『ハラキリ』Harakiri (監=フリッツ・ラング、Decla-Film'19.12.18)*87mins, B/W, Silent; 日本公開平成26年(2014年)8月2日 : https://youtu.be/EMaBzb243t8
[ 解説 ] サイレントからトーキー初期に至るドイツ映画を代表する監督フリッツ・ラングの初期作品。オペラ『蝶々夫人』を翻案し、長崎を舞台に当時の東洋感を読み取れる作品。日本劇場未公開だったが、2014年8月2日、シネマヴェーラ渋谷にて上映された。監督; フリッツ・ラング、脚本; デイヴィッド・ベラスコ、原作; マックス・ユング、製作; エリッヒ・ポマー、撮影; マックス・ファッスベンデル/カール・ホフマン、出演; パウル・ビーンスフェルト/リル・ダゴファー/ゲオルク・ヨーン/マインハルト・マウル/ルドルフ・レッティンゲル
[ あらすじ ] 長崎を舞台に、美しい大名の娘・おたけさんの波乱万丈の人生を描く。
――本作も'80年代にオランダでプリントが発見されるまで散佚作品とされていました。現行ヴァージョンは'87年の修復版です。あらすじを追うと、西洋視察から帰国した父のダイミョー・トクヤワ(パウル・ビーンスフェルト)が令嬢オタケサン(リル・ダゴファー)に西洋の文物を贈ります。テディベアとか反物とか他愛のないものですが、それをプリースト(ゲオルク・ヨーン)がエンペラーに密告し、トクヤワはエンペラーの勅令でハラキリをして自害します。オタケサンは茶屋経営者のアラキ(エルナー・ヒプシュ)にプリーストの手下カラン(ルドルフ・レッティンゲル)の斡旋で侍女ハナケ(ケーテ・キュスター)ともどもゲイシャとして売られますが、日本駐在中のヨーロッパ某国の海軍青年将校オラフ(ネルス・プレン)と恋に落ち、水揚げ金で999日間だけゲイシャの身を解かれます。しかし青年将校は祖国に呼び戻されてしまい、元々の婚約者(ヘルタ・ヘデーン)と結婚します。オタケサンは将校との間に生まれた息子(ローネ・ニスト)を育てながらオラフの帰国を待ち、オタケサンを恋するワカトノ・マタハリ(マインハルト・マウル)が再婚を申し込んでも応じません。999日の期限もあとわずかの頃にようやく将校は新妻と再び日本に来ます。それを知ったワカトノ・マタハリは再びオタケサンに再婚を申し込みますオタケサンは将校の結婚を信じません。事情を打ち明けられた新妻はオタケサンを訪ねて事実を告げ、もうじきゲイシャに戻らねばならないオタケサンは絶望します。新妻は将校と相談し、子供を引き取りましょうと戻りますが、訪ねてきた夫妻に子供を託した隙にオタケサンはハラキリをして果てます。これもすごい話で、サディストの日本人美青年商社マン(早川雪洲)が放蕩家の有閑マダムに金を貸した代価に焼き印を捺し脅迫するデミルの『チート』'15がサイレント時代の国辱映画として名高いですが、同じ荒唐無稽な話でもロサンゼルスの日本人にはまだしも人種混交社会のリアリティがありました。『ハラキリ』の日本はセットはなかなか立派です日本に見えるかというと数世紀前の中国とインドとロシアが混ざったような異様な景観で、考証も女性の着物が左前なのを筆頭に甘く、キャストも全員ドイツ映画俳優が演じていることもあり、オタケサン役のリル・ダゴファーは'20年代前半のデクラ社のスター女優ですがどう見ても日本人女性には見えません。映画的虚構だからと寛容に見ても(そもそも女性まで切腹する設定も変ですが)、いったいこれはいつの時代の日本でしょうか。怪僧(プリースト)などまるでラスプーチンのようなイメージですし、エンペラーの勅命で即自害とは徳川時代をイメージしたとしたら、とっくに西洋と交易のある日本ということになっているし、要するに漠然とヨーロッパ人の思い浮かべる日本のイメージから作り上げた架空の異国なので、ダイミョーとかワカトノとはヨーロッパ人の考える貴族の概念を日本語に当てはめただけでしょう。その割にはダイミョー令嬢オタケサンが怪僧の一存で茶屋にゲイシャに出される、よくわからない身分構造になっているのですが、森鴎外がドイツ留学して35年あまり経った1919年でも大衆向けの日本のイメージはこんなものだった、と納得して見れば面白い作品です。散佚した初期2作『混血児』『愛のあるじ』の悲劇メロドラマ作風の想像もつきます。『蜘蛛』になくて『ハラキリ』にあるのは屋内セットの左右対称の構図で、日本間だから左右対称が決まりやすいというのもありますが、ラングの作風が確立した『死滅の谷』以降の作品には左右対称の構図が緊張感を高める局面で符丁のように出てきます。珍品の怪作には違いありませんが実物を観て初めてホッとするスリリングな1作でしょう。ちなみにダイミョー・トクヤワの切腹は字幕タイトルだけで、オタケサンのハラキリも短刀をかざしたカットに外交官夫妻が駆けつけると倒れている、という具合に直接は描かれません。ラングにはサイレント後期の大作『スピオーネ』'28にも日本人外交官のハラキリ場面(こちらはかなり具体的な切腹が描かれます)が出てくるので(もう昭和3年なのに)、観較べる面白さもあります。
●11月5日(月)
『蜘蛛 第2部:ダイヤの船』Die Spinnen:Der Brillantenschiff(監=フリッツ・ラング、Decla-Film'20.2.6)*104mins, B/W, Silent; 日本未公開 : https://youtu.be/N6ElNhMd2bA
本作で新たに登場するのはサンフランシスコで蜘蛛団と抗争したり協定したりとややこしいチャイニーズ・マフィアのボス(マインハルト・マウル)、映画経過30分後ようやく現れてケイ・ホーグへの依頼主になるダイヤ王テリー(ルドルフ・レッティンガー)、蜘蛛団とチャイニーズ・マフィアに誘拐されてしまう令嬢エレン(テア・ツァンダー)、インドからフォークランド諸島に送られて隠された秘仏「ダイヤの船」の秘密を握るヨガ行者アル・ハブ・マー(フリードリヒ・キューネ)、という具合ですが、陰謀大好きラングの映画の特徴が『黄金の湖』以上に表れて、サンフランシスコの深夜の集団高層ビル強盗から始まる本作はとにかく登場人物と場面転換が多いのです。蜘蛛団とチャイニーズ・マフィアの抗争がダイヤ王テリーの依頼とテルファス博士の示唆によるケイ・ホーグの秘宝「ダイヤの船」捜索に絡まってくる手順もあちこち枝葉が多く、欲張りすぎて観客(視聴者)が置き去りにされるほど映像の情報量が多いのですが、それが面白さと豊さになってはおらず無闇に錯綜して整理のつかないまま映画の進行とともに疲労感ばかりがつのり、しかも今回は1時間44分の長丁場で第1部より35分長い、1.5倍もあります。『黄金の湖』はインカ帝国の古代神殿の巨大セットを舞台に映像も適度に開放感のあるものでしたが、『ダイヤの船』の仏像探しは地下の洞穴で狭苦しいものです。蜘蛛団の男装の女ボス、リオ・シャは前作に続いて出てくるが前作の巫女ナエラに相当するヒロインはいないし、誘拐されて人質に捕られるダイヤ王テリーの令嬢エレンがヒロインになるかというともともとホーグとのロマンスもない上に、悪党全滅のあとでオマケのようにエレン救出劇がつけ足されているだけなので映画の体裁のためだけに出てくるような役割です。悪党集団は見分けのつかないほどこれでもかと出てきますが同じような活劇シーンがくり返されるばかりと、第1部から良い所を引いて悪い所ばかりを増幅させたような具合で、褒めるとしたらレストア修復映像の画質と美しいシーン染色しかなく、4部作が予定されていたシリーズなのに洞窟内の毒ガス噴出に巻かれてリオ・シャも落命してしまいます。本作のヒット次第では遺体は替え玉とか実は双子の妹がとか続けようもあったでしょうし、第3部・第4部はまた別の前後編にする構想だったかもしれませんが、本作公開から3週間後に公開された『カリガリ博士』の大ヒットからドイツ映画の流行は変化して『蜘蛛』のような冒険活劇は時流遅れになります。よって次作は『蜘蛛』とも『ハラキリ』からも予想もつかないような作品になりました。第1部はなかなかテンポ良く面白く観られましたが、第2部はケイ・ホーグやリオ・シャのキャラクター造型など第1部で済ませたからといわんばかりに性格描写がおざなりで前作の観客以外にはきつく、日本劇場公開が見送られたのも仕方ないという気がします。
●11月6日(火)
『カリガリ博士』Das Cabinet des Dr. Caligari (監=ロベルト・ヴィーネ、Decla-Bioscop'20.2.26)*74min, B/W, Silent; 日本公開大正10年(1921年)5月13日(67分版) : https://youtu.be/BGdUG7TgCxA
[ 解説 ] 欧州大戦後、ドイツ映画復興の第一声をあげた作品で、奇怪なカリガリ博士が眠り男チェザーレを操る殺人事件の数々は、精神病患者の妄想であった。という表現派映画の第一作。無声。
[ あらすじ ] 二百年前北イタリアで、カリガリ(ヴェルナー・クラウス)という医者がチェザーレ(コンラート・ファイト)という夢遊病者を使用して意のままに殺人を犯さしめた。という記録によって心狂える令嬢ジェーン(リル・ダゴファー)と一青年フランシス(フリードリッヒ・フェーエル)との妄想を描いたもの。
――これを枠物語にして映画で描かれる一連の怪事件は「精神病患者の妄想」に組み立て直したのが企画段階で監督予定だったフリッツ・ラングなので、脚本家のマイヤーとヤノヴィッツのオリジナル脚本は真犯人カリガリ博士の処刑で終わるプロットで、マイヤー側の言い分では映画会社側の改変によって社会的メッセージが薄められたと不服があり、ラングは改変はデクラ=ビオスコープ社ではなく自分の監督判断による改稿であり、オリジナル脚本は社会悪糾弾のメッセージ色の強い拙い脚本で使いものにならなかった、と発言しています。ラングの言い分はもっともなのでカリガリ博士に社会悪を体現させても勧善懲悪映画ではつまらず、何のための異様なセット美術やメイク、衣装、照明・撮影か効果が薄れてくる。本作の日本公開の際にすでに前年に『アマチュア倶楽部』'20で映画製作に関わっていた谷崎潤一郎は『カリガリ博士』の美術面の成功を認めながら、異様な美術に応じて俳優の演技はもっと作為的であるべきではないか、と難を洩らしていますが、谷崎より若い世代の佐藤春夫や大正の芸術・文学青年には『カリガリ博士』は映画も芸術足り得る実例と熱烈に迎えられたので、それも企画段階でのラング改稿の脚本とスタッフ招集でほぼ作品は決まった部分が大きいでしょう。谷崎が指摘する俳優の演技も想定したのは能や歌舞伎のような演技の徹底的な様式的非現実性だったと思われ、そういうものではない非現実的演技ならば実際にはシーンごとの演じ分けは行われているので、これはクラウスやファイトが優秀な俳優であるとともにヴィーネの演出も本作品には一貫性があるのを示します。ただし作品の限界や荒唐無稽さは、本作を成功させたのと同じ枠物語と異様な題材、異様な美術にもあるので、この枠物語の枠の中なら何でも放りこめる都合の好さがあって、早い話現代アニメの異世界ファンタジー設定と同じレベルの安直さに陥りやすい。『死滅の谷』や『朝から夜中まで』、『最後の人』や『裏町の怪老窟』らドイツ表現主義映画は枠だけあって中味はないぎりぎりの線で勝負をかけることになったので、『カリガリ博士』は今では中学生の投稿小説並みの陳腐さでしかない内容の映画でもあります。今ではどころか当時でもすぐにそうなったので、大正時代の日本ですら『カリガリ博士』を真似たような大衆小説や同人誌小説がすぐに現れることになります。ドイツ映画はパプストやデュポンらリアリズム意識を持った監督が力作を発表し始めるまで『カリガリ博士』ブランドの猟期映画が有力な輸出品目になるので、ルビッチは表現主義には乗らずアメリカに招かれてそのままハリウッド映画の大家になってしまいますし、ラングも『死滅の谷』で表現主義に決着をつけた後は独自の大作主義に向かいます。ムルナウやパウル・レニら才能ある監督も表現主義時代が終わるとハリウッドに渡りますし、『カリガリ博士』=ドイツ表現主義映画のすべてではありませんが、映画史に限らず芸術・芸能の歴史にはそれ自体は必ずしも重みはなくても、何かの大きな展開点を担う役割を負って登場する作品があることがままある。そういう作品は作品価値というより一種の事件や発明なので、映画自体の根本的価値に安っぽさがあっても低予算映画の発明の一点だけ取っても本作の映画史的意義は絶大です。またその意味では本作は意図せず最初に映画にキッチュな価値を持ちこんだ作品です。さすが敗戦国ドイツ=オーストリア=ハンガリー帝国の頽廃文化の産物だけあるではありませんか。