フリッツ・ラングはドイツ時代のサイレント作品から手当たり次第に多彩なジャンルの映画を作っていた監督でした。散佚作品のデビュー作『混血児』'19と第2作『愛のあるじ』'19は資料では『ハラキリ』'19(日本が舞台)や『彷徨える影』'20(雪山が舞台)、『一人の女と四人の男』'21(社交界が舞台)のように設定を凝らしたメロドラマとされていますし、最初のヒット作は第3作の秘宝探索冒険映画『蜘蛛/第1部・黄金の湖』'19(『第2部・ダイヤの船』'20)で、初めて国際的な成功をおさめたのは死別した若夫婦が時空を越えた死神の試練を受けて再び結ばれるまでを描く『死滅の谷』'21でした。以降は犯罪映画『ドクトル・マブゼ』'21/22、神話ドラマ『ニーベルンゲン/第1部・ジークフリート』'24と『第2部・クリームヒルトの復讐』'24、近未来SF『メトロポリス』'27、スパイ映画『スピオーネ』'28、宇宙SF『月世界の女』'29と、デビューから10年間のサイレント時代だけでも題材はともかく広く、その割には何を撮っても映画から受ける印象はあまり変わらないラング作品の癖はこの時期にすでに顕著に現れています。1920年代のワンマン大作映画監督でもラングはほぼ同年輩のエーリッヒ・フォン・シュトロハイム、アベル・ガンス、マルセル・レルビエらと並ぶアーティスティックな姿勢が評価されますし、シュトロハイムらの3時間以上の大作が3~4作にとどまったのに対してラングは『蜘蛛(第1部・第2部)』を始めとして『ドクトル・マブゼ』から『月世界の女』までの'20年代作品をすべて大作に仕上げており、後のトーキー作品28本も併せるとサイレントとトーキーをまたぐ映画監督としては最大の業績を上げた人ですが(トーキーの到来でシュトロハイムは監督を降板して俳優となり、ガンスやレルビエはサイレント時代のような野心作の企画・製作ががかなわなくなります)、シュトロハイムやガンスら、またフリードリッヒ・W・ムルナウやセルゲイ・M・エイゼンシュテインらのサイレント作品の代表作と比較するとラングの映画はどこか物足りなさを感じさせずにはおらず、良くも悪しくも技巧に傾いて感情を喚起しないドライさがうかがえます。早い話ラングは映像と物語には凝っても人間を描くことには興味がないので、それがラングの映画を一定以上の古さに陥らせないと同時に見事な見世物に留まらせているとも言え、これはラングの『死滅の谷』を観て映画監督を目指したというルイス・ブニュエル、デビュー長編に『メトロポリス』の映写場面を挿入したジャック・リヴェットが70代になっても怒りに満ちた映画を作っていたのに較べて単に対照的とは言えず、ラングの映画はラングの意図がすんなり汲み取れないものが多いのです。その傾向は監督の裁量に自由の余地が大きく与えられたドイツ時代よりもプロダクション・システムの分業化が進んだハリウッド時代の作品に強く、今回ご紹介する3作品などとても同じ監督が連続して撮ったとは思えないほど題材に統一性がありません。ラングの映画には本心がない、ということはないでしょうが、本心の見えづらい映画を作る監督だったとは言えると思います。
●5月31日(水)
『アメリカン・ゲリラ・イン・フィリピン/アイ・シャル・リターン』American Guerrilla in the Philippines (released as I Shall Return in the UK) (米20世紀フォックス'50)*105mins, B/W
・ラング最後の戦争映画は終戦後5年も経って日本軍占領下のフィリピンのレイテ島抗日戦をゲリラ指揮したアメリカ軍人が1945年に刊行した戦記を映画化したもの。イギリス公開題の『I Shall Return』は一旦日本軍の優勢から退き、フィリピン人による抗日戦中に戻ってきたマッカーサー将軍の代名詞になった声明で、この映画のクライマックスもマッカーサー率いる援軍の到着で大団円になっている。タイロン・パワーの主演するフォックス映画だから原作刊行直後にヘンリー・キングの監督で製作される予定だったのがラングに回ってきた企画で、ハリウッドのスタジオ撮影とフィリピンのロケ撮影があるから第2班監督までいる。アメリカ時代のラング作品中予算は最大の作品かもしれずロケの開放感と『西部魂』'41以来のカラー作品で普通にドキュメンタリー風戦争映画として観られるが、戦後5年も経って太平洋戦争の抗日戦線を描く意義がはっきりせず(新たに朝鮮戦争に介入する国策の正当化だったかもしれないが)監督がラングでなければ戦争映画マニアにしかアピールしない作品。で、監督をラングだと意識して観ると本作はことのほか無愛想さが目立つ。これまでの戦争もの『マン・ハント』『死刑執行人もまた死す』『恐怖省』『外套と短剣』はどれも佳作以上の出来だったが本作は疑似ドキュメンタリー以上の出来を求めていない。キングの監督だったら戦況を巧みに群像劇に描いただろうがラングの苦手がこの群像劇で、主要人物以外はザコでしかないのは『ドクトル・マブゼ』『ニーベルンゲン』の昔から変わらない。小品佳作のフィルム・ノワール『ハウス・バイ・ザ・リヴァー』(思い出したら同作は『彷徨える影』に似た人物配置なのに気づいた)の次がこの大作で、しかも演出の匿名性が高いのはやる気があったのかなかったのか、いずれにせよラングのハリウッド映画中もっとも顧みられない作品。しかし年代順に『外套と短剣』『扉の蔭の秘密』『ハウス・バイ~』と来て本作を観ると普通の戦争映画ぶりとフィリピン風景をかえって気楽に楽しめる。こういう死屍累々の戦争映画を「気楽に」とは不謹慎ではあるのだが、大したことない映画なのがラングの場合は珍しいので、箸休めみたいに楽に観ていられもする。
●6月1日(木)
『無頼の谷』Rancho Notorious (米RKO'52)*89mins, Technicolor
・これもラング最後の西部劇になる(とはいえ『地獄への逆襲』『西部魂』と本作の3本だけだが)。ゴダールの『軽蔑』でフリッツ・ラング(本人役出演)に紹介されたブリジッド・バルドーが「マレーネ・デートリッヒの西部劇は面白かったわ」と言うのは本作のことで、元酒場の歌姫デートリッヒは西部の僻地チャカラックでならず者をかくまう代償に分け前を取り、滞在中はカウボーイとして働かせる「お尋ね者牧場」"Rancho Notorious"をやっている。主人公(アーサー・ケネディ)は雑貨店で働く婚約者が強盗に暴行殺害された手がかりを追ううちにデートリッヒの牧場にたどり着き、その愛人でお尋ね者たちを仕切るNo.1ガンマン(メル・ファーラー)の信頼を得るうちにデートリッヒをめぐる三角関係になり、やがてデートリッヒがお尋ね者の一人からプレゼントされたブローチ(主人公が婚約者に贈ったもの)から犯人が判明して激しい銃撃戦の中、デートリッヒは愛人ガンマンの盾になって絶命する。原案が『扉の蔭の秘密』と同じラングの愛人シルヴィア・リチャーズなのだが今回はなかなかのアイディアを出してきた。デートリッヒはどんな映画に出てもデートリッヒなのだが、おそらく確実にデートリッヒ主演という企画先にありきのシナリオだから珍しくキャラクターが生きている。生きているとは言ってもラングの映画はキャラクターが自律的に運命を切り開いていくのではなく先に運命ありきなので、それがうまくはまると成功作になり外すと散漫な出来にしかならない。人物が奔放に躍動するルビッチやルノワール、ホークスの映画とは対照的だからむしろ反ヌーヴェル・ヴァーグ的なのだが、ラングの成功作は宿命過剰なドラマ性に爆発力があってその点でも西部劇との相性は良く、本作も一触即発の豪快さがある。二流メジャーのRKO作品らしい低予算がにじむセットもこの映画の作り物っぽさにはよくなじんでおり、ケネディとファーラーのガンマンぶりも好演。こんな西部あるかよというくらいリアリティはないが、虚構に徹して成功したラングらしい西部劇の名作で、ディートリッヒ主演西部劇ではジョージ・マーシャル『砂塵』'39と並ぶ。30歳の世界的大ブレイク作『嘆きの天使』『モロッコ』'30から20年経っても容貌が変わらないディートリッヒがすごい。他の女優に代えがきかない点では唯一無二の存在感を満喫できる。
●6月2日(金)
『熱い夜の疼き』Clash by Night (米RKO'52)*105mins, B/W
・成功を夢見て都会へ出ていたヒロイン(バーバラ・スタンウィック)が弟の住む田舎町(漁港)の実家に帰ってくる。ヒロインは結局老実業家の愛人になり、実業家と死別した後都会生活を諦めてきたのだった。弟とその婚約者(マリリン・モンロー)が勤める缶詰工場の真面目一徹な漁師(ポール・ダグラス)のプロポーズにヒロインは平凡な結婚をするが、娘の産後から夫が疎ましくなり、それまで反発していた夫の親友の粗野でシニカルな映写技師(ロバート・ライアン)と出来てしまう。ヒロインは映写技師と駆け落ちするか夫と娘のもとにとどまるか迫られるが……。と、邦題も的外れではないラング初にして唯一の日常的リアリズムの不倫メロドラマが本作で、原作はクリフォード・オデッツの同名戯曲。オデッツはエリア・カザンやテネシー・ウィリアムズの先輩格のニューヨークの劇作家で、本作はラング版『欲望という名の電車』'51と言えば手っ取り早い。打ち寄せる波のタイトル・バックから本編最初のカットが寝起きのマリリン・モンローで、モンローの主演ブレイクは翌'53年だが配役もスタンウィック、ライアン、ダグラスに続く4番目で出演場面は多くないがカジュアルな演技で印象に残り、モンローに限らずどの俳優も演技に誇張がない。1940年のヒット曲「I Hear A Rhapsody」(トミー・ドーシー楽団)を本作のためにトニー・マーティンがカヴァーし中ヒットになったらしく、スタンダード化したのは本作以降だから(コルトレーン、マクリーン、エヴァンスら無数のヴァージョンがある)映画からスタンダード曲を出したのはラング作品でも本作きりになる(さすがに『無頼の谷』のオリジナル主題歌「チャカラックの歌」はヒット曲にはならなかった)。次作『青いガーディニア』でも主題歌作戦が踏襲されるが使われ方はだいぶ違い次作では物語の鍵を握る役割だが、本作の「I Hear A Rhapsody」はヒロインと愛人ライアンの日常生活への不満を封じ込めたムード音楽として自然に溶けこんでいる。『欲望という名の~』に即せば出戻りのスタンウィックはヴィヴィアン・リー、粗野でシニカルなライアンはマーロン・ブランドの役所だが作中での生き方は裏返しで、どちらに転んでも望み通りの幸福は訪れない本作の夫と妻とその愛人の方が日常的な分悲劇性が強いとも言える。こういう身につまされる等身大のメロドラマ、しかも成年男女の機敏に触れたすこぶる出来のいい苦味の効いたやつを荒唐無稽映画の巨匠が出してくるのは反則すれすれだが、一時の心境の変化というか、『欲望という名の電車』くらいの映画ならやろうと思えば作れるんだぞと本当にエリア・カザンへのラングからの回答だったのかどうか、たまには現代的なリアリズム演出をしてみたくなったか、スタンウィック、ライアン、ダグラスいずれも本作でアカデミー賞くらい穫ってもおかしくない名演を見せる。映画としても華より渋みが光るが映像の密度では舞台くさい『欲望という名の電車』より上だろう。物語は各段に本作の方が深い。しかし後にも先にもこういう作品は本作きりなのも考えが読めないラングらしい所で、唯一のフランス作品でやはり他に同じタイプの作品のない名作『リリオム』'34と似た位置にあるかもしれない。あえてラングの意図を探れば、バーバラ・スタンウィックといえばビリー・ワイルダーのJ・M・ケイン原作のフィルム・ノワール『深夜の告白』'44で夫殺しを愛人と実行する不倫妻役が代表作で、同作はエドガー・G・ロビンソンも保険会社の探偵役で準主役級の名演を見せていた。ラングのロビンソン二部作『飾窓の女』『緋色の街/スカーレット・ストリート』は'44年、'45年の作品でワイルダーもラング同様ドイツからの亡命監督なのを置いてもラングが『深夜の告白』を意識しなかった訳はない。事実本作はアメリカ本国ではフィルム・ノワール作品に分類されている。当時フィルム・ノワール作品が人気を集めたのはそれがアメリカ大衆の夢の陰画だったからで、『深夜の告白』や『飾窓の女』の観客は戦時下にあって平凡な日常生活を陰惨な情痴犯罪映画でまぎらわせている、まさに本作のスタンウィックとライアンのような普通の市民だった。ライアンの役が映画館の上映技師なのも示唆的な設定で、観客は例によって夫殺しの話かと思うがそうではなく、観客の成年男女と変わらない世界の男女を描いた映画なのがじわじわと効いてくる。この映画は現実逃避的な娯楽映画を期待する観客に正面から鏡をつきつける。その点では本作はフィルム・ノワール作品に対する一種のメタ映画といえるもので、これも『欲望という名の電車』にはまったくなかった要素になる。原作戯曲やキャスティングはRKO社側からの指定による依頼作品としてもラングが直観的に本作の方向性を見抜いていたのは間違いなく、ラングの映画は生え抜きのアメリカ映画監督作品より生活習俗の描写が細かいが本作と次作『青いガーディニア』はそのピークとなる作品で、日常性をそのままサスペンスとすることに成功している(『青いガーディニア』は殺人事件ものだが)。ラングらしくない作品と指摘されがちで一見その通りだが、渡米第1作『激怒』'36から重ねてきたラングのアメリカ市民研究の成果とすれば犯罪映画も西部劇も戦争映画も撮った挙げ句の境地と腑に落ちる。しかし『アイ・シャル・リターン』『無頼の谷』『熱い夜の疼き』が同じ監督の作品というのも(しかも連続して)スケールが大きいのか何でも屋なのか訳がわからなくても無理はなく、当時はドイツ時代から一転してハリウッドの職人監督になったと見なされていたのも仕方ない。ラングのちょっとズレた感覚は同時代には見過ごされていて、このズレが『激怒』からハリウッドでの最終作『条理ある疑いの彼方に』'56まで20年もの間続いたのがハリウッド黄金時代とぴったり一致しているのも、何らかの必然が働いたかのような気がする。