上では発売済みになっていたりする。
 ポピュラー音楽のレコードがシングル盤からLPに主力を移行する1967~68年まではLPレコードはクラシック音楽のためのメディアで、ジャズなど大衆音楽とも際物音楽ともつかないジャンルのレコードはスナック菓子のように扱われていた。優れたジャズ・ミュージシャンは粗製濫造の状況を逆手に取って次々と新しい表現方法を形にしていったが、創造性に乏しいジャズマンは変わり映えのしないアルバムばかりを量産していた。ジャズの黄金時代は名盤の続出した50年代と言われるが、背後には山のような凡作があるのだ。

 オーネットがデビューした1958年とは翌59年にかけてモダン・ジャズの飽和点となった時期でもある。中でもマイルス・デイヴィス『カインド・オブ・ブルー』、チャールズ・ミンガス『ミンガス・アー・ウム』、ジョン・コルトレーンジャイアント・ステップス』、ビル・エヴァンス『ポートレイト・イン・ジャズ』は後のジャズの決定的な方向性を示し、ポップスや映画音楽、ロック、クラシックのミュージシャンにも大きな影響を与えた。オーネット自身の『ジャズ来るべきもの』はこれらに匹敵し、拮抗するものだった。
 パーカー&ガレスピーから始まったビバップ以降のモダン・ジャズはもうそれらの作品を生み出すところまで来ていて、ジャズの内部から風穴を開けようとしていたのがマイルスやミンガス、コルトレーンエヴァンスだった。だがそれはあくまでジャズ内部からの改革なので、ジャズの外側からふらりとオーネットが侵入してきたのも時代的な必然性があった。

 ジャズのアヴァンギャルド運動はビバップ自体がそうだったし、ビバップ以後もレニー・トリスターノのクール・スタイル、スタン・ケントンのプログレッシヴ・ジャズ、ガンサー・シュラーの発案からジョン・ルイスやジミー・ジュフリーが試みていたサードストリーム・ミュージック(クラシックを第一、ジャズ/ポピュラーを第二段階とする第三段階の音楽)などがジャズの世界では行われていた。実は宇宙音楽としてのジャズを追求していたサン・ラという自称土星人のジャズマンもシカゴにいたのだが、60年代にニューヨークに進出するまでシカゴでしか知られていなかった。
 オーネットがデビューした時には、ボストンを拠点に活動する名門音楽大学出身のインテリ・ピアニスト、セシル・テイラーがすでに4枚のアルバムをリリースしていた。『ジャズ・アドヴァンス』1956、『アット・ザ・ニューポート』1957、『ルッキング・アヘッド』1958、『ハード・ドライヴィン・ジャズ』1958で、1959年には『ラヴ・フォー・セール~プレイズ・コール・ポーター』をリリースしている。テイラーの場合は古典から現代音楽まで通暁した音楽理論への深い学識と、それを実践する高度な演奏技術で、音楽性は難解極まりないとしてもとにかくアーティストとしては一目置かれていた。テイラーの音楽に肉体性が備わるようになってきたのはようやく『ラヴ・フォー・セール』からで、『ワールド・オブ・セシル・テイラー』1960が初めて全編に躍動感のある成功作になるが、真に革新的な音楽を達成したのは『カフェ・モンマルトルのセシル・テイラー』1962だろう。テイラーはつい15年前までずっと1933年生とされていたが、21世紀になって1929年生に訂正された。オーネットより1歳年長だったことになる。

 セシル・テイラーがデビューしてすぐにアカデミックなミュージシャンと目され、例外的な前衛ピアニストとして一定の評価を得たのに対し、オーネットの音楽はジャズに名を借りたでたらめ、という極端な批判も少なくなかった。ドン・チェリーとのコンビは息の合ったものだが、音程やタイミングが音痴の合唱みたいになっているのはどういうことか。わざと悪い楽器で下手に吹いたような演奏を聴かせるのは、プロ意識に欠けた素人演奏家の悪い冗談ではないか。オリジナル曲は風変わりで才気のうかがえて面白いが、いざ演奏されるとコード進行も小節線も外れた上に調性すら外れたアドリブ・ソロに突入してしまうのは音楽理論の基本すら理解していないのではないか。
 そうした批判がジャズマンからも批評家からも起こった一方で、オーネットの演奏はビバップ以来方法の追求が進んで次第に型にはまって不自由になったジャズのマナリスムから一旦ジャズを白紙に帰すだけの自由さがある、音楽的な自由こそジャズの喜びならばオーネットの音楽はジャズのもっとも根本的な精神に根ざしているのではないか、という賞賛がリー・コニッツジョン・コルトレーンソニー・ロリンズジャッキー・マクリーンら、すでにジャズ界のトップ・クラスに属するサックス奏者から寄せられるようにもなった。コニッツ、コルトレーン、ロリンズ、マクリーンはともにプロ・デビュー当初にチャーリー・パーカーから薫陶を受け、パーカーの一番弟子だったマイルス・デイヴィスのバンドの歴代サックス奏者だったから、マイルスにとってオーネットへの賞賛はマイルスへの批判と受け取れた。オーネット自身がインタビューなどでジャズ界で特別待遇されているエリートの代表にマイルスの名前を上げることが多かったのも確執に拍車をかけたが、70年代に入ってマイルスは公けにオーネットの音楽を認める発言をするようになる。

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 (Original Contemporary LP Liner Notes)
 デビュー作『サムシング・エルス!!!!』ではまだオーネットは標準的なクインテット編成から離れられず、楽曲もスタンダードのコード進行の流用とブルースというビバップの根っこが残ったものだった。このセカンド・アルバムで初めてオーネットはピアノレス・カルテットでの録音を実践するが、ニューオリンズ・ジャズ以来モダン・ジャズでピアノレス編成を復活させたのは1952年のジェリー・マリガン・カルテットが嚆矢といえ、その後ポール・デスモンドマイルス・デイヴィスリー・コニッツスタン・ゲッツソニー・ロリンズジョン・コルトレーンにまれな試みがあり、成功例が残されているものの(マリガンは引き続きピアノレス編成を追求した)、標準的な編成とは言えなかった。オーネットの方法はマリガンのピアノレス編曲とも違う、アンサンブルの追求というより即興演奏の領域の拡大という点でリー・コニッツソニー・ロリンズの方法をさらに過激に推し進めたものだった。
 オーネット自身は自分のレギュラー・カルテットのメンバーの録音を希望したが、レーベル側は冒険的なピアノレス・カルテット編成で録音する代わりに、ベースとドラムスにはロサンゼルスのジャズ界最大の大物、レッド・ミッチェルとシェリー・マンを組ませた。ミッチェルとマンはデビュー作でオーネットの才能を買っていたからレーベルの申し出にも積極的に参加した。彼らは実力者だけでなく意欲的で協調性もある大物だったから、滑り出しは上手く行くように思えた。だが59年1月16日のセッションでは1曲のOKテイク、2月23日のセッションでもかろうじて2曲のOKテイクしか成果が上がらなかった。すべて初録音のオリジナル曲ばかりとは言え、ミッチェルやマンほどの巨匠にはこんな事態は想像できないことだった。

 マンはドラムスという点でとにかくオーネットとチェリーのスウィング感をバックアップすれば良かったが、ミッチェルの場合はどうしても妥協できない問題が起きた。オーネットのオリジナル曲をテーマ・メロディからリズム・パターンと小節数、コード進行を割り出したものがベーシストにとってのコード譜になるのだが、オーネットやチェリーのアドリブ・ソロはコード進行や小節数を守らない。通常ならこれは管楽器奏者が悪いが、オーネットのアルバムなのだからオーネットには好きなようにする権利と責任がある。結局ミッチェルは喧嘩同然に録音を放棄してしまったが、モダン・ジャズ・カルテットが折りよくロサンゼルス公演中で、MJQのリーダーのジョン・ルイス(ピアノ)は所属レーベル・アトランティックの看板ジャズマンであり、顧問やタレント・スカウトの権限もあってオーネットをアトランティック・レーベルに勧誘していた。オーネットはルイスに相談してMJQのパーシー・ヒースの参加を取りつけ、ヒースならコンテンポラリー社にも文句のつけようがないトップ・ベーシストなので追加セッションが組まれ、3月9日と10日の2回でA面の6曲が完了する。そして5月22日にはアトランティック移籍第1作『ジャズ来るべきもの』がレギュラー・カルテットによる1日のセッションで録音されることになる。
 A面6曲がパーシー・ヒース、B面3曲がレッド・ミッチェルというやや均衡を欠いた構成ながら、A面には『ティアーズ・インサイド』『ターンアラウンド』、B面は『ロレイン』(親交のあったアルトサックス奏者ハーブ・ゲラー夫人でピアニストのロレイン・ゲラーの急逝を追悼した曲)が名曲として残り、オーネットとチェリーのコンビネーションとオーネットのオリジナル曲の作風はほぼ完成している。『ティアーズ・インサイド』は後の『ランブリン』、『ロレイン』は『ロンリー・ウーマン』といった代表曲に発展していくアイディアの萌芽がある。ヒースはもちろん衝突のあったミッチェルでさえレコード化に採用されたテイクでは十分に満足のいく演奏をしている。
 だがそれも『ジャズ来るべきもの』との比較では格段にメンバーの一体感の差がある。『ジャズ来るべきもの』のレギュラー・カルテットはついにチャーリー・ヘイデンのベースを加えた録音を実現して、4人のメンバー対等のインタープレイによるオープン・フォームのジャズを完成させセシル・テイラーを引き離した。『トゥモロウ・イズ~』の時点でヘイデンが参加していればすでにオーネットの目指すサウンドは完成していただろうが、逆にヘイデンの参加が遅れたからこそ『ジャズ来るべきもの』は画期的アルバムになったので、『トゥモロウ・イズ~』はオーネットの段階的な音楽的完成のステップを捉えた意欲作としてこのアルバムのメンバーならではのスリルがある。その意味で『サムシング・エルス!!!!』『トゥモロウ・イズ・ザ・クエスチョン』『ジャズ来るべきもの』はどれをオーネットの真の処女作と見做しても良いものだろう。