人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源(16); 萩原朔太郎詩集『氷島』(ii)

萩原朔太郎(1886-1942)、詩集『氷島』刊行1年前、個人出版誌「生理」(昭和8年6月~昭和10年2月、全5号)創刊の頃、47歳。

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 萩原朔太郎の最後の詩集は通常、昭和9年(1934年)6月刊行の詩集『氷島』とされます。その後にも昭和14年刊のエッセイと詩の選集『宿命』があり数編の新作散文詩を含みますが、同書は版元の創元社の「創元選書」の企画(第24巻として刊行)で萩原自身の意向による出版ではないとされています。萩原の全詩集や全集では資料的な重要性から準オリジナル詩集として『宿命』も採択されますが、作者自身による積極的な単行詩集は『氷島』が最後になったと見るべきでしょう。もっとも選詩集『宿命』は晩年近い萩原の自己評価がうかがわれる点ではなかなかの好著といえます。
 選詩集『宿命』の構成は、前半の散文詩集には断片的短章からなるエッセイ集のシリーズ(萩原自身の命名では「情調哲学」)から73編が散文詩として収められ、うち第1作『新しき欲情』(大正11年=1922年)から24編、第2作『虚妄の正義』(昭和4年=1929年)から27編、第3作『絶望の逃走』(昭和10年=1935年)から16編、そして昭和12年~13年執筆の新作が6編収められており、「情調哲学」シリーズは通読が難しい晦渋な内容ですので独立性の高い断章を選んだ『宿命』は読みやすく、また新作6編は口語体散文詩による『氷島』続編というべき平明な佳作が揃っています。11編に自註を付していることからも萩原自身による選択は疑えないでしょう。後半の抒情詩68編は全25編の『氷島』から20編、全10篇の「郷土望景詩」から8編(『氷島』と4編重複)、全69編の『定本青猫』から42編が選ばれており(配置順)、この偏り方も萩原自身の選択ゆえと思われます。つまり『宿命』は大正11~12年の『新しき欲情』『青猫』以降の作品に絞った選集になります。後出の萩原朔太郎単行詩集リストをご参観ください。

 本題に戻ると、『氷島』は前回全編をご紹介しましたが、萩原朔太郎を口語自由詩の確立者として著名な『月に吠える』や『青猫』の作品から読んできた読者にとっては、それらの口語詩と較べて『氷島』がいかにかけ離れた文体と内容の詩編から成る詩集か、棘が刺さったような感触すら覚えてもおかしくないような作品になりました。先に『宿命』の抒情詩の出典を述べましたが、そのためにもここで萩原朔太郎の単行詩集を再びリストにしておきます。

・月に吠える (大正6年=1917年刊)
・青猫 (大正12年=1923年刊)
・蝶を夢む (大正12年=1923年刊、「蝶を夢む (青猫拾遺)」「松葉に光る (月に吠える拾遺)」収録)
・純情小曲集 (大正14年=1925年刊、「愛憐詩編 (初期文語詩集)」「郷土望景詩 (新作文語詩集)」収録)
萩原朔太郎詩集 (昭和3年=1928年刊、「愛憐詩編」『月に吠える』「松葉に光る」『青猫』「蝶を夢む」「郷土望景詩」「青猫以後 (新作詩集)」収録)
氷島 (昭和9年=1934年刊)
・定本青猫 (昭和11年=1936年刊、『青猫』「蝶を夢む」「青猫以後」収録)
・運命 (昭和14年=1939年刊、エッセイ=散文詩・抒情詩選集)

 萩原は広く若手詩人から尊敬されていた存在でしたので、後に『氷島』にまとめられる詩編の発表当時には昭和3年刊行の全詩集『萩原朔太郎詩集』ですでに十分な業績を残した先達詩人と思われており、『萩原朔太郎詩集』に含まれた最新作は大正14年刊行の『純情小曲集』後半の「郷士望景詩」増補版と「青猫以後」で、「青猫以後」は文字通り『青猫』の作風の延長にある詩群でしたし、文語詩の「郷士望景詩」も初期の文語自由詩「愛憐詩編」と対をなすために一時的に文語体が採用されたと受けとられていたようです。そして全詩集の中では「郷士望景詩」と「青猫以後」はともに詩人の円熟を感じさせる充実したエピローグの観があったでしょう。ですから、完全な新作単行詩集としては『青猫』以来11年ぶりになる『氷島』が徹底した文語体自由詩の詩集なのは評者の大半が評価を保留する要因になりました。ただ一人、はっきりと『氷島』を失敗作と断じ否定的な評価を表明したのが萩原の愛弟子・三好達治だったのは萩原と三好の間にしこりを残すことになります。まず公開書簡のかたちで三好が同人詩誌に『氷島』を批判して萩原の真意を糺す一文を発表し、それに萩原が反駁文を返し、再び三好が噛みつき、萩原がなおも自作を擁護し、と論争は数次に渉りました。
 三好達治は当時すでに30代の中堅詩人中では最高の詩人とされていましたので、その三好、しかも萩原の一番弟子でもあった三好の『氷島』批判には口を挟めないものがありました。そしてそのしこりは大阪在住の新進詩人・伊東静雄の第1詩集『わがひとに與ふる哀歌』(昭和10年=1935年)を萩原が書評で絶賛し、さらに萩原自身が伊東のため発起人となり開かれた東京での出版記念会で同詩集を絶賛したスピーチに対して出席していた三好が激しく反論する、という確執で爆発します。三好は伊東の詩を激しく批判し、戦後ようやく伊東の詩を認めるようになります。その晩伊東は出版記念会に来ていた中原中也の親切で家に泊めてもらい、後から中原に丁寧な礼状を送りましたが(伊東は中原より1歳年長)、歿後発見された中原の日記では「真面目な手紙。但し真面目なだけ。こういう人は何を考えて生きているのか。アイ・ドント・ノウ。」と書かれてしまいます。

 寄り道ついでですが、伊東静雄全集の書簡編には「中原は(生前残した詩だけで)十分。(夭逝して)惜しいのは立原(道造)」や、「私の詩は『氷島』の延長にあるものです」など気になる発言が散見されて面白いものです。伊東静雄詩集『わがひとに與ふる哀歌』収録作品は昭和6年昭和10年に書かれており、雑誌初出の段階で後の『氷島』収録詩編を伊東が読んでいた可能性は十分ありますが、詩集としてまとめられた形態と個々の詩編では意図が異なることは往々にしてあることですから、これはかえって創作時には特に萩原の文語詩を意識したものではなかったことを示すものでしょう。詩集『氷島』の刊行後に『氷島』から影響されて書かれたとしたら詩集『わがひとに與ふる哀歌』の成立は早すぎて不自然です。『わがひとに與ふる哀歌』は収録詩編全27編がほぼ半数ずつ応答形式になるように配置された詩集で、その印象から口語詩と文語詩が半々であるような読後感がありますが、よく見れば完全な文語詩は5編しかありません。ですが伊東の口語詩は平明な語彙を使いながら一読して即座に読解できないほど屈折した(しかも論理的整合性はある)構文で際立っており、口語詩でさえも文語詩のような佶屈な文体になっています。伊東は国立大学国文学科を優秀な成績で卒業して中学校教員になった人でしたからその詩は破格な文体に見えても萩原や中原、立原のような直観的な文法破壊ではなく、実験的な文体にも裏打ちがありました。これはやはりもともと関西出身で和漢洋の古典の教養が豊かだった三好達治にも言えることで、三好の伊東批判には嫉妬と近親憎悪の両方があったとも思われます。
 戦後の伊東は結核を患い長い入院生活のまま亡くなりましたが、大家となった三好が多く手がけた詩の手引き書、入門書にかつての批判を撤回して伊東の作品を頻繁に紹介するようになったのを徳として率直に喜んでいたようです。それでも三好は遺作となった萩原論の集成『萩原朔太郎』に至るまでついに『氷島』の否定的批判を止めませんでした。偶然の暗合だとしても伊東は単行詩集化された『氷島』を自分の詩の出発点と見なす考えを生涯変えなかったと思われますし、萩原自身が伊東を絶賛したのは『氷島』と『わがひとに與ふる哀歌』に呼応する情感を見出したからだと思われます。伊東が創刊メンバーだった京都の同人詩誌「コギト」はいかにも京都らしく国文学専攻者とドイツ文学(哲学)専攻者を同人とし、指向性としては日本の古典文学とドイツ・ロマン派、現代ドイツ詩の即物主義の橋渡しとなるような現代詩を目指していました。やがて「コギト」は当時の京都の最有力文芸同人誌「日本浪漫派」に近づきその衛星誌というべき位置に着きます。「日本浪漫派」は東京の有力同人詩誌「四季」とも親好があり、「四季」は他ならぬ三好達治堀辰雄を中心としており、萩原は自分の弟子たちによる「四季」を通じて「日本浪漫派」に接近して同誌が後援していた伊東静雄に注目しました。堀辰雄の愛弟子・立原道造も晩年の書簡を読むと堀の許から独立して「日本浪漫派」に加わろうと考えていたのがわかります。萩原もまた「四季」や「歴程」よりも晩年は「日本浪漫派」との親好を好むようになっていました。大戦中に「日本浪漫派」の批評家・詩人が果たした役割を簡単に要約はできませんが、戦後まで生きた伊東静雄、敗戦の前年に早逝した「四季」の津村信夫でさえも「日本浪漫派」との関わりの中で戦争翼賛詩を含んだ詩集を出していることからも、立原道造の夭逝(昭和14年)、萩原朔太郎の逝去(昭和17年)が大戦の激化前だったのには微妙な感慨を抱かせます。おそらく中原中也(昭和12年夭逝)は早逝しなくても戦争詩に向かうような素質はありませんでしたが、三好達治の戦争翼賛詩については高村光太郎の戦争詩とともに以前に触れた通りです。

 今回とりとめのない話題ながら述べたかったのは『氷島』が特に萩原の最後の単行詩集として持つ意義であり、『氷島』以降の晩年10年間は萩原は過去の自作を概括する期間に入ったこと、仮に再び詩作が活性化したとしても時代は本格的に戦時下に入っていたということです。『氷島』収録作品以降詩作は以前なら「情調哲学」に分類していた散文詩断章しかなく、それも『氷島』の自作自解的な内容であり、自由詩型の詩作は昭和12年の新聞依頼詩である文語体の戦争詩「南京陥落の日に」1編がぽつんと書かれてそれが最後になりました。この依頼作品にこそ応じたとはいえ萩原は基本的には自発的な詩作しかしなかった人なので、戦況を横目に詩作の筆は絶ち、晩年10年は主に詩論とエッセイに努力を傾注しています。それら晩年の詩論は「日本浪漫派」からの刺戟によるところが大きく萩原の「日本主義」への転向、と呼ばれることに本人も同意と反発の半々を表明しましたが、萩原は批評家としての文業と自分の詩作については潔癖なくらい区別を設けていました。萩原の晩年は詩が書けないから批評に傾注していたのか、批評に傾注するあまり詩作から離れていたのか判じがたい面もありますが、それ以上に選詩集『宿命』に見られるように自作の一方の頂点に『定本青猫』、一方の頂点に『氷島』(「郷土望景詩」を含む)を置いた場合、すでに詩でやれることはやり尽くしたという気持もあったと思われ、『氷島』から後に萩原の詩にどのような展開が考えられるかと問われればそれに答えを出すことのできたのは萩原本人以外になく、晩年の批評的業績からそれを類推することも難しいでしょう。
 逆に萩原晩年の批評が『氷島』を起点として書かれているのは『氷島』所収の詩編からの語彙や行文がしばしば生の形や、さまざまな変奏を施されて批評文にくり返し反復されていることでも容易に知られます。つまり作詩に現れなくても萩原の中では『氷島』時代が続いていたとも思われ、もし詩作意欲が旺盛な時期であったなら『青猫』がさらに「蝶を夢む」「青猫以後」と増補されていき『定本青猫』に統合されたように「郷土望景詩」を先駆として『氷島』本編、「氷島以後」と増補された可能性もあったかもしれないとも思え、しかし『氷島』の佶屈な文語自由詩では『青猫』のような多産な応用は困難だった、とも思えてきます。伊東静雄は生涯に5冊の詩集を持ちましたが、この5冊は合わせても『定本青猫』1冊よりも少ない分量です。元の『青猫』には巻末に「自由詩のリズムに就て」と題した詩論が掲載されており、これは良い着眼点ですが『青猫』の文体でリズムを生んでいるのはむしろメロディーなので、文体の発想は垂直的というより水平的です。リズム重視、すなわち垂直的発想の文体は『氷島』の文語詩によって極まったと言ってよく、『青猫』が萩原の詩集中もっとも浩瀚なのに対して『氷島』は小品集『純情小曲集』に次ぐ小冊子であり、伊東の詩集も『氷島』同様に密度を求めて規模においては凝集した、編数を絞った家集になっています。『青猫』が和歌的ならば『氷島』は俳諧的なのは巻頭に「冬日暮れぬ思ひ起せや岩に牡蠣」の一句が置かれていることでも方法的な自覚が示されており、大学の卒業論文正岡子規の俳論を課題にした伊東の場合は『氷島』ほど俳諧的垂直的ではなく連句的な水平方向への流れも折衷されていますが、収録詩編はおおむね短詩中心にまとめられています。口語自由詩の水平的(メロディー的)発想を最大限に生かしたのが『青猫』詩編だったとすれば『氷島』の文語詩による垂直的(リズム的)発想に転換した時期に平行して書かれた「郷土望景詩」と「青猫以後」が、『青猫』路線の完成と『氷島』の先駆作が同時期に書かれた転機だったのは(三好達治は「郷土望景詩」と『氷島』に一線を引いて生涯譲りませんでしたが)萩原には自己の詩歴の総括と最終局面に入った意識があってもおかしくはなく、伊東静雄の登場にはバトンを渡すに足る新人が現れたことへの率直な喜びを覚えたのではないでしょうか。本来それは三好達治が自負していたことですが『氷島』をめぐって師弟の決裂があった矢先のことでしたし、また西脇順三郎(『Ambarvalia』昭和8年刊)という萩原自身が予想もしなかったコスモポリタン的発想から萩原を継いだ詩人も名乗りを上げていました。次回以降『氷島』の諸編に即して詩集内容を再読していきたいと思いますが、今回は収録作品の発表誌一覧を詩集収録順にまとめておきたいと思います。

萩原朔太郎詩集『氷島昭和9年(1934年)6月1日・第一書房刊(外函)

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 詩集『氷島』本体表紙

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・漂泊者の歌 (昭和6年/1931年6月「改造」)
・遊園地 (るなぱあく)にて(昭和6年7月「若草」)
・乃木坂倶樂部 (昭和6年3月「詩・現實」)
・殺せかし! 殺せかし! (昭和6年12月「蝋人形」)
・歸郷 (昭和6年3月「詩・現實」)
・波宜亭 (大正14年/1925年8月刊『純情小曲集』収録・初出未詳)
・家庭 (昭和6年3月「詩・現實」)
珈琲店 醉月 (昭和6年3月「詩・現實」)
・新年 (昭和6年3月「詩・現實」)
・晩秋 (昭和6年3月「詩・現實」)
・品川沖觀艦式 (昭和6年3月「詩・現實」)
・火 (昭和5年/1930年2月「ニヒル」)
・地下鐵道(さぶうえい)にて (初出未詳)
・小出新道 (大正14年8月刊『純情小曲集』収録・大正14年6月「日本詩人」)
・告別 (昭和5年2月「ニヒル」)
・動物園にて (昭和5年2月「ニヒル」)
・中學の校庭 (大正14年8月刊『純情小曲集』収録・大正12年/1923年1月「薔薇」)
・國定忠治の墓 (昭和8年/1933年6月「生理」)
・廣瀬川 (大正14年8月刊『純情小曲集』収録・初出未詳)
・虎 (昭和8年6月「生理」)
・無用の書物 (昭和5年1月「文藝春秋」)
・虚無の鴉 (昭和2年/1927年3月「文藝春秋」)
・我れの持たざるものは一切なり (昭和2年3月「文藝春秋」)
・監獄裏の林 (昭和3年/1928年3月刊『萩原朔太郎詩集』収録・大正15年/1926年4月「日本詩人」)
・昨日にまさる戀しさの (昭和7年/1932年1月「古東多萬」)

(※以下次回)