人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

伊東静雄詩集『わがひとに與ふる哀歌』(昭和10年=1935年刊)その1

(伊東静雄<明治39年=1906年生~昭和28年=1953年没>)
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 伊東静雄(明治39年=1906年12月10日生~昭和28年=1953年3月12日没)は明治40年(1907年)生まれの中原中也、逸見猶吉より1歳年長の詩人ですが、中原の作風が昭和2年(1927年)頃までには確立し、逸見の画期的な「ウルトラマリン」連作が昭和4年(1929年)から始まるのに較べると、伊東静雄の第1詩集『わがひとに與ふる哀歌』(発行・杉田屋印刷所/発売・コギト発行所、1935年=昭和10年10月5日発行)収録作品はもっとも早い時期のものでも昭和7年(1932年)で、また収録作全28篇は昭和7年~8年度の詩篇昭和9年~10年の詩篇に作風の転換が二分されると見られるものでした。詩人歿後にまとめられた全集では伊東静雄には生前編纂詩集未収録作品ほぼ詩集1冊分が編まれましたが、そのほとんどが昭和8年以前の初期詩篇であり、昭和5年に1篇、昭和6年に2篇の発表作がもっとも早く、本格的な連続発表は昭和7年以降になります。初期の未発表詩篇には平成22年(2010年)に発掘刊行された伊東静雄17歳~23歳の未発表日記『伊東静雄日記 詩へのかどで』からが判明しましたが、積極的に詩作の発表に乗り出したのが年少の中原中也や逸見猶吉より5年あまり遅れたのは、伊東が大阪在住の京都の詩人グループに属していたこともありますが、環境よりもむしろ伊東の慎重な性格が反映したものでしょう。

 ですが生前の第1詩集『山羊の歌』(昭和9年=1934年11月刊)がほとんど話題にならず、昭和12年10月の急逝後に刊行された生前編纂の第2詩集『在りし日の歌』(昭和13年4月刊)でようやく注目された中原中也や、生前には合同詩集への勧誘に小詩集を一度まとめられただけで(昭和15年=1940年3月『現代詩人集3』内『ウルトラマリン』)、敗戦後の元・満州国で昭和21年に客死した2年後に初めて単独の遺稿詩集が刊行された逸見猶吉に対して、伊東静雄の第1詩集『わがひとに與ふる哀歌』はいち早く注目され一躍伊東を第一線の新人詩人に押し上げる高い評価を得ました。伊東が比較的公平な評価を得たのは首都圏の詩人たちとの交わりが少なかったこともあるでしょう。東京の詩人たち同士にあった派閥とは関係がなかったので、批判とも擁護とも関わりなく、また東京の詩人たちとの影響関係もない、と思われていたのです。この第1詩集が当時最大の注目を集めたのは、前年(昭和9年)にひさしぶりの新詩集『氷島』を発表した萩原朔太郎がくり返し激賞してはばからなかったことで、それは「日本にまだ一人の詩人が残っていた!」という調子の絶讃でも詠嘆でもあるようなものでした。萩原の激賞は萩原の一番弟子と自他ともに認められていた三好達治の反感を招き、東京で行われた『わがひとに與ふる哀歌』の出版記念会の席上で萩原と三好が口論する事態になります(その晩、伊東静雄は記念会に来ていた中原中也の家に泊めてもらった顛末が中原の日記に書かれています)。三好主宰の同人誌「四季」では伊東をゲスト待遇で迎えましたが、三好個人は伊東の最晩年までその詩を認めませんでした。三好達治を除けば伊東は東京の詩人たちからも一目置かれましたが、萩原朔太郎の賞賛以外に同時代的な共感があったかは心もとなくもあります。「四季」の津村信夫立原道造らに多少の類似が見られる程度ですが類似よりも相違の方が目立つのです。一篇の詩の中で暗喩と具象的話法が混淆され、視点と時制が二転三転し、主語・述語の意図的な錯綜によって文体が完結せず、それが次々と累積するため詩に設定された現実が確定しない、要するによほど注意しなければ何を言っている詩なのかわからず注意してすらよくわからない『わがひとに與ふる哀歌』の非連続的な文体と発想・手法は当時類例がなかったもので、昭和10年の段階で20世紀後半の日本の詩の発想を先取りしたものですらあります。それが次第に明白になったのは、日本の詩の喩法が飽和状態に達した1980年代を迎えた頃でした。

 詩集『わがひとに與ふる哀歌』(昭和10年=1935年10月刊)収録詩編28篇の発表誌は次のようになります。「文學界」は小林秀雄主宰、「四季」は三好達治主宰、また「椎の木」は百田宗治主宰誌へのゲスト掲載ですが、ほとんどの作品は伊東自身が主宰してた「呂」、「呂」が吸収された京都の詩人グループの「コギト」、「コギト」の発展した保田與重郎主宰誌「日本浪漫派」への発表です。このうち「呂」に発表された初期の昭和7年・8年度作品と、「コギト」「日本浪漫派」その他ゲスト掲載された昭和9・10年度作品が詩集には年代順ではなく、ほぼ交互に配列されているのが初出誌を調べると判明します。もちろん意図的な配列だけに効果を狙った例外もあり、今回ご紹介する冒頭の7篇は5篇目の「新世界のキィノー」だけが昭和8年度で、他は昭和9・10年度作品になっています。「新世界のキィノー」(キィノー=映画館、「新世界」は現実の大阪の歓楽街)だけが冒頭7編の中で異色の文体で書かれ、方法的にも異なるのは明らかで、昭和7・8年度作品がさらにひんぱんに混合してくる詩集中盤以降は2種類の詩集をシャッフルしたような複雑な配列になります。明治以降の現代詩でもこれほど大胆な構成をさりげなく試みた例は少なく、間近では西脇順三郎『Ambarvalia』(昭和8年=1933年)が詩集前半と後半で古代ギリシャと現代文明を対比させて成功させていましたが、『わがひとに與ふる哀歌』の構成はさらに込み入ったものです。
1. 晴れた日に (「コギト」昭和9年=1934年8月)
2. 曠野の歌 (「コギト」昭和10年=1935年4月)
3. 私は強ひられる―― (「コギト」昭和9年=1934年2月)
4. 氷れる谷間 (「文學界昭和10年=1935年4月)
5. 新世界のキィノー (「呂」昭和8年=1933年7月/「コギト」昭和8年=1933年9月)
6. 田舎道にて (「コギト」昭和10年=1935年2月)
7. 眞昼の休息 (「日本浪曼派」昭和10年=1935年4月)
8. 歸郷者 (「コギト」昭和9年=1934年4月)
9. 同反歌 (旧題「都會」/「呂」昭和7年=1932年10月)
10. 冷めたい場所で (「コギト」昭和9年=1934年12月)
11. 海水浴 (「呂」昭和8年=1933年11月・「コギト」昭和8年=1933年11月)
12. わがひとに與ふる哀歌 (「コギト」昭和9年=1934年11月)
13. 静かなクセニエ (初出不明)
14. 咏唱 (旧題「事物の本抄」第9連・「呂」昭和7年=1932年11月)
15. 四月の風 (「呂」昭和9年=1934年6月)
16. 即興 (「椎の木」昭和10年=1935年4月)
17. 秧鶏は飛ばずに全路を歩いて來る (「四季」昭和10年=1935年4月)
18. 咏唱 (旧題「朝顔」・「呂」昭和7年=1932年10月)
19. 有明海の思ひ出 (「コギト」昭和10年=1935年3月)
20. (讀人不知) (旧題「秋」・「呂」昭和7年=1932年11月)
21. かの微笑のひとを呼ばむ (「日本浪曼派」昭和10年=1935年7月)
22. 病院の患者の歌 (「呂」昭和8年=1933年6月)
23. 行つて お前のその憂愁の深さのほどに (「コギト」昭和10年=1935年6月)
24. 河邊の歌 (「コギト」昭和9年=1934年10月)
25. 漂泊 (「コギト」昭和10年=1935年8月)
26. 寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ (「コギト」昭和10年=1935年1月)
27. 鶯 (「呂」昭和9年=1934年2月)
28. (讀人不知) (旧題「静かなクセニエ抄」・「呂」昭和7年=1932年12月)

 この詩集の、一見平易な抒情詩のようでいて詩の意味する内容に安易に近づけないような屈折した性格は、中原中也や逸見猶吉のような強い個性をあえて回避している分つかみどころのない内向性があり、1冊の詩集の中で詩篇同士が他の詩篇への批判になっているメタフィジカルな構成がこの詩集の難解さ、詰屈さを二重三重にしています。巻頭詩「晴れた日に」ですらすでに「私」と「お前」、放浪する「半身」が同一の語り手の自問自答か具体的な他者か視点が揺らぎ、「正しい林檎畑」とは暗喩なのか現実なのか確定できず、「命ぜられてある」「信じまいとする」とは何を指すのか韜晦されたままです。伊東静雄は第2詩集『夏花』(昭和15年=1940年3月刊)以降は第3詩集『春のいそぎ』(昭和18年=1943年9月刊)、第4詩集『反響』(昭和22年=1947年11月刊)を経て歿後刊行になった第5詩集『伊東静雄詩集』(昭和28年=1953年7月刊)まで、第1詩集で試みたポリフォニックな構成を二度とくり返しませんでした。そのため『夏花』で完成された統一された作風を念頭に『わがひとに與ふる哀歌』も読み継がれてきたのです。萩原朔太郎が激賞した抒情詩的側面が強調されてきた事情もあり、何より伊東自身が第2詩集以降では実験を必要としなくなったことで、『わがひとに與ふる哀歌』が日本の詩のモダニズム期の只中に刊行され、同詩集もまた現代詩の最尖端にあった背景が忘れられがちです。

 伊東自身がこの『わがひとに~』を萩原の『氷島』の文語体回帰による実験を意識して創作したのは歿後刊行の全集所収の書簡で明かしている通りで、『氷島』は三好達治が師の詩歴の汚点として激しく批判した実験的文語体の抒情詩集でした。伊東の場合は口語詩と文語詩を混淆させており、口語詩ですら日常言語の文法を離れて意図的に不自然さを誇張された文語脈で書かれています。ですから三好が『わがひとに與ふる哀歌』を酷評したのも筋が通っていたのです。しかしこれは近親憎悪とも言えて、萩原の業績を下敷きに自己の作風を築いたのは三好達治も同じで、そのデフォルメの度合いは三好も伊東静雄以上に人工的で作為性の強いものでした。詩の裏側にどこか表現しきれないものを隠し持っているような不自由さを感じさせ、その不自由さ自体が詩の実質をなしている点では萩原朔太郎から三好達治伊東静雄に分岐していく線があり、同じく萩原朔太郎を師と仰ぎながらまったく対照的に、文語・口語問わず日本語の詩の不毛さを完全な自由として吹っ切った稀有な詩人が西脇順三郎でした。複数の語り手が混在し錯綜して進行する詩集『わがひとに與ふる哀歌』の手法と構成については、次回以降に、より具体的に触れることにします。

『わがひとに与ふる哀歌』(発行・杉田屋印刷所/発売・コギト発行所、1935年=昭和10年10月5日発行)
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古き師と少なき友に献ず

晴れた日に

とき偶(たま)に晴れ渡つた日に
老いた私の母が
強ひられて故郷に歸つて行つたと
私の放浪する半身 愛される人
私はお前に告げやらねばならぬ
誰もがその願ふところに
住むことが許されるのでない
遠いお前の書簡は
しばらくお前は千曲川の上流に
行きついて
四月の終るとき
取り巻いた山々やその村里の道にさヘ
一米(メートル)の雪が
なほ日光の中に殘り
五月を待つて
櫻は咲き 裏には正しい林檎畑を見た!
と言つて寄越した
愛されるためには
お前はしかし命ぜられてある
われわれは共に幼くて居た故郷で
四月にははや縁(つば)廣の帽を被つた
又キラキラとする太陽と
跣足では歩きにくい土で
到底まつ青な果實しかのぞまれぬ
變種の林檎樹を植ゑたこと!
私は言ひあてることが出來る
命ぜられてある人 私の放浪する半身
いつたい其處で
お前の懸命に信じまいとしてゐることの
何であるかを

(「コギト」昭和9年=1934年8月)

曠野の歌

わが死せむ美しき日のために
連嶺の夢想よ! 汝(な)が白雪を
消さずあれ
息ぐるしい稀薄のこれの曠野に
ひと知れぬ泉をすぎ
非時(ときじく)の木の實熟(う)るる
隠れたる場しよを過ぎ
われの播種(ま)く花のしるし
近づく日わが屍骸(なきがら)を曳かむ馬を
この道標(しめ)はいざなひ還さむ
あゝかくてわが永久(とは)の歸郷を
高貴なる汝(な)が白き光見送り
木の實照り 泉はわらひ……
わが痛き夢よこの時ぞ遂に
休らはむもの!

(「コギト」昭和10年=1935年4月)

私は強ひられる――

私は強ひられる この目が見る野や
雲や林間に
昔の私の戀人を歩ますることを
そして死んだ父よ 空中の何處で
噴き上げられる泉の水は
區別された一滴になるのか
私と一緒に眺めよ
孤高な思索を私に傳へた人!
草食動物がするかの樂しさうな食事を

(「コギト」昭和9年=1934年2月)

氷れる谷間

おのれ身悶え手を揚げて
遠い海波の威(おど)すこと!
樹上の鳥は撃ちころされ
神秘めく
きりない歌をなほも紡(つむ)ぐ
憂愁に氣位高く 氷り易く
一瞬に氷る谷間
脆い夏は響き去り……
にほひを途方にまごつかす
紅(くれなゐ)の花花は
(かくも氣儘に!)
幽暗の底の縞目よ
わが 小兒の趾(あし)に
この歩行は心地よし
逃げ後れつつ逆しまに
氷りし魚のうす青い
きんきんとした刺は
痛し! 寧ろうつくし!

(「文學界昭和10年=1935年4月)

新世界のキィノー

朝鮮へ東京から轉勤の途中
舊友が私の町に下車(お)りた
私をこめて同窓が三人この町にゐる

私が彼の電話をうけとつたのは
私のまはし者どもが新世界でやつてゐる
キィノーでであつた

私は養家に入籍(い)る前の名刺を 事務机から
さがし出すと それに送宴の手筈を書き
他の二人に通知した

私ら四人が集ることになつたホテルに
其の日私は一ばん先に行つた
テラスは扇風機は止つてゐたが涼しかつた

噴水の所に 外から忍びこんだ子供らが
ゴム製の魚を
私の腹案の水面に浮べた

「體(てい)のいゝ左遷さ」と 吐き出すやうに
舊友が言ひ出したのを まるきり耳に入らないふりで
異常に私はせき込んで彼と朝鮮の話を始めた

私は 私も交へて四人が
だん/\愉快になつてゆくのを見た
(新世界で キィノーを一つも信じずに入場(はい)つて
きた人達でさへ 私の命じておいた暗さに
どんなにいらいらと 慣れようとして
目をこすることだらう!)

高等學校の時のやうに歌つたり笑つたりした
そして しまひにはボーイの面前で
高々とプロジツト! をやつた

獨りホテルに殘つた舊友は 彼の方が
友情のきつかけにいつもなくてはならぬ
あの(下線)朝鮮(下線)の役目をしたことを 激しく後悔した

二人の同窓は めい/\の家の方へ
わざとしばらくは徒歩でゆきながら
舊友を憐むことで久しぶりに元氣になるのを感じた

(「呂」昭和8年=1933年7月/「コギト」昭和8年=1933年9月)

田舎道にて

日光はいやに透明に
おれの行く田舎道のうへにふる
そして 自然がぐるりに
おれにてんで見覺えの無いのはなぜだらう

死んだ女(ひと)はあつちで
ずつとおれより賑やかなのだ
でないと おれの胸がこんなに
真鍮の籠のやうなのはなぜだらう

其(そ)れで遊んだことのない
おれの玩具(おもちや)の単調な音がする
そして おれの冒險ののち
名前のない體驗のなり止やまぬのはなぜだらう

(「コギト」昭和10年=1935年2月)

眞昼の休息

木柵の蔭に眠れる
牧人は深き休息(やすらひ)……
太陽の追ふにまかせて
群畜(けもの)らかの速き泉に就きぬ
われもまたかくて坐れり
二番花乏しく咲ける窓邊に

土(ち)の呼吸(いき)に徐々に後れつ
牧人はねむり覺まし
己(わ)が太陽とけものに出會ふ
約束の道へ去りぬ……
二番花乏しく咲ける窓邊に
われはなほかくて坐れり

(「日本浪曼派」昭和10年=1935年4月)

(以下次回)

(旧稿を改題・手直ししました)