人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年5月14日~5月16日/フリッツ・ラング(1890-1976)の初期トーキー作品

 フリッツ・ラングは1934年にMGMに招かれハリウッドに渡りますが、ドイツ本国でトーキー第1作『M』1931、トーキー第2作『怪人マブゼ博士』1932の後にはフランスを往復し、1934年公開のフランス映画『リリオム』を監督します。ヒトラーによるナチス政権の成立は1933年でしたからユダヤ系の家系のラングには自発的に亡命する理由は十分にありましたが、時代はまだ弾圧を受けるほどの時勢ではありませんでした。ラングにとっては事情は10年来のパートナーでシナリオ共作者の夫人テア・フォン・ハルボウと1932年に離婚した方が大きく、またこの時代には主にドイツ映画界の不況からハリウッドに渡る映画人も多かったので、ラングも監督職の需要から政治情勢に先んじてアメリカの映画監督になったのです。渡米第1作『激怒』1936までにラングの初期トーキー作品はドイツでの『M』『怪人マブゼ博士』、フランスでの『リリオム』の3作しかありませんが、これらトーキー初期のラング作品にもラング作品の白眉と言える名作を見出せて、それはサイレント時代のラング作品にはなかった方向性を確かに打ち出したものでした。しかもラングはこれら3作の後さらに25本の映画を作るのです。

●5月14日(日)
『M』M (独ネロ'31)*109mins, B/W

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・冒頭数分間の多元描写のシークエンスで戦慄が走る。台所で食事の支度を終えた主婦が家政婦に「今日は娘の帰りが遅いわ」と言いながら手洗いの洗濯に移る。洗濯室に転がる玩具。時計が午後を回る。通りでは小学生の女の子がボールを突きながら歩いている。ボールは電信柱にぶつかる。電信柱には「連続幼女殺害犯・懸賞金1万マルク」の貼り紙。貼り紙に帽子をかぶった男が女児にボールを拾って渡す影が映る。女児の目線の高さのショットで道端の風船売りから男が女児に風船を買い与える光景。男はペールギューントの一節を何度も口笛で吹く。「君の名前は?」と姿は映らず尋ねる男。「エルジー・ベックマンよ!」主婦は時計を見る。食卓には学校帰りの娘のために食器を出してある。草むらから出てくる男の足元だけが映る。電線にひっかかった風船が揺れる。主婦はアパートの中庭に、それから通りにくり返し娘の名を呼ぶ。「エルジー!」。この『M』こそがフリッツ・ラングの初めてのトーキー作品で、ベルリンを舞台に初めて庶民社会の登場人物たちを描いた作品になった。サイレント時代のラング作品は良くも悪くも絵空事だったわけで、現実音が付帯しない映画だったからこそ映画の虚構を堂々と開陳できたわけだが、サイレント最終作『月世界の女』'29はドイツではトーキー元年だったわけで、本作はラングのトーキー第1作としては2年もかかったことになる。その間トーキー初期の映画はベタに音楽を流したり録音の技術的限界(同時録音)から舞台劇の次元に退行したりしていた。それら未熟な試作品を観ながらじっくりラングが考えた結果が、いわゆる映画音楽は使わず現実音と台詞だけで緊迫した場面がギュッと詰まった犯罪映画の大傑作になった。ベルリン中に広がる恐怖と憎悪、国家警察は職務、犯罪シンジケートは利害関係から出し抜きあって追い詰めていく連続幼女殺害犯の正体、犯罪シンジケートが一歩リードして警察介入前に行うベルリン地下社会の住民たちによる地下裁判とその顛末など息もつかせない。ラング映画のご多分に漏れず登場人物は人格を備えた人間というよりドラマのための駒なのだが、それが映画のマイナス点にはならずさまざまな階層(警察は絨毯捜査のために当時ベルリンに実在したホームレス組合に路上監視を依頼、だが犯人の口笛に気づいた盲目のホームレスは犯人の追跡を通りかかった犯罪シンジケートの末端員に教えてしまう)を社会まるごと描き、映画は猟奇犯罪を契機にベルリンの都市そのものが主人公といえるスケールの作品になっている。サイレント時代の犯罪映画『ドクトル・マブゼ』や『スピオーネ』の系譜にありながら万能の視点からスリル中心に描いた犯罪活劇ではなく犯罪に直面した社会のマス・ヒステリーの進行を冷徹に見つめている。演出・映像はサイレントとトーキーの過渡期を感じさせるがサウンドを現実音と音声台詞に絞って無音と対比させたインパクトは絶大。犯人役のペーター・ローレが初めて顔まで映るのが50分目で、1931年の映画にして連続幼女殺害の具体的犯行内容や動機自体はまったく問題とされない。犯罪シンジケートと裏社会の人々数百人の傍聴下で行われる地下裁判のシークエンスは圧巻、かつその収拾も意外性に富み説得力がある。何よりこの映画は善悪によってキャラクター(庶民たち、犯罪者たちでさえも)を類型化してもいない。すでにサイレント時代の実績があったからこそ到達した作品だが、サイレント時代のラング映画全作品を持ってしても『M』一作の重みにはかなわない。それだけ本作には後にも先にもない画期的な本質的衝撃力がある。映画の中の映画、古典中の古典の地位はおそらく映画というメディアがある限り揺るぎない。

●5月15日(月)
『怪人マブゼ博士』Das Testament des Dr. Mabuse (独ネロ'33)*122mins, B/W

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・いきなり人気もないのに機械の喧騒が凄まじい工場の中を焦燥した表情で物陰から物陰へと逃げる男。激しい銃撃とともにガソリンの大爆発が起こり男は姿をくらます。一方警察署には「M」事件を解決したローマン警部を呼び出す電話がかかってくる。収賄事件で免職した元部下からと知り居留守を使わせる警部。だが電話は捜査中の組織のボスを突き止めた、とだけ言って切れたので元部下のアパートに向かうとうわごとを言って歌い出し精神に異常をきたしており、窓ガラスに最後に爪を立てて何か書き残そうとした跡がある。さて、青年ケントは恋人で失業安定所の職員キティに、実は就職口が見つからず犯罪組織の手下になっている事実を打ち明ける。平行してローマン警部は発狂後のマブゼ博士が入院しているバウム教授の病院を訪ねるがバウム教授はマブゼの書き散らす犯罪計画書の束を見せ、現在活動中の犯罪組織への関与は有り得ない、と断言する。ローマン警部は部下と発狂した免職部下の部屋を再調査して窓ガラスの爪痕を反転させるとかすれたMabuseと読めることに気づく。病院へ問い合わせるとつい数時間前にマブゼは急死したと知らされる。ローマン警部はマブゼの遺体を確認するが疑いは晴れない。警部の疑い通り組織の本部はバウム教授の病院の地下にあり、毎晩カーテンごしに指令が下される。バウム教授は深夜マブゼの犯罪指令書を病理学資料として研究していたが、マブゼの死後ついにマブゼの幻影が現れバウム教授に憑依する。キティの説得で組織本部にカップルで乗り込み組織からの脱退を宣言したケントにカーテンごしに死の宣告が告げられるが、ケントがカーテンをむしるとマブゼの胸像とレコードプレーヤーがあるだけで、キティとケントは地下本部に閉じ込められてしまう。いちかばちか水道管を破壊し水圧て脱出したケントとキティはローマン警部と合流、バウム教授を追い詰めると入院中の元部下が現れ、この人がマブゼです、と告発する。バウム教授は呵々大笑してそのまま発狂する。映画の出だしは悪くなかったのだが、オリジナル『ドクトル・マブゼ』の作者が書いた続編を採用せず夫人ハルボウが原作ごとシナリオを担当した結果『マブゼ』の続編と『M』の続編を兼ねて無理と無駄なサービス精神と(カップルのエピソード自体は悪くないが作品の中では冗長)ご都合主義ばかりが目立つ作品になってしまった。本作を最後に10年来のラングとハルボウの協力関係は解消、私生活でも離婚するのでこれまでのように実質的なシナリオ共作からアイディアを熟成することができず、プロットばかりか時制すら混乱の目立つ投げやりな作品になってしまったように思える。結果『マブゼ』続編としても『M』に続くローマン警部ものとしても中途半端というか、二兎を追ったら変な犯罪怪奇ドラマにしかならなかった、期待だけは見事に裏切ってくれる珍品としては面白いが、ラングの作品ならどんながっかり映画でも観ておきたいという寛大な観客(視聴者)向けとは言い過ぎか。

●5月16日(火)
『リリオム』Liliom (仏SAFフォックス'34)*116mins, B/W

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・離婚の賜物かもしれないがまさかの冷血漢ラングがガチで泣ける人情悲喜劇をおフランスで撮るとは。ラングはのちにジャン・ルノワール作品を2本もリメイクして1本は自信作、もう1本は「全然及ばなかった」と率直に語るほど4歳年下の後輩ルノワールに心服していたが、前半と後半でいきなり別の映画になる大胆な構成の本作は前半は『牝犬』'31のリアリズムのルノワール、後半は『素晴らしき放浪者』'32のコメディのルノワールみたいなのだ。原作のモルナールのヒット戯曲を大胆に改変してフランス人のドイツ人嫌いもあって散々な酷評を浴びたという本作だが、ルノワールも同時代には調子っ外れの映画ばかり撮るフランス映画界の異端児扱いされていたからラングの名前で出ていなくても同じだったろう。今観れば本作は最良のルノワールに匹敵する感動の名作なのだがラングにまさか「感動の名作」があろうとは誰も思わないから本作の日本初ソフト化は同一原作のミュージカル化によるヘンリー・キングの『回転木馬』'55の50周年記念版DVDの特典ディスクでジャケットに監督名すら載せずにひっそりボーナス収録された。遊園地の回転木馬の客引きリリオム(シャルル・ボワイエ)は客のウブな女の子ジュリーをナンパしオーナーでリリオムを男メカケにしていたマダム・モスカの怒りを買ってクビになる。勢いで結婚したリリオムとジュリーだが写真館で働くジュリーに頼ってリリオムは一向に職につかず、愛しあっているのにいさかいが絶えない。そのうちジュリーの妊娠が判明、これを絵に描いたような薄倖美人で胸も薄いジュリーがもじもじ遠回しに打ち明けるシーンが実にいい。リリオムは悪友にそそのかされて現金輸送現場を襲うがすでに警官のガードつきで、絶望したリリオムはその場でナイフ自殺する。ここまでで映画は前半、後半は宇宙空間に銀紙の星がキラキラする昇天描写を経て黒いスーツの男二人(コクトーの『オルフェ』'50の死神の姿にそっくり)に天国警察で取り調べを受けるリリオム、とファンタジー展開になる。ああ自殺課ね、と取り調べ官(背中に羽)に供述を取らされ、女性タイピスト(背中に羽)がタイプを打つとオルゴールが鳴る。地上でどんな罪を犯したかね、と検察官(背中に羽)に尋問され女房を殴るようなろくでなしでした、とリリオムが告白するとでは、とスクリーンが下りて口げんかしてジュリーに手を上げるシーンが映る。では心の声はどうかな、と巻き戻して上映すると「妻の言う通りだ。悪いのは俺なのに」やめてくれ、とリリオムは懇願するがリリオムの回想に応じて天国の天秤が左右に傾き(天秤のトリック画像が実際に映る)そんな調子でリリオムの内心の声は妻への愛と自責の念に満ちていることが暴露される。しょげるリリオム。煉獄で火あぶり16年、それから天国という判決に「せめて子供の性別くらい教えてくれ」火あぶり16年の後天国に送るまで1日だけ地上に戻れるから自分で確かめな、と煉獄の釜の中に連れられるが、刑務官が釜を閉める直前に「女の子だよ」とこっそり教える。16年後。夫の遺影を飾ったアパートで未亡人ジュリーが今も喪服姿でいる。パリの街角に下りたリリオムが学校帰りの自分の娘(未亡人役女優の二役)を見つけて声をかける。お母さんは元気かい。おじさん知りあいなの?古い知りあいなんだ、お母さんとお父さんの。リリオムは娘からお父さんは仕事をさがしにアメリカに渡って亡くなったの、いつもとても優しくて気をつかってくれる素晴らしいお父さんだったのよ、よければお父さんのことをもっと教えて、と聞いていたたまれなくなり、お父さんはそんな男じゃなかった、お母さんにしょっちゅう手をあげていたやつだ、と言ってしまう。嘘つき、信じないわ!と娘は怒って立ち去ろうとし、リリオムはつい娘に手を上げそうになって愕然とする。リリオムは慌てて道端の花売りから花を買って渡そうとするが嘘つきで乱暴者の花なんかいらない!と去ってしまう。茫然と立ちすくむリリオム。帰宅した娘は写真立ての脇の椅子に座る母の膝にすがって(ここからはクローズアップの切り返しで一人二役の会話になる)お父さんはいつも優しくて気をつかってくれる素晴らしい人だったのよね、と訊く。そうよ、いつも優しくて気づかいしてくれる素晴らしい人だったわ、と母。でもお父さんはお母さんをぶったりしなかったの?と娘。そういうこともあったかもしれないわ、と母。何度もお父さんはお母さんをぶったんじゃないの?そうかもしれないわ、と母、でもそれだけのこと、それだけのことなのよ。ジュリーの手の甲に涙が落ちる。茫然としたリリオムの眼に涙があふれ頬をつたう。天国の星がきらめいてエンドマーク(フランス映画だからFIN.)。怪奇映画『怪人マブゼ博士』の翌年の次作がドイツ映画からフランス映画に替わったとはいえここまで、と主人公リリオムとともに茫然としてしまうが(一応ファンタジー展開という共通点はある)、犯罪と陰謀渦巻くフリッツ・ラング映画の中で強盗未遂と衝動的自殺はあるが別に強盗でも自殺でなくてもリリオムの不慮の死が無念となればいい。『怪人マブゼ博士』は何だが、この後すぐハリウッドに招かれほぼ25年に渡ってアメリカ映画の監督になるまでのこの過渡期、対照的な『M』と『リリオム』の2傑作があるのはサイレント時代に描けなかったものがトーキーによってとうとう実現できた創作意欲の奔りによると思え、大作を常に期待されてきた20年代には作れなかった題材こそが『M』と『リリオム』なので、サイレント時代の題材を引きずった『怪人マブゼ博士』の投げやりな失敗もそこにあると思える。