人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

北原白秋の歌謡詩(「さすらいの唄」「にくいあん畜生」「今度生まれたら」)

松井須磨子明治19年(1886年)3月8日生~大正8年(1919年)1月5日没、享年32歳
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 正確には「歌謡詩」というよりも「舞台劇挿入歌」と呼ぶべきでしょうが、北原白秋(1885-1942)は歌謡詩の分野でも抜群の才人でした。白秋は20代にして当代の詩王と呼ばれた長崎生まれの詩人で、大反響を呼んだ第1詩集『邪宗門』(明治42年=1909年3月)と同時執筆され出版は後になった処女詩文集『思ひ出』(明治44年=1911年6月)刊行後、隣家の人妻が受けていた家庭内暴力への同情から恋愛関係になり、夫の告訴(姦通罪・第二次大戦後に廃止)により市ヶ谷刑務所に3か月拘置されました。釈放後に白秋は離縁された人妻と結婚しましたが、この不幸な恋愛・入獄体験は第1歌文集『桐の花』(大正2年=1913年1月)に描かれています。この結婚は1年半も持たず、白秋は再婚とともに舞台劇挿入歌や童謡の多作家となりました。白秋の詩集は『東京景物詩』(大正2年=1913年7月)、『真珠抄』(大正3年=1914年9月)、『白金之独楽』(大正3年=1914年12月)、『水墨集』(大正12年=1923年)と続き、『真珠抄』『白金之独楽』以降は仏教への傾倒が目立つようになりますが、かえってこの時期以降書かれた歌謡詩、大正7年(1918年)7月創刊に参加した児童詩誌「赤い鳥」への童謡詩、大正10年(1921年)12月刊の翻訳童謡集『まざあ・ぐうす』や数々の歌集に白秋の純粋詩が高い成果を見せているのは同時代の他の詩人には見られないことで、西條八十佐藤惣之助も白秋の歌謡詩に追従して優れた成果を上げましたが、白秋のように純粋詩に到達するよりも歌謡詩としての大衆性に向かったものでした。ただし白秋、八十、惣之助に共通するのは大衆性が教条的に道徳・人生訓を説いたものではなく、歌謡詩として楽しさと洒落っ気に満ちていることです。それはもともと主流現代詩において優れた詩人だった白秋、八十、惣之助ならではの聡明さでした。また白秋が八十、惣之助より卓越していた感性の広さは日本の詩では珍しいもので、長崎生まれという出自もあるかもしれませんが地中海的な明るさ、大陸的なおおらかさを誇るもので、もしイタリアやフランス、ロシアやアメリカの詩人であれば世紀に一人か二人というほどの大詩人になり得たかもしれない大才の文学者でした。

「にくいあん畜生」

 北原白秋

にくいあん畜生はおしやれな女子(おなご)、
おしやれ浮気で薄情もの、よ、
どんな男にも好かれて好いて、
飽(あ)いて別れりやしらぬ顏。

飽いて別れりや別りよとままよ、
外に女子が無いじやなし、よ。
何をくよくよ、明日の日もござる。
男後生楽、またできる。

男後生楽、踊らぬ奴は、
やもめ男か、いくぢなし、よ。
何をくよくよ、踊さえおどりや、
すぐに女子も来てたかる。

女子ゆゑなら身も世もいらぬ、
どうせ名もなし、銭(ぜに)もなし、よ。
ままよ自棄(やけ)くそ、梵天国ときめて、
今日も酒、酒、明日も酒。

酒だ、酒、酒、まだ夜は明けぬ、
明けりや工場の汽笛(ふえ)が鳴る、よ。
ままよ自棄くそ、一寸先は闇よ、
今宵極楽、明日地獄。

(舞台劇『生ける屍』大正6年=1917年より)

「さすらいの唄」

 北原白秋

行こか、戻ろか、北極光(オーロラ)の下を、
露西亜(ロシア)は北国、はてしらず。
西は夕焼、東は夜明、
鐘が鳴ります、中空(なかぞら)に。

泣くやに明るし、急げば暗し、
遠い燈火(あかり)もチラチラと。
とまれ幌馬車、やすめよ黒馬(あお)よ、
明日の旅路がないぢやなし。

燃ゆる思を荒野(あれの)にさらし、
馬は氷の上を踏む。
人はつめたし、わが身はいとし、
街の酒場はまだ遠し。

わたしや水草、風吹くままに、
ながれながれて、はてしらず。
昼は旅して夜(よ)は夜で踊り、
末はいづくで果てるやら。

(舞台劇『生ける屍』大正6年=1917年より)

 島村抱月(1871-1918)演出・松井須磨子(1886-1919)主演の劇団・芸術座の舞台劇『生ける屍』に北原白秋が書き下した小唄3篇「さすらいの唄」「にくいあん畜生」「こんど生れたら」は大正6年(1917年)10月30日に「『生ける屍』小唄」として「時事新報」紙に発表されました。トルストイ原作の『生ける屍』はその10月30日を初日に11月5日まで明治座で上演され、翌大正7年(1918年)1月に松井須磨子の歌唱で「さすらいの唄」をA面、「今度生まれたら」をB面にレコード発売されました。このレコード(SP盤)は発売されるやいなや各地でレコードの発売禁止・放送禁止が起るとともに話題を呼び、30万枚近くを売り上げる爆発的ヒットとなりました。非常に低俗・頽廃的であり風俗紊乱に抵触するというのが発禁や放送禁止の理由でしたが、この『生ける屍』小唄3曲は芸術座の立ち上げから座付け作曲家となり、大正3年(1914年)すでにトルストイ原作の『復活』の挿入歌「カチューシャの唄」で大ヒットを飛ばしていた、当時小学校教員だった国民的作曲家・中山晋平(1887-1952)の名をますます高めるとともに日本における初の発禁レコードとなりました。中山晋平は同時代のバルトークとはまったく関係なしに、日本の現代音楽家で初めてペンタトニック音階を意図的に作曲手法とした天才的音楽的直観の作曲家でした。作詞家の白秋に1910年代末~1920年代初頭にすでにアメリカ大衆音楽からブルース形式を聴きとって作詞している驚異的な耳があったのは、白秋の童謡詩をご紹介した際に指摘した通りです。また島村抱月松井須磨子の恋愛、抱月の病死とその2か月後の須磨子の後追い自殺(縊死)は大正時代を象徴する事件として後世まで語り継がれています。

 さらに白秋の詩は主流現代詩として書かれた詩集よりも童謡詩や歌謡詩にこそ真の純粋さと豊かな内容を誇り、ほとんど民族的情緒と真実性の核心に迫った、痛切な感動を呼び覚ますものになっています。これらは意訳すれば古代ギリシャから唐詩選、ルネッサンス時代から近世ヨーロッパまで通じる普遍的な人間性を突いており、これが低俗なら人間という存在そのものが低俗なので、白秋が与謝野鉄幹・晶子門下で同年生まれの谷崎潤一郎と肩を並べる享楽的自由主義文学者の俊英だったことを思い起こさせます。この痴愚の世界は歌謡詩の分野でしか書き得ず、『邪宗門』の擬似頽廃的ゴシック象徴詩、『思ひ出』の甘美な懐旧的抒情詩よりも人生そのものに肉薄している点で、気取りや粋がりを含めた白秋の肉声を伝えてくれる素晴らしい詩です。これが一抹も教訓的でなく、ユーモアすら混じえて庶民的な死生観を伝えてくれる見事さは無類のものです。大正6年は白秋の門下生から萩原朔太郎(1886-1942)の第1詩集『月に吠える』(2月)が刊行され、大正7年室生犀星(1889-1962)の第1詩集『愛の詩集』(1月)・『抒情小曲集』(9月)の年ですが、『生ける屍』小唄3篇「さすらいの唄」「にくいあん畜生」「こんど生れたら」は、やはり白秋を代表する童謡詩「赤い鳥」「からたちの花」「ペチカ」とともにその純真さ、無心さ、純粋さとともに円熟しきっており、限りなく永遠に近づいています。逆にこの方向では日本の詩は白秋を越えられないために現代詩は白秋を置きざりにして発展してきたとも言えるので、白秋は大詩人ゆえに日本の現代詩史において孤立してしまった詩人でもあるのです。

「こんど生れたら」

 北原白秋

今度生れたら驢馬に乗つておいで。
驢馬はよいもの、市場へ連れて、
そこで燕(からす)麦しこたま貰ろて、
かわい女子(おなご)と乗つて帰ろ。

今度生れたら金箱もつておいで。
金はよいもの、呉服屋を呼んで、
そこで緋繻子をどつさり買つて、
かわい女子と寝て暮らそ。

今度生れたら鵞鳥(がちょう)抱いておいで。
鵞鳥はよいもの香水屋を呼んで、
そこで卵と品(しな)よく代えて、
かわい女子とおめかしに。

今度生れたら酒樽背負つておいで。
酒はよいもの、たらふく飲んで、
そこでまたまた卒倒して死んで、
かわい女子を置きざりに。

(舞台劇『生ける屍』大正6年=1917年より)

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