人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

Walt Dickerson - To My Queen (New Jazz, 1962)

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Walt Dickerson - To My Queen (New Jazz, 1962) Full Album
Recorded at Van Gelder Studio, Englewood Cliffs, New Jersey, September 21, 1962
Released; New Jazz NJLP 8283, 1962
(Side A)
1. To My Queen (Walt Dickerson) : https://youtu.be/2J8sMq1ath4 - 17:32
(Side B)
1. How Deep Is the Ocean? (Irving Berlin) : https://youtu.be/2PAgxGIySBU - 11:05
2. God Bless the Child (Billie Holiday, Arthur Herzog, Jr.) : https://youtu.be/7S8Rft47Bcc - 3:54
[ Personnel ]
Walt Dickerson - vibraphone
Andrew Hill - piano
George Tucker - bass
Andrew Cyrille - drums

 ジャズの記事を作成するために下調べするごとに、あー、この人ももう物故者か、と感慨にふけらされることが多い。今年6月のオーネット・コールマンの逝去(85歳)は大きく報じられたがよほどの著名ジャズマンでなければ一般の報道には載らない。現存するビ・バップ世代のジャズマンはリー・コニッツ(1927~)とソニー・ロリンズ(1929~)くらいになった。今回のウォルト・ディッカーソン(ヴィブラフォン/1928~2008)も記事を書くために調べて初めて故人になっているのを知った。80歳の高齢でもあり、不意ではあるが穏やかな発作で亡くなったらしい。睡眠中に逝去したオーネットと同じか。1978年以来のアルバムがなく教職についていたとのことだから(ディッカーソンは大卒の上に音楽院卒という正規の音楽教育を受けたジャズマンの走りでもある)、消息がないのは健在な証拠と思っていた。
 ディッカーソンのデビュー作はPrestige傘下のレーベルNew Jazzからの『This is Walt Dickerson』(61年3月録音)で、同年生まれのエリック・ドルフィーの推薦によるデビューだった。同作はダウンビート誌で四つ星半の絶賛を受け、5月にはデビュー作発売前に早くも第2作『A Sense of Direction』を録音。ダウンビート誌ではこれも四つ星半、内容は着実にデビュー作を超えている。ダウンビート誌は62年度(前年デビュー対象)の最優秀新人賞をディッカーソンに授与した。第3作『Relativity』62.1は星四つの好評価ながらやや足踏みを見せるも、第4作『To My Queen』1962.9は発表時のダウンビート誌のみならずジャズのアルバム・ガイドブックではもっとも輝かしい60年代ジャズの成果として五つ星、10点満点制なら10点、ディッカーソンの全アルバムでも最高の評価を不動にしたものになった。50歳でジャズ・シーンから引退、80歳で穏やかな逝去を迎えたのだから、専業ジャズマンとしての活動がむずかしくなった60年代後半~70年代にさらに16枚のアルバムを残したのは、中堅インディーズ盤ばかりとはいえ立派な業績だったといえる。

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 (Original New Jazz "To My Queen" LP Liner Notes)
 この、夫人の肖像写真がジャケットの『To My Queen』は、ディッカーソンといえばこれで決まりというような一世一代のアルバムで、60年代ジャズでいうとラリー・ヤング(オルガン/1940~1978)は『ユニティ』1965、アルバート・アイラー(テナーサックス/1936~1970)はもっと可能性を秘めていた人だがやっぱり『スピリチュアル・ユニティ』1964、というくらい1枚のアルバムにそのアーティストがすべてが凝縮されている。先に触れたようにディッカーソンはデビュー作からヴィブラフォンの革新的奏者として高い評価を得ており、デビュー作の時点でヴィブラフォンでしかできないサウンド・コンセプトを早くも確立していた。ベニー・グッドマン楽団のライオネル・ハンプトンから始まるジャズ・ヴィブラフォンはモダン・ジャズ以降はミルト・ジャクソンの独壇場の感があり、50年代末からエディ・コスタ(1930~1962)、レム・ウィンチェスター(1928~1961)らが現れたが、コスタは交通事故、ウィンチェスターはロシアン・ルーレット(!)で急逝してしまう。彼らを継ぐように現れたヴィブラフォンの新鋭がディッカーソンで、コスタらも鋭い感覚で優れたアルバムを残したが、ディッカーソンの登場ははっきり新しかった。
 デビュー作の巻頭曲「Time」はミルト・ジャクソンがもっとも得意としたブルースであり、また第2作の巻頭曲はマイルス・デイヴィス「So What」やジョン・コルトレーン「Impressions」に範をとったモード曲をやっている。コルトレーンの奔流のようなアドリブ技法からの影響はディッカーソンへの評価として前提のようになっていた。また、ヴィブラフォン、ピアノ、ベース、ドラムスというカルテット編成への固執もMJQではなくコルトレーン・カルテットを意識したアンサンブルのように聴こえる。だがディッカーソンはブルースをやってもミルトとはまったく異なり、モード曲でもホーンを主役にしたバンドでは絶対に出せないサウンドを出している。もちろんピアノでも出せない、ヴィブラフォンならではの空間があるのだ。デビュー作から第3作までレギュラー・ピアニストだった無名ピアニストのオースティン・クロウはディッカーソンの指示からか、ほとんどコルトレーン・カルテット初期のマッコイ・タイナーを意識したプレイで、特にワルツ・タイムの曲などはバンド全体がコルトレーン・カルテットからの影響を隠せないが、ディッカーソンのヴィブラフォンが斬新なので模倣という印象は受けない。もっとも、ディッカーソンの作風はミルト自身やミルト参加のMJQ、ジャッキー・マクリーン『ワン・ステップ・ビヨンド!』やアンドリュー・ヒルジャッジメント』(ともに1963)で一躍注目された、ディッカーソンより10歳若いボビー・ハッチャーソンのような華は欠けていた、と言って語弊があるなら、その作風はハードボイルドで渋いものだった。

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 (Original New Jazz "To My Queen" LP Side A Label)
 ハッチャーソンが登場しなかったら、という仮定は成り立たないのだが、やはりドルフィー周辺からデビューしながらもハッチャーソンにはまだ21歳の瑞々しさがあり、感覚を理知で制御しているディッカーソンにはない開放感があった。またディッカーソンは他のアーティストのアルバムにはめったに参加せず、しても後年のサン・ラとの共作など例外的なものに限られたが、ブルー・ノートのハッチャーソンは他に同じ楽器のライヴァルがいない引く手あまたの人気バイプレーヤーであり、リーダー作以外にも多数の名作に貢献した。皮肉とも順当とも言えるが、『To My Queen』で前3作からピアノがアンドリュー・ヒルに替わり、ベースにも初共演のジョージ・タッカー、ドラムスはデビュー作と第3作で共演したアンドリュー・シリルと決まった時、アルバムの成功は今にして見れば当然のように思えるが、それまでのシリルはこれほど精密なドラムスを叩いてはいない。ヒルとタッカーの優れたセンスにシリルの最良の面が引き出された格好で、A面すべてを占めるタイトル曲ではほとんどアゴーキク(フリーテンポ)、B面のスタンダード2曲(うちB2はヴィブラフォンとベースのデュオ)でもほとんどアゴーキクに近いテンポ・ルバートと、常識的にはジャズではあり得ないタイム/テンポ設定のアルバムが出来上がった。前3作のメンバー(ピアノのクロウ以外一定しないが)ではできなかったことで、ビートを左手で刻まないヒル、自在にフィルインしてくるタッカーの岩のようなベース(チャールズ・ミンガスを連想させる)など、発表と同時に前3作を上回るジャズ・ジャーナリズムの絶賛を博した。ダウンビート誌五つ星、現在もっとも公平な評価機関とされるAllmusic.comでも五つ星で、50年以上に渡って揺るぎない評価を得ている。
 1966の第7作『Impressions of a Patch of Blue』(サン・ラとの共作)以来姿を消していたディッカーソンが1975の『Tell Us Only the Beautiful Things』(やはり伝説的ベーシストのウィルバー・ウェア、シリルとのトリオ作品)でカムバックしたのも日本のWhynotレーベルからのオファーで、以降1978の『Life Rays』までWhynotからは2枚、デンマークの「SteepleChaseから10枚、イタリアのSoul Noteから1枚の計13枚を1975年~78年の4年間で録音した。それも『To My Queen』あってこそだった。再録音盤『To My Queen Revisited』や続編『To My Son』も録音されている。だが『To My Queen』の好評にも関わらずレーベルからの2年契約の延長はなかった。2年でリーダー作4枚、いずれも佳作秀作名作傑作なのだが、ドルフィーは同じレーベルで2年契約の間にアルバム18枚に参加、うち11枚がリーダー作(うち4枚が共同リーダー作)で、しかも同じ期間にプレスティッジ/ニュー・ジャズ以外にも確認できるだけで24枚のアルバムに参加、それもドルフィーが関わったのは結果的にミンガス、オーネット、コルトレーンマックス・ローチなど60年代初頭の重要アルバムがずらりと並ぶことになった。ディッカーソンには他人のアルバムへの参加がない。ニュー・ジャズ以降は1963年に『Jazz Impressions of Lawrence of Arabia』をDauntlessレーベルに(オースティン・クロウ=ピアノ、アンドリュー・シリル=ドラムス。モーリス・ジャール作曲の映画『アラビアのロレンス』テーマ曲集)、1964年に『Walt Dickerson Plays Unity』を「Audio Fidelity 」に(AB各面1曲。シリルとエドガー・ベイトマンの2ドラムス)、1966にはサン・ラ(ピアノ、ハープシコード、チェレステ)との共作『Impressions of a Patch of Blue』をMGMから(編成は通常のヴィブラフォン・カルテット)と1作毎にレーベルを変わった。「Audio Fidelity」からはディッカーソンの楽歴で唯一、プロデュースのみで演奏では参加していないが、エルモ・ホープの出所記念アルバム『Sounds from Rikers Island』1964を手がけている(Rikers Islandはニューヨークの麻薬刑務所)。参加プレイヤーにサン・ラのメンバーがいるから、このアルバムのプロデュースでサン・ラと知己になったのだろう。ホープのアルバムはAllmusic.comで星四つ半、The Penguin Guide to Jazzで満点の四つ星の高評価をつけている。

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 (Original New Jazz "To My Queen" LP Side B Label)
 エディ・コスタ、レム・ウィンチェスターが現れていなくてもディッカーソンは現れただろうが、ディッカーソン抜きにはボビー・ハッチャーソンが若くしてスタイルを確立するにはいたらなかったと思われるのは、ハッチャーソンのブルー・ノート録音はジャッキー・マクリーン作品に始まるがドルフィーともすでに『Iron Man』を録音しており、ブルー・ノートではアンドリュー・ヒルの『Judgement!』1963、ドルフィーの『Out To Lunch』1964、ヒル『Andrew!!!』1964を経て初リーダー作『Dialogue』1965にいたるが(1963年末に1999年まで未発表になっていたお蔵入りリーダー作があり、そちらはヒルドルフィーとは関連しないメンバーだが)、ドルフィー生前最後の公式スタジオ録音は急逝3か月前のアンドリュー・ヒル『Point of Departure』で、ウォルト・ディッカーソンはコルトレーンと同郷のフィラデルフィア出身だが大学卒業後カリフォルニアで2年間兵役についていた(兵役には大学の学費免除の特待がある)。そこでアンドリュー・ヒルとアンドリュー・シリルの2人とレギュラー活動し、ロサンゼルス出身のドルフィーと出会っている。ドルフィーとディッカーソンのジャズはフリーとも違うポスト・バップで、主流と前衛のどちらにも足をかけていた、不思議な立ち位置にいたジャズマンだった。
 ドルフィーの早逝のため晩年の『Iron Man』セッションと『Out To Lunch』にようやく間に合ったハッチャーソンだが、ヒルの『Judgement!』とハッチャーソンの『Dialogue』はベースとドラムスは違うが(ヒル作品はドルフィーのレギュラー・ベーシストのリチャード・デイヴィス、ドラムスはコルトレーン・カルテットのエルヴィン・ジョーンズとサイドマンの方が格上のすごいメンツ)、ハッチャーソン作品は2管クインテット(フレディ・ハバードとサム・リヴァース!)ヒル、デイヴィスは共通メンバーで、ドラムスは新鋭ジョー・チェンバース。曲はヒル作品とチェンバース作品が半々と、特にブルー・ノートではよくあることだが誰が主役だ、みたいなアルバムになっている。ハバードはドルフィーの最多共演トランペッターでもあったわけで、ドルフィーヒルの影響を受けながらハッチャーソンはディッカーソンとはまったく違う、軽やかな作風にたどり着いた。それもまた個性であり、興味深い。