人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源(3); 過渡期の詩人たち (d)石川啄木・前

 この章では新潮社『現代詩人全集』(昭和4年~5年)の巻立てを参考に、現代詩史の上で明治期から大正期の橋渡しをしたものの、本人は明治時代に到達した地点にとどまった詩人たちをご紹介しています。第1回は概説、第2・3回では詩誌「文庫」派の詩人である河井醉茗(1974-1965)、横瀬夜雨(1878-1934)を取り上げましたが、当初の予定では第1回で俎上に上げた『現代詩人全集』に倣って文庫派3人の巻である第4巻の紹介と、詩史的な収まりにいまだに明確な位置づけができない夭逝詩人の3人集である第6巻をご紹介するつもりでした。しかし醉茗、夜雨を個別に取り上げてみると文庫派すら一括して括るにはあまりに作風が異なります。特に夜雨は昭和期に入っても文語定型律の詩作を続け、しかも名作と言ってよい作品を残している。一方河井醉茗は口語詩で先駆的な作風に進みましたが、どうも成功していない。口語詩に移ったとたんに詩の実質が伝達性に足をとられてしまい、早い話が言語レヴェルでは後退してしまった。その代表的な例がポピュラーな愛読者を持つ「ゆずり葉」で、メッセージを引けば何も残らない作品です。
 夜雨の作品も平易なものですが、意味を取り去っても詩でなければ成立しない強固な構造があります。文語定型律時代の醉茗にもそれはあったので、文語詩には口語詩には咲かない華があり、日常言語を超えた神秘性や音楽性がありました。醉茗は詩壇の宗匠たる責からもあえて文語詩を脱して口語詩人に再生しようとし、夜雨は終生文語詩人であり続けたのです。文庫派最高の詩人は伊良子清白(1877-1946)で、過渡期の詩人というより独自の達成にたどついた詩人でしょう。「過渡期の詩人」ではおさまらない清白ならではのスタイルに到達しているのです。よって伊良子清白は独立した項目で検討・ご紹介すべき詩人であり、この章に収まりきる詩人ではないでしょう。

 第6巻の3人集もそうです。山村暮鳥(1884-1924)、三富朽葉(1889-1917)は暮鳥の多作、朽葉の寡作の違いはあれ、伝達言語ではない自律的な発想で、純粋な詩の世界を現出するこてができました。それに較べると、享年26歳で逝去した石川啄木(1986-1912)の詩にははるかに不純物が多く、いかにも過渡期の詩人らしい作風の一貫性の欠如が気にならないわけにはいきません。ですが数え歳17歳でデビューし、神童の名をほしいままにしながら歌人としても画期的な作風を確立し、次々と作風を変化させていった啄木こそはもっとも注目すべき過渡期の詩人だったのは間違いなく、おそらく数年間の啄木の業績は日本の現代詩の倍以上の速度で、現代詩の方向性に決定的な触媒を果たしていたのでした。実際『現代詩人全集』の「啄木・暮鳥・朽葉集』ほど持て余した組み合わせの巻はないでしょう。この3人は作風の共通点はまったくなく、強いて言えば暮鳥と朽葉が短期間おなじ同人誌(明治42年~43年「自由詩社」)に関わっていたくらいですが、暮鳥と朽葉にすら共通点がないのに啄木との組み合わせには何の根拠もありません。暮鳥(1884年明治17年生)、啄木(1886年明治19年生)、朽葉(1889年=明治22年生)とこの3人はほぼ等間隔に1880年代に生まれ、早熟な啄木は明治36年(1903年)には与謝野鉄幹・晶子の「明星」に17歳でデビューしており、当時の東京市長(現在の都知事職)尾崎行雄への献辞を捧げる第1詩集『あこがれ』(明治38年=1905年)で神童現ると評判を呼んだのはまだ19歳のことでした。
 暮鳥は神学校に学んで田舎牧師の生涯を送った人ですが、明治37年(20歳)から短歌誌に投稿を始め、明治40年には現代詩の長詩に移り「文庫」への投稿が掲載され、1909年(明治42年)に人見東明、加藤介春、三富朽葉らが中心となって創立された「自由詩社」に翌1910年(明治43年)から参加して発表誌紙を広げます。暮鳥の本領発揮は島崎藤村の序文を得た本格的な第1詩集(パンフレット形式の小詩集は1910年=明治43年にもあり)『三人の處女』(大正2年=1913年)以後のことで、翌1914年=大正3年萩原朔太郎室生犀星と「にんぎょ詩社」を設立し、1915年(大正4年)3月、同社の機関誌「卓上噴水」を創刊するとともに同年12月に突然変異的な衝撃的詩集『聖三稜玻璃』を上梓してからでした。大正6年(1917年)まで萩原・室生との同人活動は続きますが、翌年に任地の移動後は歿年まで詩壇との往来もなく孤立のまま膨大な作品を残し、苛酷な田舎牧師職に耐えながら(信徒や教会本部からも免職の声が絶えませんでした)、大正13年(1924年)に数年来の闘病から逝去します。啄木(享年26歳)、朽葉(享年27歳)と較べればとはいえ、享年40歳の暮鳥も決して長寿とは言えません。
 三富朽葉はマイナー・ポエットの典型のような存在ですが、生前詩集がなかったかわりに大正15年(1926年)刊の1巻本の大冊全詩集(翻訳、散文、日記、書簡も含む)『三富朽葉詩集』が昭和初期の若手詩人たちによく読まれました。昭和2年(1927年、20歳)の日記に中原中也は「世界に詩人はまだ三人しかをらぬ。/ヴェルレエヌ/ラムボオ/ラフォルグ/ほんとだ!三人きり。」(4月23日・全文)と書いていますが、同年の日記には「岩野泡鳴/三富朽葉/高橋新吉/佐藤春夫/宮澤賢治//毛唐はディレッタントか?/毛唐はアクティビティがある。」(6月4日・全文)ともあり、泡鳴、高橋、宮澤への傾倒は中原自身も直接著述し証言もありますから、高橋の理解者でもあった佐藤春夫とともに泡鳴の次に名前の上がる日本の詩人が朽葉だったのは注目されます。また中原の敵対したモダニズムの牙城「詩と詩論」(昭和3年=1928年~)主宰者で詩人・詩論家の春山行夫(1902-1994)は大正時代までの日本の現代詩を「無詩学時代」と否定した上で、数少ない詩学的詩人に三富朽葉を上げています。朽葉は明治40年(1907年、18歳)には「文庫」の特別寄稿家(投稿ではなく、本欄採用詩人)になり、進学先の縁で早稲田詩社同人と交わり、明治42年(1909年)に自由詩社を結成して翌明治43年(1910年)まで同人誌「自然と印象」に携わりました。翌年大学卒業後の朽葉はほとんど作品を発表しなくなり、私生活でも結婚の失敗で打撃を負います。大正3年(1914年)に久しぶりに発表した作品は何回で長大な散文詩で、それから歿年までは散文詩と詩論の執筆が中心になりました。そして大正6年(1917年・27歳)8月、詩人仲間たちと海辺の別荘でヴァカンス中、波に呑まれた友人を救助しようとして友人とも溺死しました。そして家族全員に感染させるほど悪化した結核を放置してまで精力的な文筆活動を続け、過労死同然に急性腹膜炎で26歳で急逝した石川啄木といい、『現代詩人全集』第6巻がいかに現代詩の挫折者の3人集なのかはおわかりいただけると思います。
新潮社『現代詩人全集』全12巻(昭和4年~5年)
 第4巻●河井醉茗・横瀬夜雨・伊良子清白集

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 第6巻●石川啄木山村暮鳥三富朽葉

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 歌人・詩人として知られる本名・石川 一(いしかわ はじめ)こと石川 啄木(いしかわ たくぼく、1886年明治19年2月20日 - 1912年=明治45年4月13日)が昭和初年にはすでにどれほど現代詩の古典的詩人と目されていたかというと、啄木と同年生まれで晩熟だった萩原朔太郎が長編詩論『詩の原理』(昭和3年=1928年、啄木歿後15年)に世界的詩人として李白、人麻呂、西行芭蕉バイロン、ハイネ、ゲーテ、シラー、キーツ、シュレー、ユゴーボードレールヴェルレーヌマラルメランボー、ヴェルハーレン、ホイットマンと同列に啄木を数えているのが萩原のおっちょこちょいな性格(本人は大真面目なだけになおさら)と、詩人は社会ではアウトサイダーであるという主張がわかります。萩原は裕福な地方医院家の長男で遺産相続人、かつ無職の利子生活者で自由文筆家(医院は妹の婿養子が継いでいました)から来る階級的コンプレックスがあり、当時出身階級や資産は人格形成にとって現代からは実感の湧かないほど決定的な環境要因でした。暮鳥は小作農家出身(いわゆる「貧農」)で、しかも幼期から地主とのトラブルが絶え間なく各地を転々としていた実家に育っています。朽葉は富豪に迫るほどの裕福な商家に育ち、朔太郎同様生涯無職の自由文筆家でした。
 啄木は曹洞宗住職家に生まれましたが、19歳の年に父が宗費滞納の責を負って本山から罷免されて以来、啄木が一家の家長にならざるを得なくなります。啄木のお父さんは要するに使い込みをしていたので、本山にも民間にも多大な借財をしていたのが啄木の身に降りかかり、翌年の恋愛結婚(啄木中学2年生の頃からの恋人でした)は周囲の無理解を押し切って実現しましたが、両親、未婚の妹、新妻、翌年生まれた長女とも何度も経済的理由で離散しては同居に戻る不安定な家庭生活が晩年まで続きました(長男も授かりましたが3週間で亡くしています)。啄木の学歴は中学5年中退で、当時の義務教育は小学生(6年制)までですし、教育法で定められていたのは1県あたり最低1校ですから、5年制の旧制中学に進学するのは現在の国立大学レヴェルの難関であり、しかも公立とはいえ多大な学費・生活費を強いられることでした。啄木の家庭にはそれだけの資力はなく、親戚からの後援もあって進学した中学ですが、当初抜群だった成績も文学や恋愛に熱中するうちにどんどん落ちて行きます。最終学年では期末試験ごとにカンニングがバレ、どうせ文学の道に進むからとあっさり退学してしまいます。当時中学卒業の資格があれば今日の公立大学卒業者程度には幅が効きましたが、詩人としての成功を信じて卒業寸前に自主退学したのです。

 17歳の啄木はさっそく上京して「明星」主宰の与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪ねますが、すぐに病気で寝たきりになり4か月後に父の迎えで岩手に帰郷。しかし与謝野夫妻との面談は成果があり、翌年には「明星」の新進詩人として注目されるようになって、19歳の年には発表誌紙が広がるとともに5年来の恋人とも結納を交わします。第1詩集刊行の準備に上京し、東京市長尾崎行雄に出版後見人を依頼に訪ねて追い返された(面識もなしに訪ねたらしい)のもその頃です。一方年末には父が住職を罷免されます。明治38年(1905年)、第1詩集『あこがれ』刊行、20歳。翌年は詩作以外にも新聞小説を手がけながら1年間小学校の代用教員の職に就きましたが、当時小学校代用教員というのは資格もいらず、雇用形態もあくまでアルバイトにすぎず、しかも低賃金で、高学歴者にとってはもっとも屈辱的な職務とされていました。雇用更新期間を待って代用教員を辞すと、一家離散して妹と北海道に渡って短期間再び代用教員をしながら新聞記者の職を探します。それが明治40年(1907年)で、校正係として新聞社に入社するもこの年だけで4回転職しています。翌明治41年(1908年)から勤め始めた新聞社も3か月で辞め、5月からは三たび単身上京して翌明治42年(1909年)2月に東京朝日新聞社で校正係に就職するまで経済的困窮を友人の金田一京助(国語学者)の援助でしのいでいました。
 啄木の転職はこれが最後になり、職を得てようやく家族を東京へ呼び寄せましたが、10月には家にお金を入れない啄木と上京生活の貧苦と病苦に堪えかねて夫人が長女を連れて家出します。金田一の取りなしで夫人は3週間後に戻りましたが、この明治41年(23歳)と明治42年(24歳)は啄木がもっとも精神的頽廃に陥っていた時期でした。それはご紹介する詩では「泣くよりも」連作(明治41年)、「心の姿の研究」連作(明治42年)に表れています。今回ご紹介する詩は各時期の特徴を表すものを選び、「隱沼」(18歳)は第1詩集『あこがれ』前半、「眠れる都」(19歳)は後半の代表作で詩人としての名声獲得に野心的だった時期の作品。「東京」(20歳)と「吹角」(21歳)は『あこがれ』出版と結婚から代用教員時代を送っていた時期で、22歳の年・明治40年は一家離散と4回の転職があり、ついに本格的上京を果たした明治41年は翌42年にかけて心身も生活も荒廃しきっていました。啄木は明治45年(1912年)4月に逝去するのであと2年の余命しかありませんが、この最低な状態から立ち直って晩年の代表的作品が生みだされるのです。それは次回に送ります。

 なお、啄木の詩と短歌をまとめた文庫版でお薦めできるのは『日本の詩歌5 石川啄木』(中公文庫/中央公論社)で、原本は昭和43年(1968年)に筑摩書房版『啄木全集』全8巻が刊行されるとともに啄木研究の第一人者・故岩城之徳氏が編纂したものです。同選集は歌集『一握の砂』『悲しき玩具』に生前歌集未収録短歌、詩集『あこがれ』に生前詩集未収録作品を編年体に選出収録し、収録作品の全初出データと注釈(故山本健吉氏による)がついているのも理解を深めますが、編集自体に岩波書店版『啄木全集』とも筑摩書房版『啄木全集』とも異なる特色があります。まず岩波版全集(昭和28年刊)よりも校訂やデータが正されており、また筑摩版全集では学問的分類によって小詩集単位の生前詩集未収録作品が解体されているのでかえって通読しづらいのです。啄木生前詩集の『あこがれ』は啄木全詩作品の4割弱程度でしかないので、生前詩集未収録作品を再び啄木の意図に近い小詩集単位に整理した『日本の詩歌』版の岩城氏の編集は本格的な『啄木全集』より読者の理解を助けてくれます。
 また詩歌だけでなく啄木の代表的な小説・評論・日記・書簡を1冊にまとめたものは、通販サイトなら安価で手軽に入手できますが、岩城之徳編『石川啄木大全』(講談社スーパー文庫)が菊判の大判で通常の文庫本数冊分のヴォリュームがあり、岩波版全集以前の規模なら全集に準じる1巻本全集になっています。啄木ほどのポピュラリティを現代でも持っている詩人は(啄木は短歌の比重が高いでしょう)他に高村光太郎宮澤賢治(童話も合わせて)、中原中也がわずかに匹敵するだけと思われ、それも日本では詩とはどのようなものと考えられているかを物語るかのようです。石川啄木萩原朔太郎は同年生まれですが、萩原が詩作を始めたのは啄木の享年26歳を2歳も越えた28歳からのことでした。同年生まれですから意外にも実は啄木と萩原には共通した時代感覚があります。そして萩原には啄木のようなポピュラリティは持ち得ない面がついて回るのです。その辺りにも次回では触れられるかと思います。
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(第1詩集『あこがれ』明治38年=1905年5月・小田島書房)

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  隱沼  石川啄木

夕影しづかに番(つがひ)の白鷺(しらさぎ)下り、
(まき)の葉枯れたる樹下(こした)の隱沼(こもりぬ)にて、
あこがれ歌ふよ。--『その昔(かみ)、よろこび、そは
朝明(あさあけ)、光の搖籃(ゆりご)に星と眠り、
悲しみ、汝(なれ)こそとこしへ此處(ここ)に朽ちて、
我が喰(は)み啣(ふく)める泥土(ひづち)と融け沈みぬ。』--
愛の羽寄り添ひ、青瞳(せいどう)うるむ見れば、
築地(ついぢ)の草床、涙を我も垂れつ。

(あふ)げば、夕空さびしき星めざめて、
しぬびの光よ、彩(あや)なき夢(ゆめ)の如く、
ほそ糸ほのかに水底(みぞこ)に鎖(くさり)ひける。
哀歡かたみの輪廻(めぐり)は猶(なほ)も堪へめ、
泥土(ひづち)に似る身ぞ。ああさは我が隱沼、
かなしみ喰(は)み去る鳥さへえこそ來めや。

(初出・明治36年1903年12月「明星」/第1詩集『あこがれ』明治38年=1905年5月・小田島書房)
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 眠れる都  石川啄木

(京に入りて間もなく宿りける駿河台の新居、窓を開けば、竹林の崖下、一望甍(いらか)の谷ありて眼界を埋めたり。秋なれば夜毎に、甍の上は重き霧、霧の上に月照りて、永く山村僻陬(へきすう)の間にありし身には、いと珍らかの眺めなりしか。一夜興をえて笏々(さうさう)筆を染めけるもの乃(すなは)ちこの短調七聯(れん)の一詩也)

鐘鳴りぬ、
いと荘嚴(おごそか)
夜は重し、市(いち)の上。
聲は皆眠れる都
瞰下(みおろ)せば、すさまじき
野の獅子の死にも似たり。

ゆるぎなき
霧の巨浪(おほなみ)
白う照る月影に
氷りては市を包みぬ。
港なる百船(もゝふね)の、
それの如(ごと)、燈影(ほかげ)洩るる。

みおろせば、
眠れる都、
ああこれや、最後(をはり)の日
近づける血潮の城か。
夜の霧は、墓の如、
ものみなを封じ込めぬ。

百万の
つかれし人は
眠るらし、墓の中。
天地(あめつち)を霧は隔てて、
照りわたる月かげは
(あめ)の夢地にそそがず。

聲もなき
ねむれる都、
しじまりの大いなる
声ありて、霧のまにまに
ただよひぬ、ひろごりぬ、
黒潮のそのどよみと。

ああ聲は
晝のぞめきに
けおされしたましひの
打なやむ罪の唸りか。
さては又、ひねもすの
たたかひの名殘(なごり)の声か。

我が窓は、
濁れる海を
(めぐ)らせる城の如、
遠寄(とほよ)せに怖れまどへる
(うた)の胸守りつつ、
月光を隈なく入れぬ。

(初出・明治37年1903年12月「時代思潮」/第1詩集『あこがれ』明治38年=1905年5月・小田島書房)
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(『啄木遺稿』大正2年=1913年5月・東雲堂書店)

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  東京  石川啄木

かくやくの夏の日は、今
子午線の上にかかれり。

煙突の鐵の林や、煙皆、煤黒き手に
何をかも攫(つか)むとすらむ、ただ直(ひた)に天をぞ射せる。
百千網(ももちあみ)巷巷(ちまたちまた)に空車行く音もなく
あはれ、今、都大路に、大眞夏光動かぬ
寂寞(せきばく)よ、霜夜の如く、百萬の心を壓せり。

千萬の甍(いらか)今日こそ色もなく打鎭(しづま)りぬ。
紙の片白き千ひらを撒きて行く通魔(とほりま)ありと、
家家の門や又窗(まど)、黒布に皆とざされぬ。
百千網都大路に人の影暁星(あかぼし)の如、
(みたり)。--かくて、骨泣く寂滅(じやくめつ)の死の都、見よ。

かくやくの夏の日は、今
子午線の上にかかれり。

何方(いづかた)ゆ流れ來ぬるや、黒星よ、眞北の空に
飛ぶを見ぬ。やがて大路の北の涯(はて)、天路に聳(そそ)
層樓の屋根にとまれり。唖唖(ああ)として一聲。--これよ
凶鳥(まがどり)の不浄の烏(からす)。--骨あさる鳥なり、はたや、
死の空にさまよひ叫ぶ怨恨(ゑんこん)の毒嘴(どくはし)の鳥。

鳥啼(な)きぬ、二度。--いかに、其声の猶(なほ)終らぬに、
何方ゆ現れ來しや、幾尺の白髪かき垂れ、
いな光る剣捧げし童顔の翁(おきな)あり。ああ、
黒長裳(くろながも)静かに曳くや、寂寞の戸に反響(こだま)して、
(くつ)の音全都に響き、唯一人大路を練れり。

有りとある磁石の針は
子午線の真北を射せり。
(三十八年八月三十日盛岡市加賀野磧町にて)

(初出・明治38年=1905年9月「小天地」/『啄木遺稿』大正2年=1913年5月・東雲堂書店)
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  吹角(つのぶえ)  石川啄木

みちのくの谷の若人、牧の子は
若葉衣の夜心に、
赤葉の芽ぐみ物燻(く)ゆる五月(さつき)の丘の
(かしは)木立をたもとほり、
落ちゆく月を背に負ひて、
ひと夜明しぬ。
東白(しののめ)の空のほのめき--
(あめ)の扉(と)の眞白き礎(もと)ゆ湧く水の
いとすがすがし。--
ひたひたと木陰地(こさぢ)に寄せて、
足もとの朝草小露明らみぬ。
風はも涼し。
みちのくの牧の若人露ふみて
もとほり心角(くだ)吹けば、
吹き、また吹けば、
渓川の石津瀬(いはつせ)はしる水音も
あはれ、いのちの小鼓(こつづみ)の鳴の遠音(とほね)
ひびき寄す。
ああ静心(しづごころ)なし。
丘のつづきの草の上(へ)
白き光のまろぶかと
ふとしも動く物の影。--
(くぼ)みの埓(かこひ)の中に寝て、
心うゑたる暁の夢よりさめし
小羊の群は、静かにひびき來る
角の遠音にあくがれて、
埓こえ、草をふみしだき、直(ひた)に走りぬ。
暁の聲する方(かた)の丘の邊(へ)に。--
ああ歡(よろこ)びの朝の舞、
新乳(にひち)の色の衣して、若き羊は
角ふく人の身を繞(めぐ)り、
すずしき風に啼(な)き交(かは)し、また小躍(こをど)りぬ。
あはれ、いのちの高丘に
誰ぞ角吹かば、
我も亦(また)
この世の埓をとびこえて、
野ゆき、川ゆき、森をゆき、
かの山越えて、海越えて、
かましものと、
みちのくの谷の若人、いやさらに
角吹き吹きて、静心なし。

(初出・明治39年1906年9月「藝苑」/『啄木遺稿』大正2年=1913年5月・東雲堂書店)

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泣くよりも 四篇  石川啄木

四十一年五月二十四日本郷菊坂町にて作れる

  泣くよりも

その人に、夢の中にて
いつの年、いつの夜としもわかなくに
我は逢ひにき。
今は早や死にてやあらむ。

したたかに黒き油を鬢にぬり、
痛みて死ぬ白き兎の毛の如も
厚き白粉、
血の色の紅をふくみて
その人は、少女にまじり、みだらなる
歌の數數、晴れやかに三味かきならし、
火の如つよく舌をやく酒を呷りぬ。
火の如。
居ならぶは二十歳(はたち)許りの
酒のまぬ男らなりき。

『何故に、さは歌ふや。』と我問ひぬ、
夢の中にて。
その人は答へにけらく、
醉ひしれし赤き笑ひに、
『泣くよりも。』

  (あによめ)

いと長き旅より、我は
なつかしき故家(いへ)にかへりぬ。
その夕(ゆふべ)、わが嫂(あによめ)
子らつどへ、頭(かしら)撫でつつ、聞かせにき
馬の話を。

さて曰く、『君何故に
八年の長き間をおのが家に帰らざりしや。
何故に旅に行きしや。』

面染めて我は答へぬ、『その昔、
君はせざりき馬の話を。』

  殺意

『何なれば、汝は敢(あへ)
かの人を慘殺したる。』
判官はかくも問ひつつ、
おごそかに立ちぞ上れる。

あをざめし我が罪人(つみびと)は、
『赤インキ、呀(あ)。』とぞ叫びて、
膝まづき、打ちわななきぬ。
『かの君の白き裳裾に
赤インキさと散りし時。』

  辯疏(いひわけ)

『われなどて君を厭はむ。
さなり、我、などて厭はむ。』
『さらば、など、かの木の下を
かの人と手とりゆきしや。』
かくぞ君われを詰(なじ)れる。

『さらばとか。乞ふ、唯一つ、
聞き給へ、我が辯疏(いひわけ)を。
われは唯初めて君を見たる日の
その心もて口づけぬ。かの小少女(をとめご)に。
我つひに二心(ふたごころ)なし。』

(初出・明治41年=1908年6月「明星」/『啄木遺稿』大正2年=1913年5月・東雲堂書店)

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心の姿の研究 五篇  石川啄木

  夏の街の恐怖

焼けつくやうな夏の日の下に
おびえてぎらつく軌條(れーる)の心。
母親の居睡(ゐねむ)りの膝から辷り下りて
(ふと)つた三歳(みつつ)ばかりの男の児(こ)
ちよこちよこと電車線路へ歩いて行く。

八百屋の店には萎えた野菜。
病院の窓の窓掛(まどかけ)は垂れて動かず。
閉された幼稚園の鐵の門の下には
耳の長い白犬が寝そべり、
すべて、限りもない明るさの中に
どこともなく、芥子(けし)の花が死落(しにお)
生木(なまき)の棺(くわん)に裂罅(ひび)の入(い)る夏の空気のなやましさ。

病身の氷屋の女房が岡持を持ち、
骨折れた蝙蝠傘(かうもりがさ)をさしかけて門(かど)を出(いづ)れば、
横町の下宿から出て進み來る、
夏の恐怖に物も言はぬ脚気(かっけ)
患者の葬(はうむ)りの列。
それを見て辻の巡査は出かゝった欠伸(あくび)噛みしめ、
白犬は思ふさまのびをして
塵溜(ごみため)の蔭に行く。

焼けつくやうな夏の日の下に、
おびえてぎらつく軌條(れーる)の心。
母親の居睡りの膝から辷り下りて
肥つた三歳ばかりの男の児が
ちよこちよこと電車線路へ歩いて行く。

(明治42・12・12「東京毎日新聞」)


  起きるな

西日をうけて熱くなつた
埃だらけの窓の硝子よりも
まだ味氣ない生命(いのち)がある。

正體もなく考へに疲れきつて、
汗を流し、いびきをかいて晝寝してゐる
まだ若い男の口からは黄色い歯が見え、
硝子越しの夏の日が毛脛(けずね)を照し、
その上に蚤が這ひあがる。

起きるな、起きるな、日の暮れるまで。
そなたの一生に涼しい静かな夕ぐれの來るまで。

何処(どこ)かで艶(なまめ)いた女の笑ひ聲。

(明治42・12・13「東京毎日新聞」)


  事ありげな春の夕暮

遠い國には戦(いくさ)があり……
海には難破船の上の酒宴(さかもり)……

質屋の店には蒼ざめた女が立ち、
燈光(あかり)にそむいてはなをかむ。
其處(そこ)を出て来れば、路次の口に
情夫(まぶ)の背を打つ背低い女----
うす暗がりに財布を出す。

何か事ありげな--
春の夕暮の町を壓する
重く淀んだ空氣の不安。
仕事の手につかぬ一日が暮れて、
何に疲れたとも知れぬ疲れがある。

遠い国には澤山(たくさん)の人が死に……
また政庁に推寄(おしよ)せる女壮士(をんなさうし)のさけび聲……
海には信天翁(あはうどり)の疫病……

あ、大工の家では洋燈(らんぷ)が落ち、
大工の妻が跳び上る。

(明治42・12・16「東京毎日新聞」)


  柳の葉

電車の窓から入つて來て、
膝にとまった柳の葉--
此処(ここ)にも凋落(てうらく)がある。
(しか)り。この女も
定まった路を歩いて來たのだ--

旅鞄(たびかばん)を膝に載せて、
やつれた、悲しげな、しかし艶(なまめ)かしい、
居睡(ゐねむり)を初める隣席(となり)の女。
お前はこれから何処(どこ)へ行く?

(明治42・12・20「東京毎日新聞」)


  (こぶし)

おのれより富める友に愍(あはれ)まれて、
(あるひ)はおのれより強い友に嘲(あざけ)られて
くわつと怒つて拳(こぶし)を振上げた時、
(いか)らない心が、
罪人のやうにおとなしく、
その怒つた心の片隅に
目をパチゝゝして蹲(うづくま)つてゐるのを見付けた--
たよりなさ。

あゝ、そのたよりなさ。

やり場にこまる拳をもて、
お前は
(たれ)を打つか。
友をか、おのれをか、
それとも又罪のない傍(かたは)らの柱をか。

(明治42・12・20「東京毎日新聞」)

(初出・明治42年=1909年12月「東京毎日新聞」/『啄木遺稿』大正2年=1913年5月・東雲堂書店)