人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

北原白秋の童謡詩(「赤い鳥」「からたちの花」「ペチカ」)

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 北原白秋(1885-1942)は大正7年(1918年)7月に鈴木三重吉が創刊した児童芸術誌「赤い鳥」の童謡欄を担当し、毎号、のちに山田耕筰らに作曲されて人口に膾炙されることになる童謡詩を発表しました。白秋は現代詩、訳詩、軍歌、歌謡詩、短歌、長歌、俳句など漢詩以外の日本の詩形式はすべて手がけた大詩人ですし、与謝野鉄幹・晶子門下生としての短歌では正岡子規の没後後継者だった斎藤茂吉と並ぶ20世紀の大歌人だった人です。しかしすべての詩形式において大手腕だった逆に白秋は一つの詩形式ではすべてを発揮できなかったという見解も起こり、そこで白秋が真に無心に全人性を発揮できたのは童謡詩だった、という見方もできるのです。

「赤い鳥」

 北原白秋

赤い鳥、小鳥、
なぜなぜ赤い。
赤い實をたべた。

白い鳥、小鳥、
なぜなぜ赤い。
白い實をたべた。

青い鳥、小鳥、
なぜなぜ青い。
青い實をたべた。

(大正7年10月「赤い鳥」)

「からたちの花」

 北原白秋

からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。

からたちのとげはいたいよ。
青い青い針のとげだよ。

からたちの畑(はた)の垣根よ。
いつもいつもとほる道だよ。

からたちも秋はみのるよ。
まろいまろい金(きん)のたまだよ。

からたちのそばで泣いたよ。
みんなみんなやさしかつたよ。

からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。

(大正13年1924年7月「赤い鳥」)

「ペチカ」

 北原白秋

雪のふる夜(よ)はたのしいペチカ。
ペチカ燃えろよ、お話しましよ。
むかしむかしよ。
燃えろよ、ペチカ。

雪のふる夜はたのしいペチカ。
ペチカ燃えろよ、おもては寒い。
栗や栗やと
呼びます、ペチカ。

雪のふる夜はたのしいペチカ。
ペチカ燃えろよ、ぢき春來ます。
いまに楊(やなぎ)も
萌(も)えましよ、ペチカ。

雪のふる夜はたのしいペチカ。
ペチカ燃えろよ、誰(だれ)だか來ます。
お客さまでしよ。
うれしいペチカ。

雪のふる夜はたのしいペチカ。
ペチカ燃えろよ、お話しましよ。
火の粉ぱちぱち、
はねろよ、ペチカ。

(大正13年1924年8月『漫州唱歌集』)


 弟子の萩原朔太郎が都会的な憂愁に満ちた『青猫』の作品群を書いていた頃に、白秋はこうした童謡詩を書いていたのです。白秋のこれらの詩は、幼児にも理解し口ずさめる平易さと愛唱性で、現在でも幼児の言語・音楽教育に用いられているものです。これらは歌曲として3歳の幼児をも魅了するほど広い読者に訴え、その平易さと楽しさではこれほど卓越した詩はないでしょう。文意だけなら翻訳可能ですが翻訳によって失われてしまうのが日本語の美しさなのは明瞭で、それは白秋の童謡詩が語感にすべてを託したものであり、幼児の感受性の次元で全面的に感覚を解放することから生み出された純粋さで、白秋にして初めてなし得た発明でした。そうした意味では、「赤い鳥」「からたちの花」「ペチカ」に代表される白秋の童謡詩ほど純粋な詩は古今の日本の詩にあっても空前絶後と言えるものです。特に「赤い鳥」の、言葉の照応だけがあって完全な無意味に達した美しさは、これがマラルメ象徴詩のような実験的詩作でなく無心な童謡詩であるだけ際だっています。

 しかもこの3行1連の「赤い鳥」は、作曲された場合には「ペチカ」と並んでブルース形式、それもブルース風ではなく完全なジャズ・ブルース形式(「赤い鳥」は4小節3連、「ペチカ」は8小節2連+10小節1連の変則型)の歌曲になります。白秋は晩年失明しましたが、抜群に耳が良く、レコードやすでに始まっていたラジオ放送から、おそらく当時(1920年代初頭!)の日本では職業音楽家でさえも聴き取れなかったジャズ・ブルース形式を音楽的知識や学習抜きに聴きとることができた、驚異的な耳の感性の人だったのがわかります。斎藤茂吉や、同じ鉄幹門の高村光太郎が目の人だったのと対照をなしています。白秋にとっては短歌・俳句の三句立て形式(短歌の場合は五・七五・七七、俳句の場合は直に五・七・七)からブルースのAAB、またはABCS形式の発想が容易だったのかもしれませんが、白秋以外にこれをなし得た詩人がいないのも事実です。そして「赤い鳥」「からたちの花」「ペチカ」は日本語文化が続く限り、作者不明の伝承歌となったとしても数千年の歳月を越えて読者の胸に直接届き得るものです。

 萩原朔太郎の一番弟子だった三好達治(1900-1964)は漢文学的な悲憤慷慨の詩人で、師の萩原をも悲憤慷慨の詩人として尊敬していました。悲憤慷慨とは中国詩の伝統にある思想詩ですから、生涯師の師である北原白秋を無内容な詩人、言語遊戯だけで無思想な詩人と批判して止みませんでした。三好達治北原白秋批判はむしろ昭和以降の詩人には一般的な定評だったので、悲憤慷慨の詩人の代表のような高村光太郎が大詩人とされるようになったのです。一方、萩原の自称一番弟子だった西脇順三郎(1894-1982)は悲憤慷慨の詩人を嫌い、高村光太郎を「豪傑の詩」と一蹴していました。現代詩の詩人で白秋の童謡詩の語感を意識的に用いた唯一の詩人が中原中也(1907-1937)であり、中原の詩の批判者(三好達治西脇順三郎は正反対の立場から中原を認めませんでした)が問題とする点がその歌唱性にあることも、また注意すべき現象です。次の詩は中原の晩年に、乳児のうちに長男を亡くした後に盛んに創作された、乳幼児を歌った作品のひとつです。

「春と赤ン坊」

 中原中也

菜の花畑で眠つてゐるのは……
菜の花畑で吹かれてゐるのは……
赤ン坊ではないでせうか?

いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です
ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です
菜の花畑に眠つてゐるのは、赤ン坊ですけど

走つてゆくのは、自轉車々々々
向ふの道を、走つてゆくのは
薄桃色の、風を切つて……

薄桃色の、風を切つて……
走つてゆくのは菜の花畑や空の白雲
――赤ン坊を畑に置いて

(昭和11年=1936年「文學界」掲載月不詳)