人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

照り焼きチキンステーキ再び

 (鶏肉・1/4ポンド×2切)

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 照り焼きチキンステーキの呪い。何でも呪いにしているような気もするが、毎日新記事を更新する必要上(更新が途絶えるのは危険な状態の兆候だから)チキンステーキで引っ張っても仕方のない事情がある。例えば病院の待合室が今日はやけに混んでいるな、待ち時間が長いぞと思っているとその半数(中には患者一人に付き添い家族二人以上)が受診者当人ではなかったりするのだ。古代ギリシャ語では悲哀を表す詠嘆詞を「ポポイ」「ババイ」(または長音で「ポポーイ」「ババーイ」)と言うそうだが、こういう満席待合室の情景に漂うガッカリ感などはまさに「ポポーイ」と呟くに相応しい。しかも本題になかなか入れないが、照り焼きチキンステーキは本題ではなくて前回途中まで書いて放り投げたビフテキの話が本題なのだった。あれを1ポンドだの2ポンドだの食べるのは肉自体が主食であって、つけ合わせのジャガイモその他の穀類・野菜類は副食にすぎない。主食だから日本人のようにみりん漬けやみそ漬け、ガーリック焼きやバジル焼きにするなどはちょこざいな工夫に過ぎず、せいぜい角切りバターを乗せて塩胡椒だけでいただくのが正式な作法とされる。塩胡椒だけの味つけの肉をひたすら切っては食べ、切っては食べ、合間に茹でジャガイモや茹で野菜で口直しするが切っては食べ続けるのだ。なぜそのような食生活に固執、または耐え得るかというと、彼らは農耕民族ではなく狩猟民族だからということになるだろう。文化の段階で狩猟文化と農耕文化がいかに位置づけられれかは言うまでもない。塩胡椒は味つけというよりは干し肉とならんで保存料のようなものだから、保存料の段階で調理の工夫が止まっている食文化を文化と呼ぶならこれほどプリミティヴなものはないだろう。それに対照的なものには、京料理やフランス料理など作法まで込みの食文化がすぐに思い当たる。こちらはこちらでポポーイな現象で、行き過ぎた進化は洗練よりは頽廃に近い典型的な例でもある。その点ビーフステーキの発祥はシンプルでいい。鶏の野良はいないが野生の牛はかつて欧米諸大陸にうようよいた。畜類の中では知的で気性も従順なので放牧に向き、脚力もあるので大量輸送にも向いている。最初は野生の牛を狩って食べていたが次第に牧畜文化が芽生えた。とはいえ、農耕に較べれば放牧の場合牛と人間などどちらが主で従か大自然から見ればわからないものだろう。それでもほとんど素材と加工の仮定だけが価値になってしまっているような食文化からすれば尊い天然性がある。米が主食の日本の風土なら、牛肉は牛丼で食べるのに尽きる。

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 ビフテキ大食い勝負というのはその点、野蛮極まる宴会をわざわざ楽しんでいるようなものだった。安ワインの一升瓶を頼んで数人で男を賭けた勝負に挑む。いくらなんでも塩胡椒だけではなくレモン汁くらいはあったと思うが、レモン汁くらいで1ポンド食べきる困難に大差はない。われわれは全員が1ポンドステーキを平らげる困難を克服した。ここから11/4ポンド11/2ポンド13/4ポンドと上げて行き、2ポンドステーキ完食まで達成しないといけないのだった。下北沢の小田急線がまだ地上で、安食堂があちこちあった頃、王将の餃子もやたら大粒だった頃の話になる。白樺書院は今もあるが幻遊社もまだ営業していた頃で、現在のように渋谷の副都心みたいな華やかさはなかった頃の話。早い話今50代のじじいがまだ20代だった頃の話で、老人の昔話が面白い訳はない。つまらないのを承知で続けると、1/4ポンド刻みの増量など大したことなさそうだが、米が主食の普通の食生活では肉料理がおかずの時には80グラム~120グラムといったところで、この120グラム1/4ポンドなのだからそもそも1ポンドステーキですらたわけた代物、この安レストランでもメニューは1/4ステーキから始まっている。1/4なら腹八分目だが1/2ポンドステーキですら満腹もいいところ、1ポンドとなると胃の容量もこれまでといった具合。それをさらに1/4ポンドずつ増量するには、安ワインをがぶがぶあおって胃腸を景気づけ、もしくは無理強いしなければ叶うものではない。すでにデカンタは2、3本目をおかわりしている。われわれは仕事仲間だがこうした時に仕事の愚痴などこぼす野暮なやつはいなかった。楽しく宴会している時はひたすら馬鹿馬鹿しく楽しかった。1ポンドステーキは女物のサンダルほどあったが2ポンドステーキは男物のサンダルほどある。大して違わないようでいて1ポンドの壁を乗り越えてからが真の男の勝負の始まりなのだった。