三富朽葉(明治22年=1889年8月14日生~大正6年作=1917年8月2日没)
『三富朽葉詩集』第一書房・大正15年(1926年)10月15日刊
「水のほとりに」
水の辺(ほと)りに零れる
響ない真昼の樹魂(こだま)。
物のおもひの降り注ぐ
はてしなさ。
充ちて消えゆく
もだしの応(こた)へ。
水のほとりに生もなく死もなく、
声ない歌、
書かれぬ詩、
いずれ美(うるは)しからぬ自らがあろう?
たまたま過ぎる人の姿、獣のかげ、
それは皆遠くへ行くのだ。
色、
香(か)、
光り、
永遠に続く中(なか)。
(明治42年=1909年5月「自然と印象」創刊号)
「メランコリア」
外から砂鉄の臭ひを持つて来る海際の午後。
象の戯(たはむ)れるやうな濤(なみ)の呻吟(うなり)は
畳の上に横たえる身体(からだ)を
分解しようと揉んでまわる。
私は或日珍しくもない元素に成つて
重いメランコリイの底へ沈んでしまふであらう。
えたいの知れぬ此のひと時の衰えよ、
身動きもできない痺(しび)れが
筋肉のあたりを延びてゆく……
限りない物思ひのあるやうな、空しさ。
鑠(と)ける光線に続(つな)がれて
目まぐるしい蝿のひと群が旋(めぐ)る。
私は或日、砂地の影へ身を潜めて
水月(くらげ)のやうに音もなく溶け入るであらう。
太陽は紅いあかいイリュウジョンを夢みてゐる、
私は不思議な役割をつとめてるのではないか。
無花果樹(いちじく)の陰の籐椅子や、
まいまいつむりの脆(もろ)い殻のあたりへ
私は蝿の群となつて舞ひに行く。
壁の廻りの紛れ易い模様にも
ちょっと臀を突きだして止つて見た。
窓の下に死にゆくやうな尨犬(むくいぬ)よ。
私はいつしかその上で渦巻き初める、
…………………
…………………
砂鉄の臭いの懶(ものう)いひとすじ。
(明治43年=1910年9月「創作」)
*
三富朽葉(明治22年=1889年8月14日生~大正6年作=1917年8月2日没)は長野県生まれ、東京育ちで、裕福な金融業者の家庭に育った詩人です。河井醉茗主宰の詩誌「文庫」に明治38年(1905年)から新体詩の流れをくむ文語抒情詩の投稿を始めて入選していましたが、早稲田大学在学中フランス象徴派の訳詩を発表、口語詩に転じ、明治42年(1909年)創刊の同人誌「自然と印象」の中心となりました。朽葉の詩史的位置は蒲原有明・伊良子精白らの文語自由詩、北原白秋の口語定型詩から「口語自由詩」を初めて明確に打ち出し、のちの萩原朔太郎らの時代を準備したことにあります。「水のほとりに」ではまだぎこちない文語脈での口語自由詩の試作にとどまっていますが、まだ高村光太郎も萩原朔太郎も本格的な詩作を始めていない明治42年の段階では三富朽葉の詩は石川啄木晩年の口語自由詩の試作とともに画期的なものでした。石川啄木(1886-1912年)がようやく口語自由詩の成功作「心の姿の研究」連作を発表したのが明治42年(1909年)12月ですから、朽葉も先駆的な業績を残した詩人と言えるのです。明治43年の「メランコリア」ではさらに近代的な倦怠感の描出に進展が見られ、ほとんど啄木の晩年詩、萩原朔太郎の登場に迫っています。この「水のほとりに」と「メランコリア」の間に発表された短詩にも都会的な倦怠感の表現を目指した作品がありますが、これら発想の平凡さと、まだ行分け散文でしかないような文体の単調さが目立ち、口語自由詩である必然性を持って書かれた詩ながら、発表は「自然と印象」創刊号の「水のほとりに」よりも先に書かれた印象を受けますし、完成度は「メランコリア」におよばないながらも萩原朔太郎の「青猫」のテーマを先取りしています。
「夕暮の時」
三富朽葉
夕暮の街が
暗い絵模様を彩る時、
人々が淡い影を引いて
舞踏するやうに過ぎて行く、
いつしらず、自分は
闇を慕うて来たかのやうに陥る、
冷たく黒い焔を燃す
冬の夜の吐息の中。
(明治43年=1910年2月「新潮」)
「のぞみ」
三富朽葉
私は雑踏を求めて歩く、
人々に随つて行きたい、
明るい眺めに眩惑されたい、
のぞみは何処にあるのであらう、
群集の一人となりたい、
皆と同じく魂を支配したい、
荒い渇きに嘔(むか)ついて、
私は雑踏を求めて歩く。
(明治43年=1910年2月「新潮」)
三富朽葉は明治45年(1912年)には遊廓から水揚げした夫人との結婚を機に同人誌活動を辞めますが、その結婚もすぐに夫人の出奔で破綻します。もともと金融業者の子息であることにコンプレックスをもっていた朽葉は結婚の失敗でますます失意のうちに陰棲状態に入り、詩作発表も大正3年8月に「早稲田文学」に寄稿した散文詩「生活表」を最後に、自作を「文庫」投稿時代の習作期、第1詩集(明治42年~明治44年)、第2詩集(明治45年)、その後の散文詩集と整理して詩友たちとの勉強会のみ活動を続けました。そして大正6年(1917年)8月に「早稲田文学」に3年ぶりの散文詩「微笑についての反省」を寄稿して文筆活動を再開した矢先に三富朽葉は、犬吠崎の別荘に遊びに来ていた詩人仲間との海水浴中、溺れた学友時代からの詩友・今井白楊を救助しようとして白楊とともに溺死しました。享年27歳でした。三富朽葉は生前刊行詩集がなく、全詩集に訳詩・エッセイ・書簡を含む全集『三富朽葉詩集』が三富に兄事した詩人・増田篤夫によって編集・刊行されたのは大正15年(1926年)10月15日(第一書房刊)でしたが、同全集は昭和初期の詩人に初めて三富朽葉の存在を知らしめるものになりました。「詩と詩論」の指導的詩人・批評家、春山行夫は明治以降で初の詩論家と三富朽葉を称揚し、中原中也も日記に自分の認める日本の詩人として「岩野泡鳴・三富朽葉・佐藤春夫・高橋新吉・宮澤賢治」と5人のみを上げています。しかし高村光太郎(1883-1959)の本格的な詩作が明治43年以降で第1詩集『道程』が大正3年10月、石川啄木の晩年の画期的な口語自由詩が晩年2年の明治42年~44年、晩熟だった萩原朔太郎(1886-1942)が作詩を始めたのが同年生まれの啄木の逝去に刺戟された大正2年(1913年)以降で、萩原の第1詩集『月に吠える』が大正6年2月刊なのを思うと、三富朽葉は現代詩の詩人・読者にすらあまりにも知られていない詩人で、昭和53年に『三富朽葉詩集』をさらに増補し、厳密な校訂を施した全3巻4冊(第1巻詩集・第2巻散文・第3巻上下巻研究文献)の完全な全集が刊行されていますが、今なおマイナー・ポエットの代表のような存在でしょう。しかし三富朽葉の系譜は富永太郎~中原中也に受け継がれたと言ってよく、高村光太郎でもなければ萩原朔太郎でもない口語自由詩の系譜の可能性を暗示するものです。