人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源(8); 近藤東『抒情詩娘』(i)

近藤東(1904.6.24.-1988.10.23.)/創元社『全詩集大成 現代日本詩人全集15』(昭和30年=1955年10月刊)著者近影より

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 近藤東は現代詩誌「詩と詩論」(商業誌規模の同人誌。1928年9月~1931年12月、通巻第14冊。継続誌『文學』1932年3月~1933年6月、通巻第6冊)関連詩人でもモダニズム詩の特色がもっとも強い詩人で、「詩と詩論」自体が三好達治から北川冬彦安西冬衛西脇順三郎北園克衛、吉田一穂や逸見猶吉など志向の異なる詩人たちが昭和初年の詩の革新だけを共通項に参加していただけであり、梶井基次郎も三好・北川と親友だったために寄稿していたほどです。前述の詩人たちは「詩と詩論」に関わっていた間だけモダニズムの傾向を示していたとも言えます。近藤東も大戦敗戦後には作風の転換がありますが、「詩と詩論」終刊後に主宰者・春山行夫が後継誌として創刊した「文學」~「詩法」~「新領土」に至るまで同人であり続けました。それらの後継誌では「詩と詩論」に参加するには遅れた村野四郎、安藤一郎、笹澤美明や、戦後に詩誌「荒地」を創刊する「詩と詩論」読者上がりの学生詩人たちが集まったので、「詩と詩論」創刊同人でその前身同人誌「謝肉祭」からの同人だった近藤は主宰者・春山と並ぶ古株だったのです。
 モダニズム詩はおおよそ抒情詩(三好達治主宰「四季」)とリアリズム詩(北川冬彦主宰「詩・現実」「時間」)、抽象詩(北園克衛主宰「VOU」)に分かれたり「歴程」に移って行きましたが、「詩と詩論」創刊主宰者の春山行夫の系譜に一番長く忠実だったのが近藤東でした。その作風がいかに時流に迎えられたかは、当時「文藝春秋」や「中央公論」と並ぶ総合誌だった「改造」誌の昭和4年の通巻100号記念の懸賞公募に近藤東作品「レエニンノ月夜」が一等当選されたことでも知られます。二等1名は、佳作14名には「詩と詩論」同人の上田敏雄と共に「歴程」同人の石川善助「間借者の詩」が入っており(上田黎名義)、石川は夭逝しますがこの次点入賞をきっかけに吉田一穂に傾倒した作風に急変します。近藤が大学最終学年の昭和2年(1927年)に海外(当時植民地)に遊学(ラグビー部マネージャーとして上海遠征)した経験は詩作に転換をもたらし、「レエニンノ月夜」のインパクトは20代の青年詩人たちに大きなショックを与えました。「新領土」に拠った新進詩人・永田助太郎など、直接近藤の影響を感じさせる夭逝詩人もいます。ただし近藤の詩はあまりに時代のムードに密着しすぎて、歴史性を加味しないでは評価の難しいものです。

 近藤東は大学初年度に名古屋在住時の春山行夫主宰の同人誌「青騎士」を知り、文通して親しくなり翌大正15年(1926年)上京した春山と共に同人誌「謝肉祭」を創刊しました。昭和3年春に近藤は大学を卒業して鉄道省に就職、同年9月には春山行夫主宰の季刊「詩と詩論」が創刊され、編集同人として参加します。昭和4年5月に発表された「改造」懸賞詩の応募は2,500編、二次審査で絞っても350編だったというから大変なものです。一等の近藤は100円の賞金を獲得しました。物価指数で言うと、当時の1円は現在の1,500円~1,800円に当たりますから150万円~180万円といったところです。二等賞金は50円でしたが14名の佳作受賞者は図書券でした。これほど盛況な懸賞詩コンテストが行われていたのも詩の読者・アマチュア詩人相手の企画が商業的に成り立つほど盛んな時代だったからです。
 詩集『抒情詩娘』は28ページ、本文24ページの小冊子で定価20銭のパンフレットです。収録詩編はすべて「★」だけで区分されてタイトルもページのノンブルもなく、この軽さがモダニズムの精神をよく体現しています。収録詩編24編のうち21編は発表誌での原題、また第2詩集『萬國旗』(昭和16年=1941年7月・文藝汎論社刊)、第3詩集『紙の薔薇』(昭和19年=1944年1月・湯川弘文堂刊)への再録の際につけられたタイトルが明らかになっています。「レエニンノ月夜」は『上海-未定稿』の総題で5編の連作として「詩と詩論」昭和4年(1929年)3月に発表され、同年5月の「改造」に懸賞詩一等当選作として掲載されました。『詩集 抒情詩娘』は全24編を8編ずつ4回に分けてご紹介したいと思いますが、今回の詩集冒頭の8編では詩集に先立って発表されたのは、
レエニンノ月夜」昭和4年(1929年)3月「詩と詩論」・5月「改造」
「CHARLESTONING FOOLS」昭和4年6月「詩と詩論」
「國歌」昭和5年9月「詩と詩論」
「抒情詩娘」昭和7年(1932年)3月「文藝汎論」
 --の4編で他の4編は詩集初出となり、うち3編は後の詩集再録時に独立したタイトルがつけられたものです。同じ同時期のカタカナ詩でも以前ご紹介した『ウルトラマリン』の逸見猶吉と近藤東はまったく異なる効果を上げており、逸見が詰屈で凶暴な内向的攻撃性を表していた片仮名が、近藤の場合は軽薄な享楽的無国籍性を皮肉に客体化することで抒情詩のパロディを生み出しており、題材では安西冬衛(1898-1865)に近く、手法は北園克衛(1902-1978)に近いながらも、効果的なゴシック体使用に見られるユーモア感覚のようにより若いセンスを感じさせるものです。『抒情詩娘』はこれまでご紹介してきた『肋骨と蝶』『有明集』『孔雀船』『啄木遺稿』『聖三稜玻璃』『逸見猶吉詩集(ウルトラマリン)』『わがひとに與ふる哀歌』のように傑出して時代を超えた革新的な詩的感銘を備えた詩集ではありません。ですがこの詩集には昭和5年(1930年)前後でなければ書かれなかった刹那的魅力があり、通常普遍性を価値基準とした詩の世界ではこうした詩集の楽しさが見過ごされがちなものなのです。

『詩集 抒情詩娘』昭和7年=1932年11月1日・ボン書房刊(袖珍判本文24頁・限定200部・定価20錢)

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近藤東自筆原稿「レエニンノ月夜」

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詩集 抒情詩娘

  イヴの末裔タチニ--


 

鏡二映ツタサカサマノ女ノウシロ姿ハ一本ノ蝋マツチノヤウニ華奢デアツタ。ナメラカナ背中ノハテノ栗色ノ毛髪。點火燐。

女ハシイツノ上ニパフヲ落シタ。シイツノ皺ハボク二地中海ノ地圖デアツタ。四月ノ。

女ノ體躯デ故郷ノ街ヲ語ルタメニ放心シタ。港ヘノ傾斜路。葡萄酒(ヴイノ)。手風琴。ミガカレタ肌二驟雨サヘ降ラセタ。

パフハ窓カラ捨テラレル。窓カラ捨テラレタパフハ地中海ノ春ヲ匂ハセテ落チテ行ツタ。一輪の花のヤウニ。

(再録詩集改題「地中海ノ女」)

 

ボクノ上着ハ港ノ新聞紙デアツタ。ボクハ霧ノヤウニ上陸シタ。夜霧ノヤウニ。

シルクハットノ中デ白革手袋ガ泳イダ。女ガハダカデ踊ツテヰタ。踝飾(アンクレツト)ガ青イ内股ヲ撲(ウ)ツテヰタ。芙蓉花ノヤウナ乳房ガ揺レテヰタ。ジヨンブルノ好色ガ水脈ヲヒイテ往來スル。

ボクハ瞳孔ノ黴ヲハラツテ埠頭ヘ歸ツタ。遠イ機関銃ノ空射ガ街路ヲペイヴシテキタ。

(再録詩集改題「上陸」)

 

コノ十六歳ノ支那花嫁ハ、アノ度毎二卓上デ墨西哥銀貨(メキシコダラア)ヲ弾マセタ。カアテンヲ出テ。

宵、彼女ハ街角ノシヨウ・ウインドウ二凍テツイタ。トキドキ、英吉利兵ノ杖(ケイン)ガ頬ヲ撥ネタ。

彼女ノケイプノ襟飾ハ造花デアツタ。造花ニハ思想ガナイ。ソレ故、雨ノ日ニハ雨色二匂ツタ。濡レテ。

(再録詩集改題「造花」)

 

凱旋門(アアチ)ガ意味スル意味ノタメニボクハ手二小サナ旗ヲ持タサレタ。

一隊ガ臭気ヲ撒布シテ過ギタ。

ボクハコノ侮辱サレタ街ヲカナシンデ階段ヲ馳ケ上ツタ。

部屋ニハ既二母国語ヲ忘レタ女ガ喪章ツキノ花束ヲ椅子二置キボクノタメニ両腕ヲ自由二シテヰタ。微笑ンデ。

ボクハコノ體臭ノアルマンドリンヲ膝ノ上二カイ抱イテドコニモナイ國歌ヲ唄フノダ。ドコニモナイ國歌ヲ唄フノダ。

(発表誌原題「國歌」)

 

マルデ鑵詰ノフタヲアケルヤウニアハテテ窓ヲ開イテオ母サンヲ呼ブオ孃サン。

ボクノ空腹。

(発表誌原題「抒情詩娘」)

 

ポルトガルノ娘サン
オ前ノ肩ハ Stewed Prune ノ匂ガスル
ボクハ日本ヲ忘レマス
ボクノ祖国ハシルク・ハットヲ冠ツテヰル
シルク・ハットヲ踏ミツブサウ

(発表誌原題「CHARLESTONING FOOLS」)

 

  イタリア人ノ安宿
  乞食ノ昇天
昇天シタ乞食ハタキシイドヲ着テヰル昇天シタ乞食ハフルウツポンチヲ喫ベテヰル肉着ヲハズシタ女ガ卓上デ仰反ツテヰル女ノ腿ハ氷蜜柑ヨリツメタイ

  昇天シタ乞食
  乞食ノ昇天
巡捕ガ皺クチヤニナツタ彼ノ体ニノシヲカケテヰル昇天シタ乞食ハタシカニ! タキシイドヲ着テヰル

--ムツソリイニ万歳デセウネ
--左様ムツソリイニ万歳

(詩集初出・再録なし)

 

橋カラノ下リ勾配。黄包車(ワンポツオ)ハ西瓜ノ種ダ。西瓜ノ種ハコムニストデハナイ。

黄浦江ノ靄ハ拳銃ヲ亂射シタ。ソヴイエエト領事館ノ窓ガ無數二散ツテ光ツタ。空色ノ軍艦ガ水兵ヲ吐瀉シタ。陸戦隊。透明ナ哨兵ハ一着ノ黄合羽(エロウスリツカア)デアル。

ボクハ月夜ヲ感ジタ。月夜ヲ。レエニンノ月夜ヲ。寝台(ベツド)ノ中デ。女ハ白系ロシアノ食用薔薇。女ハ機関車ノヤウニオシカカツテ來タ。ボクハ轢死スル。

(発表誌原題「レエニンノ月夜」)