フリッツ・ラングの作品中でもご紹介するのがもっとも面倒なドイツ時代劇映画の金字塔の番が回ってまいりました。紀元5~6世紀に発祥したとされる伝承に基づく作者不詳の大作大長編叙事詩『ニーベルンゲンの歌』は13世紀初頭に成立したと推測され、16世紀初頭まではポピュラーで写本や伝承によって改作や増補されてきたとされますが18世紀中葉に再発見されるまで2世紀半もの間は忘れ去られていました。19世紀になりドイツのロマン主義運動によって文学的な見直しが行われ、特にナポレオンのドイツ侵攻以降の国内ナショナリズムの高まりと浸透によってドイツの国民的古典と広く認められてからはドイツ文学の古典は『ニーベルンゲンの歌』とゲーテの『ファウスト』に尽きるとまで評価されて、ワーグナーのライフワークとなった四部作の大作オペラ『ニーベルンゲンの指輪』1848-1874やストーリーでは原作により忠実なテア・フォン・ハルボウとフリッツ・ラング共同脚本による映画化の二部作が製作されます。第1部、第2部に分ける構成は原作長編叙事詩の内容に即しており、北欧の伝承叙事詩『ヴォルスンガ・サガ』や『エッダ』からの内容も取り入れたワーグナーの『ニーベルンゲンの指輪』より脚色による改変が少ない(ダイジェスト的な内容ではある)映画化が本作で、原作の第1歌~19歌までを『ジークフリート』、第20歌~39歌を『クリムヒルトの復讐』とする通例に従っています。異国情緒と歴史ロマン性が話題を呼びドイツ国内はもとよりアメリカを始めとした諸外国でも歴史スペクタクル大作(一部ファンタジー要素も含む)として第1部・第2部合わせて5時間近い長大さにもかかわらず大ヒット作となり、特にアメリカでは国内作品を上回る話題作となりました。今なお時折鳴り物入りで国際的に公開される映画会社総力上げてのこのジャンルの作品の歴史的な古典的映画といえるもので、何も芸術映画というものでもなくベタベタにヒット作狙いで作られた商業的エンタテインメント映画です。外国人から見た黒澤明の『影武者』や『乱』に近いのではないでしょうか。実際『ニーベルンゲン』には黒澤映画そっくりのシーンが頻出するのです。映像的には1920年代の表現主義様式を多く踏襲したもので、それも当時の観客には圧倒的な映像美として圧倒的な陶酔感をもたらしたものでした。ラングの傑作でありながら作品系列としては異色の本作は、ドイツの映画監督だったこの時代のフリッツ・ラングにしか作れなかった作品とは言うことができるでしょう。
●5月9日(火)
『ニーベルンゲン 第1部・ジークフリード』Die Nibelungen: Siegfried (独デクラ・ビオスコープ'24/Re.2009)*149mins, B/W, Mono Color Tintid, Silent with Music : https://youtu.be/Zi86FXDRc7E
・『蜘蛛』から『一人の女と四人の男』までは細やかな場面染色(Color Tinted)でレストアされていたが、『死滅の谷』『ドクトル・マブゼ』は普通のB/W版レストア、本作は一応染色レストアだが単色(セピア)一色なのが惜しい。屋内屋外、朝昼晩、山森野原水辺と舞台が多彩に切り替わるから場面ごとに異なる染色がされていたらもっと映像が引き立ったと思うが、マスター状態が『マブゼ』にも増して良好なので細工をしなかったのだろう。セピア単色染色でもそれなりに効果は出ている。さてこの2009年レストア版はそれまでの第1部110分・第2部90分をほぼ初公開時の長さに修復したヴァージョンだが、第1部・第2部とも40分ずつ長くなったのは欠落部分を補ったのもあるが研究結果から再生速度を1秒20コマ(fps)に改訂したからで、サイレント映画は1926年以降24fpsが定着しトーキーに引き継がれるまで16fps~24fps、極端には12fps~40fpsまでさまざまなコマ数で製作されていた。正しくは20fpsの作品をサイレント後期やトーキーでは標準の24fpsで上映すると速度は1.2倍になり、上映時間は85%未満に圧縮されてしまう。1925年までのサイレント作品を18fps~20fps(1926年以降でも20fpsの作品はあるが)が標準としてレストア作業がされるようになったのは'80年代後半からで、それでも20世紀のうちはまだ一律24fpsでビデオソフト化されることが多かった。ドイツ国内公開1924年、世界公開1925年でロングラン・ヒットになった本作は20fpsか24fpsかの過渡期の作品だったのが混乱を招いたというわけで、前置きが長くなったが30年前に上映会で観た『ニーベルンゲン』はたぶん24fps上映だったはずだから今回輸入盤ブルーレイで初めて正しい速度と鮮明な画面で観ることができたことになる。あらすじはウィキペディアの叙事詩『ニーベルンゲンの歌』の通りで細部を省略してあるすっきりした脚本だが、岩波文庫で出ている原作の翻訳を見るとラング作品おなじみの倒置話法で原作の冒頭部分(王女クリームヒルトの登場)は後回しにしてネーデルランド王家の王子ジークフリード青年が山で刀鍛冶をしている場面から始まる。ジークフリード役は『マブゼ』でギャンブル好きの御曹司をやっていたパウル・リヒターで修行中の王子というよりターザンみたいな風情だが、鍛冶のじいさんに「教えることはもうないよ」と言われ卒業制作のサーベルを下げて山を下りる。ジークフリードはブルグント国のグンター王の妹クリームヒルト姫の噂を聞いて求婚すると決めていたのだ(神話なので突っ込まないように)。ところが鍛冶の師匠で山の長老から教えられた道はでたらめでドラゴンの住む森に迷い込んでしまい、池で水を飲むドラゴン(実物大の動く模型)と戦って討ちとる。手についたドラゴンの血を舐めると小鳥の鳴き声が言葉に聞こえるようになり「ドラゴンの血を浴びると不死身になるよ」と小鳥に教えられ池に注ぐ血を全身に浴びるが背中の左の肩甲骨の脇に偶然落ち葉が貼りつく(後の伏線)。さらにジークフリードは小人族に襲われるが一蹴、命乞いをした小人族は全身透明になれる頭巾とニーベルンゲン古来の財宝をジークフリードに捧げる。一方ブルグント国のグンター王はアイスランドのブリュンヒルデ姫に求婚していたがこの姫は自分より強い相手の求婚しか受け入れないと宣言、そのための決闘で何人もの求婚者を殺しているという強者。ドラゴン退治で知れ渡ったジークフリードは自慢のサーベルとニーベルンゲンの財宝と祖国から呼びよせた兵卒たちを従えてグンター王に迎えられ、クリームヒルト姫とは初対面の一瞬で相思相愛(神話だから)、ジークフリードから不死身の能力を聞いたグンター王は求婚のための決闘の手助けをクリームヒルト姫との結婚の条件にする。すなわち巨石投げ、槍投げ、剣術の3競技をグンター王の背後から透明頭巾をかぶったジークフリードがぜんぶ代わりにやってのけて高慢なブリュンヒルデ姫を屈服させる。でもってグンター王の婚礼とジークフリードの婚礼が一緒に行われるのだが、初夜でも抵抗するブリュンヒルデ妃をぶちのめすにもジークフリードの助けを借りる始末。やがてそろそろ祖国に帰らねば、というジークフリードへのやっかみとニーベルンゲンの財宝をめぐって雰囲気が悪くなり、ブリュンヒルデ妃にジークフリードの悪口を言われたクリームヒルト妃は売り言葉に買い言葉でこれまでの経緯をしゃべってしまう。激昂したブリュンヒルデ妃は怒りをグンター王にぶつけ、宰相ハーゲンは心配を装ってクリームヒルト妃からジークフリードの背中の弱点を聞き出し狩猟祭の最中に投槍してジークフリードを暗殺、ニーベルンゲンの宝を湖の湖底深く隠匿する。ハーゲンの仕業と悟った未亡人クリームヒルトはジークフリードの遺体の前で復讐を誓い、遺体の傍らにはブリュンヒルデ妃が自害して果てていた。という場面で第1部はおわる。荒唐無稽な話だが『古事記』を映画化したようなもので『ニーベルンゲンの歌』の忠実なダイジェストだから仕方ない。紀元5~6世紀の小国の寄り集まりだったドイツでキリスト教は伝来していない。ジークフリード絡みのエピソードはどれもファンタジー色が強く、クリームヒルト役のマルガレーテ・シェーンは端正でいかにもドイツ人女性らしい中性的な美女で絵になるし、また衣装やセットがゴシックとバロックとアール・デコと表現主義のごたまぜで歴史考証的には無茶苦茶だがくらくらするほど凝っている。ジークフリードのアホ演技がターザンみたいなのは先に触れたが、これはいちばん極端なキャラクターとはいえ登場人物誰もが見事なくらい内面がない。見世物映画に徹しているとともに『ニーベルンゲン』のような題材ではこのアプローチは的を射ていて、これは人と神の区別がなかった古代の神話だと思えば的確な描き方だろう。こういう映画ばかりでは困るが『ジークフリード』の2時間29分は息もつかせない見世物で、特に天然きわまりないジークフリードの存在が企まざる牧歌的ユーモアになっていて楽しい。それだけに復讐を誓った未亡人クリームヒルトを含めて腹黒い人物ばかりが残った結末には、第2部への不吉な予感が漂うのが薄気味悪い。
●5月10日(水)
『ニーベルンゲン 第2部・クリームヒルトの復讐』Die Nibelungen: Kriemhilds Rache (独デクラ・ビオスコープ'24/Re.2009)*130mins, B/W, Mono Color Tintid, Silent with Music : https://youtu.be/Ss-xNGS0w6M
・『ハラキリ』には「日本の女の美徳は見ざる聞かざる言わざるです」という名台詞(笑)があったが『第2部・クリームヒルトの復讐』は未亡人クリームヒルトを妻に迎えたフン族のアッティラ王が「なぜ彼らは殺戮を止めないのだ」と嘆くと部下の武将が「陛下はドイツ精神をご存知ないのです」と諭すすごい会話が出てくる。『ニーベルンゲン第2部・クリームヒルトの復讐』は『ドクトル・マブゼ』でマブゼ博士を演じたルドルフ・クラウス=ロッゲ扮するフン族王アッティラが武将ルディガー伯を遣わして未亡人クリームヒルトに求婚するのが発端になっている。クリームヒルトはアッティラ王の求婚を受け入れフン族の女王となるが、ジークフリードへの愛とその復讐に立てた誓いは変わらない。やがてアッティラ王との間に息子を授かったクリームヒルトは王に懇願してブルグント国の兄王グンターを王城に招くが、兄王はジークフリードを殺害した宰相ハーゲンなしには何もできない無能な王だからハーゲンも随行してくるし兄王自身もハーゲンのジークフリード殺害を許可したのをクリームヒルトは知っている。新生児が立って歩けるくらい成長した頃ようやくグンター王の一行がフン族の王城にやってくる。アッティラ王はブルグント国との友好を望むがクリームヒルトの命令でフン族の軍勢がブルグント軍を襲う。ハーゲンはアッティラ王の幼い王子を殺害、さらに戦闘に不慣れなフン族軍を圧倒してブルグント軍はフン族王城に立てこもり、膠着した戦況についにアッティラ王はクリームヒルト妃の示唆で王城を焼き払ってブルグント軍は壊滅、宰相ハーゲンとグンター王だけが脱出するがジークフリードから奪ったニーベルンゲンの財宝の引き渡しを要求してもハーゲンは「グンター王の在位のうちは渡してなるものか」と応じない。クリームヒルトは兄王を殺すがそれでもハーゲンは口を割らず、クリームヒルトはジークフリードの墓の土を撒くとハーゲンがジークフリードから奪って使用していたサーベルでハーゲンを一刀両断に斬り殺すがその瞬間生き残っていたブルグント軍の兵士に背後から矢で射抜かれて絶命、アッティラ王は遺骸を抱いて天に嘆く。以上で第2部完だが第1部より20分短いとはいえ内容は復讐一直線なので筋書きは単純、クリームヒルトは再婚して再婚先の国王を利用して復讐を果たす、という内容でしかない。日本では第1部と第2部をまとめて一本に再編集・公開された『マブゼ』と違って本邦でも第1部・第2部が独立して公開されたのは、悲劇で終わるが基本は英雄譚の第1部と、第1部の主人公亡き後の未亡人の復讐劇の第2部がまったく異なったトーンの映画だからだろう。プロットは単純、ストーリーなどあって無きがごとしの第2部の見所はとにかく延々長く壮大な戦闘シーンに尽きる。多少なりとも人間らしいのはアッティラ王や武将ルディガーくらいのもので、フン族の方がよっぽどまともな喜怒哀楽があるのだ。先に触れたやりとりも簡単に意訳すればアッティラ王「何でドイツ人はああなんだ」武将ルディガー「だってドイツ人ですから」ということに尽きる。これが皮肉でも自嘲でもないからドイツ人は怖い。王城大炎上シーンはグリフィス『イントレランス』や黒澤明『乱』を思わせるが大予算映画のはずなのに兵士のエキストラが少ないのは紀元5~6世紀の人口ならば奴隷制度の発達した農耕文化圏ではなかった国土の貧しいドイツの小国の軍隊ではあんなものだろう。第1部と第2部のギャップは原作に忠実だからでもあって、もともと別の系統の伝承が前半・後半に結びつけられて『ニーベルンゲンの歌』になったらしい。ドラマ性に富んだ第1部に較べて第2部は舞台劇を撮影したような寒々しさと硬さがあるが、内容が内容なだけに違和感はないしかえって効果をあげているとも感じられる。たぶん、ほぼ確実に同時代にはスペクタクル時代劇エンタテインメント巨編として喧伝されヒットしたものが時代を経るとアート作品になった一例。前作『マブゼ』から2年を費やして製作しただけある力作だが、次作の製作はドイツ最大手のウーファ社に招かれこれまでにない3年の製作期間をかける。監督デビューの1919年に『混血児』『愛のあるじ』『蜘蛛・第1部』『ハラキリ』と4本も撮っていた頃から5年でここまで出世したのだから水商売はこわい。そして3年かけた次作こそはあの『メトロポリス』なのだった。
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