人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年10月28日・29日/ルイ・デリュック(Louis Delluc, 1890-1924)のたった4本(前)

 Coffet Integral Louis Delluc PV : https://youtu.be/vkIUGEO-fgw (6:45)

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 フランスのサイレント映画がようやく独自の特色を示した頃の代表的な映画監督がルイ・デリュック(1890-1924)です。フランスはエジソン(アメリカ)と同時に写真技術者リュミエール兄弟が映画フィルムを発明しており、1895年からリュミエール兄弟は数秒~数分の実写短編映画を60本あまり撮影、公開しました。20世紀に入るとトリック撮影を売り物にしたジョルジュ・メリエス(短編「月世界旅行」'02が著名)が現れ、1904年頃からは小説や戯曲の原作によるドラマ映画が製作され始められます。イタリアの史劇映画に影響を受けて短編映画の連作長編化も進みましたが、画期的ヒット・シリーズになったのがルイ・フィヤードの犯罪活劇『ファントマ』'13~で、映画ならではのフィクションがここで始まりました。1910年代後半には俳優兼監督のアベル・ガンスがドラマ映画と活劇映画からさらに進めた本格的な長編劇映画を指向し、『悲しめる母』'17、『第十交響曲』'18に続いて第1次世界大戦に材を取った3時間の大作『世界と平和(原題『私は告発する!』)'19を発表、同作はフランス、ヨーロッパ全土で大ヒットし、日本でも高く評価され、ガンスはフランス映画におけるD・W・グリフィスの位置を占める監督になります。ガンスの影響下でフランスには映画独自の芸術意識が芽生え、'20年前後にはマルセル・レルビエ、ジェルメーヌ・デュラック、ジャック・フェデー、ジャック・ド・バロンセリ、レオン・ポワリエら芸術派の映画監督たちがデビューし始めますが、レルビエやデュラックを映画批評の面から応援して「フォトジェニー」という映画独自の美学概念を提唱し、自ら監督になり、ジャン・エプスタンやジャン・ルノワールルネ・クレールジャン・グレミヨンら'20年代半ばにデビューした映画監督たちとガンス~レルビエ、フェデーらの世代との橋渡しになったのがルイ・デリュックです。一般にはデリュックはどのような業績を残した人とされているか。武蔵野美術大学のサイトでは次のように紹介されています。

ルイ・デリュック
Louis Delluc
生年月日
DATE OF BIRTH 1890/10/14
没年月日
DATE OF DEATH 1924/03/22
出身地
BIRTH PLACE フランス/France, カドゥーアン
経歴 大学を目指すもののジャーナリストを志して断念、演劇雑誌の編集部に入る。やがて女優のエブ・フランシスと知り合い、演劇や映画に興味をもつようになる。小説や戯曲を発表しながら映画雑誌に映画評を書き始め、1919年に脚本家としてデビューした。映画雑誌『ル・ジュルナル・デュ・シネ=クラブ』を創刊した後、1920年に監督第一作を発表する。1921年には新たな雑誌『シネア』を創刊。以降、5本の作品を監督するが、33歳の若さで病死した。1937年にはその業績を記念して、実験性・芸術性の高いフランス映画に贈られる“ルイ・デリュック賞”が設けられている。評論家としての著書に、『シネマ商会』『フォトジェニー』『映画のジャングル』などがある。
(武蔵野美術大学人名サイトより)

 日本語版ウィキペディアではもう少し詳しく紹介されています。少し加筆して、こちらもご紹介しておきましょう。

●ルイ・デリュック(Louis Delluc、1890年10月14日 カドゥアン、現ル・ビュイソン=ド=カドゥアン - 1924年3月22日 パリ)は、フランスの映画監督、脚本家、映画批評家、著述家。33歳で夭折したが少数の映画作品と数々の著作を残し、毎年の最高のフランス映画に与えられる「ルイ・デリュック賞」に名を残す。
[ 来歴・人物 ]
○1890年10月14日、フランス・ドルドーニュ県カドゥアンに生まれる。1903年、家族とともにパリに移り住む。古典を修めたのち、ジャーナリズムの道へ進む。スペクタクル芸術の批評、詩、小説などたくさんのものを書いた。芸術映画、ニュース映画、軽映画など当時の映画に対しては非常にクリティカルであった。
○戦時中、ポール・クローデルのミューズであり通訳であるエーヴ・フランシス(1886-1980)と結婚した。彼女がデリュックにアメリカ映画を発見させた。
○1917年から、映画批評の世界に身を投じ、数え切れないほどの記事や草稿を書き、「シネアスト」という語を発明した。幼なじみのレオン・ムーシナックとともに、フランスにおける初めての独立系理論家、批評家となった。
○わずか5年のうちに、横溢する活動の兆候を示す。雑誌『Le Journal du Cine-club』と『Cinea』を編集し、複数のシネクラブを創設し、とりわけ7本の映画を演出した。なかでも2本はフランス映画史に残る作品である。『さまよう女』(1922年)と『狂熱』(1921年)である。彼の演出は、自然な美術装飾を生かし、ジェスチャー表現や突発的変化を抑えたもので、アベル・ガンス(1889-1981)、ジェルメーヌ・デュラック(1882-1942)、マルセル・レルビエ(1890-1979)、ジャン・エプスタン(1897-1953)、ルネ・クレール(1898-1981)など、トーキー出現までの1920年代映画を特徴づける前衛映画の先駆であった。
1924年、最後の映画『洪水』をローヌ川の谷で撮影した。非常に悪い気候条件にあって、ルイ・デリュックは恐るべき肺炎に罹患する。同年3月22日、33歳と数週間の生涯を閉じる。
[ フィルモグラフィ ]
*黒い煙 Fumee noire (1920年/監督)
*沈黙 Le Silence (1920年/監督)
エルノアへの道 Le Chemin d'Ernoa (1921年/監督・脚本)
狂熱 Fievre (1921年/監督・脚本)
*雷 Le Tonnerre (1921年/監督)
さすらいの女 La Femme de nulle part (1922年/監督・脚本)
洪水 L'Inondation (1924年/監督・脚本) 遺作(歿後公開)、マルセル・レルビエ監修
*の3作はフィルム散佚作品

 日本では28分に短縮され完全な無字幕映画に編集された『狂熱』がVHSテープ時代に発売され、上映プリントも短縮版しかありませんでしたが、2015年にフランスのドキュメンツ・シネマトグラフィーク社のシネマテーク・フランセーズ・シリーズから3枚組ボックスで現存する最良のプリントをデジタル・リマスターし、新規の音楽と英語字幕つきのルイ・デリュック全集がDVD発売されました。デリュック作品は全監督作品7作(武蔵野美術大学サイトの「5本」はまちがい)中『エルノアの道』『狂熱』『さまよう女』『洪水』の4作しかフィルムが現存しないのでDVDのディスク1、2に4作を2作ずつ収録し、ボーナス・ディスクのディスク3はデリュックについてのドキュメンタリーや研究、デリュックが監督デビュー前の批評家時代に脚本を提供したジェルメーヌ・デュラックの『スペインの熱狂』の抜粋版、デリュックが生前に論じたチャップリンとマック・セネットの喜劇短編とウィリアム・S・ハートの西部劇の抜粋が資料映像として収められています。2013年にアメリカのフリッカー・アレイ社から出た幻の名作5作品を初DVD化したボックス・セット『アルバトロス社作品集1923-1928』、2014年にフランスのポチョムキン・フィルム社から出た14作品・8枚組DVDボックスのジャン・エプスタン作品集と較べると装丁・ブックレット・音楽(アコーディオン演奏のみ)、リマスター状態ともにやや貧弱ですが、デリュック自身が映画賞(皮肉なことにフランス最高の映画賞の一つとされています)に名を残すものの作品はまったくと言えるほど顧みられない映画監督なので(かえって映画論集の方が古典になっているようです)DVD全集が発売されただけでも勇断と言えるでしょう。キネマ旬報社刊『フランス映画史』(岡田晋・田山力哉著)では岡田晋氏が「デリュックは理論家であり組織者であり実践家であった。その病身は激務に耐えられなかったのだろうし、経済的にほとんど恵まれなかったという。だがデリュックは今日もなおフランス映画を語る時、必ず第一に出て来る名前である。イメージの美しさ、心理主義、日常的なリアリズム、これらフランス映画のスタイルは、いずれも彼の主張にほかならない」と称揚しています。そして実際、犯罪活劇のフィヤードはもちろん少し先輩のガンス、レルビエらとデリュックを分ける革新性は「イメージの美しさ、心理主義、日常的なリアリズム」なのです。なおあらすじは「キネマ旬報」なつかしの「近着外国映画紹介」風にまとめてみました。

●10月28日(土)
『エルノアへの道』(パリシア・フィルムス'21/8/4)*50min, B/W, Silent with Sound : https://youtu.be/QG2PbIoRTjk (Extrait, 3:35)

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○あらすじ フランスのバスク地方、スペイン国境近くの村エルノアのはずれに「アメリカ人」と呼ばれる男が自分で家を建てて住みつく。その男エッシェゴール(アルベール・デュレック)はシカゴで石職工をして帰ってきて、今は画家と詩人の生活をしており、純情な町娘サンタ(プリンセッシ・ドゥージャム)とその弟ドミンゴ(ジャン=バプティステ・マリカラール)に慕われていた。しかしエッシェゴールは村で女王(マジェスティ)と呼ばれる有閑マダム(エーヴ・フランシス)に恋しており、サンタの恋心に気づかない。サンタは女王の怪しい素性とエッシェゴールを翻弄する様子を見て村を離れるのを忠告する。そこにアメリカ製のスポーツカーに乗って女王の夫パーネル(ガストン・ジャケー)が帰ってくる。パーネルと引きあわされたエッシェゴールは驚愕し、その晩パーネルを訪ねて、シカゴで仕事中に目撃した銀行強盗本人であると確認する。エッシェゴールは警察に通報するか悩むが、パーネルに脅され、女王に口外しない宣誓書への署名を迫られる。通りかかったサンタが妨害し、エッシェゴールは警察への通報とパーネルの隠れ家への案内に向かう。パーネルは警官を巻いて逃走するが、エッシェゴールは追い詰めてスペイン国境を越えるよう促す。パーネルに「妻に渡してくれ」と大金を託され「スペインで真面目にやり直す」と言付けされたエッシェゴールは、入れ違いにサンタと言い争っていた女王を訪ねてお金を渡して言付けを伝え、パーネルのスポーツカーでパーネルを見送ったスペイン国境へ向かう。猛スピードで疾走しながらエッシェゴールは女王に自分と残らないかと請うが、女王は夫とスペインで暮らす、と答え、サンタが弟と村を出て行くとエッシェゴールに伝える。女王をスペイン国境に下ろしたエッシェゴールは駅のホームで待つサンタ姉弟を迎えに急ぎ、エルノアへの帰りの道に就く。

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 現存する一番古いデリュック監督作品。しかしサイレント時代に製作された映画は75%の本数が廃棄されているそうですから7作中4作が残っているのはまだしもなのです。1921年というとチャップリンの『キッド』の年、前年にはグリフィスの『東への道』、翌年には『嵐の孤児』があり、またドイツではフリッツ・ラングが『死滅の谷』を発表した年で、『ドクトル・マブゼ』二部作はその翌年です。こうしたサイレント時代の傑作群はたいへんドラマチックでスケールや身振りも大きいのが特徴で、比較的現実的なチャップリンの映画にしても描かれるドラマは登場人物にとっての大事件であり、観客にとって非常に感情的な訴求力が強い点で大作映画と同じ性格を持っています。本作を観ると、フランスの片田舎の村でシカゴに出稼ぎに行っていた男と偶然目撃された銀行強盗が一人の女性を介して再会する、というのはあまりに都合の良すぎる偶然ですが、その無理な設定を等閑視すれば本作はドラマらしいドラマもなく、村の隠者然として暮らしていた男が純情な村娘の愛に気づく話というだけに還元されてしまいます。実際本作は落ち着いた語り口、ほとんど屋外ロケーションと実際の建物・街並みを使い、場所も登場人物も極めて限定されている点で同時代のサイレント時代の映画作品と明らかに異なる指向を持っています。ドラマチックなアメリカ映画はもちろん大作主義と人工的な映像を追究したガンスやレルビエの映画とも異なり、むしろ'60年代以降のトリュフォーロメールの映画に近いのです。美術はレルビエやエプスタンの作品にも起用され、後に実験的ドキュメンタリー映画『時のほか何ものもなし』'26を作ったアルベルト・カヴァルカンティが担当していますが、撮影のために製作されたセットと思われるのはごく一部で、撮影班に入って調度を整える役割としての美術担当だったのではないかと思えます。映像はほとんど固定ショットでたまに少しパンする程度ですが、構図の見事さとカット割りの巧みさが光ります。インタータイトル(字幕画面)はサイレント映画としてはかなり少ないのですが、切り返しカットで人物を良いテンポで交互に見せ、アングルも変えていくことで最小限の会話字幕で十分に会話のやり取りが伝わってきます。アイリス・イン、アイリス・アウトはサイレント時代にはよく使われ、トーキー以降もB/W映像の映画ではたまに使われていた技法ですが、本作を観るとサイレント映画のアイリス・イン~アウトの必然性がわかります。音声を伴うトーキーでは音環境の位相の変化が明確な場面転換になりますが、伴奏音楽だけのサイレント映画では普通のカットつなぎでは同じ場面が継続しているように見えてしまう。アイリス・イン~アウトでカットが区切られているのならはっきり場面転換したのがわかるので、字幕画面で区切るのではない場合は(つまり本作のように字幕をなるべく入れない作品の場合は)アイリス・イン~アウトが場面転換字幕の代わりに多用されることになり、これは現在の目から観るとやや煩瑣に見えないでもありません。しかし同時代のアメリカ映画の強いドラマ性、ドイツ映画の表現主義の興隆と並べると本作は早すぎたミニマリズム映画とも言ってよく、脚本はデリュック自身のオリジナル・シナリオですが自作脚本で映画を作る監督の陥りやすい饒舌さがまったくありません。デリュックは享年33歳の早逝の人ですが監督した映画作品7作以外にも十数冊の著書があり、長編小説も数冊書いています。しかし小説は小説、映画は映画、と映画に小説的な話法は一切用いず、映像によって綴る(いわゆる「フォトジェニー」理論)、という方法的自覚がはっきりありました。地味な映画ですし、佳作とまでもいかないでしょう。しかしサイレント時代の昔にあっても、これが現代映画の始まりと目せるさりげない革新性が確かにここにはあります。特にロケーション撮影だからこそとも言える構図の決まり具合は絶品で、これだけの映像センスを持ってしてもそれだけでは映画としては物足りない難しさも感じさせます。

●10月29日(日)
『狂熱』(アルハンブラ・フィルム=ジュピター・フィルムス'21/9/21)*45min, B/W with Color Tinted, Silent with Sound : https://youtu.be/ln9KKBHEYSw (Extrait, 3:12) : https://youtu.be/GWlSpIQmScg (Short Version within preface with Japanese subtitle, 29:01)

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○あらすじ 港町マルセイユの小さな酒場で、主人のトピネリ(ガストン・モドー)とその妻サラ(エーヴ・フランシス)は、ギャンブルに興じ、酒や阿片に酔いしれる客を今日ももてなす。航海に出た婚約者を待っていると毎日のように現れる若い女(ソランジュ・シカール)にサラはかつての自分を重ねる。そこへ、長い航海を終えた船員たちがやってくる。船員目当ての夜の女たちも続々と押し寄せ、店は一気ににぎわい始めた。サラは船乗りたちの中に、かつての恋人だったミリティス(エドモン・ヴァン・ダエル)の姿を見つける。サラに気づいたミリティスは、航海先で高熱にうなされた病床で看護してくれた東洋人の女(エレーナ・サグラソ)を連れており、サラに妻だと紹介する。気まずい雰囲気を破って、自動ピアノに合わせて踊り始めるサラとミリティスを見たトピネリは、二人の関係に気づく。そこへたまたま酔った客同士の喧嘩が始まり、釣られたようにトピネリとミリティスは殴り合いになる。ミリティスの妻の中国女は夜の女たちにリンチにかけられる。客同士の喧嘩は店の外にまで及び、やがて警官が駆けつける。殺された客はドアの外に蹴り出され、重傷の客は店の隅でうめき、東洋人の女は床に崩れ、夜の女の一人は息も絶えだえにカウンターの花を手に取り造花に祈りを捧げ、ミリティスは昏倒して動かず、トピネリは姿を消す。警官に囲まれながらサラはミリティスの遺体にアデューと叫んで引き立てられていく。

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 デリュック作品というと本作か『さまよう女』になるのが定評でしょう。45分とは1921年の映画としてはぎりぎり長編に入るもので、あらすじの通り外景は港から見える海原くらいしか映りません。酒場の中だけで展開する映画で、つまり前作『エルノアへの道』とは反対に全編一つのセット撮影なのですが、全編ロケの前作も実験的なら全編1セットというのも相当な実験で、グリフィス以前の短編映画やキーストン・スタジオ(マック・セネット主宰)の10分未満の短編喜劇のような、ほとんどコント程度のものならセットが1箱でもいいでしょうが、数シークエンス(通常1時間半~2時間の映画は10~12シークエンスでできています)をかさねる本格的な短編映画以上のものはセットを組むなら数セットは必要になるわけです。しかし本作は、玄関口を外から撮ったり闇の中で酔客同士がもつれあっている瞬間的な挿入カット(またヒロインのサラ、昔の恋人の船員ミリティスの回想)は少しありますが、それはあくまで挿入カットでしかなく、現在進行形のドラマはすべて酒場の中で起きるのがこの作品の実験になっています。そのためにデリュックが取った手段は役名のついた客だけでも20人あまりを登場させ(客全体では30人ほどでしょうか)、数カットずつでも20人もの登場人物のリアクションを平行して観せていき、特にヒロインが直接関わる人物とは独立したシークエンスとなるようなやり取りを観せることでした。酒場の客の大半(そして職業女たちをも)が「ちびの小役人」「阿片パイプの女」「暴君」「マドモワゼル忍耐(船員の婚約者を待ち続ける若い女)」「梅毒持ち」「ポン引き」「短小」「灰色の帽子の男」「アル中」「東洋人女」「花の女」という調子で次々と字幕で紹介されます。この簡潔な字幕画面(インタータイトル)と一瞬の人物ショットで表現する手法はエイゼンシュテインモンタージュを先駆けています。「マドモワゼル忍耐」との会話も最小限の字幕(会話のテーマ)だけは必要なので、本作が28分の短縮完全無字幕版で鑑賞されては正当に評価しようがないでしょう。こうした、1時間半の映画のさらに半分の長さしかない映画に長編映画といえるほどの構成を与え、かつ統一感を図るには、多彩かつ多数の登場人物をかいくぐるように交互に焦点を当ててシークエンスに分割し、酒場という同一舞台に集約させておく必然性があったわけで、フランス古典演劇の三一致法(時、場所、筋の統一)に発しながら演劇ではない映画ならではの応用を試みてかなりの成功を治めた作品といえます。つまりこれは、演劇では本作のシナリオをそのまま舞台に乗せたとしても描写の不足が生じます。例えば「阿片パイプの女」と字幕とともに隅のテーブル席で一人、イギリス人風の服装で目深にでかい帽子を被った女がパイプをもの憂げにくゆらせている短いショットが映る。映画ならこれだけで印象的ですが、演劇ではこうしたクローズアップ効果は難しく、一人ひとりをピックアップした演技の場が必要になってきます。すると演劇なら当然台本の時点でもっと冗長になってくるので、本作のように凝縮した表現にはなりません。フランスの映画批評・理論の開祖とも言えるデリュックが映画の原理を「フォトジェニー」と呼んだのもこの映像の凝縮性で、デリュックの影響下に映画批評・理論から監督デビューしたジャン・エプスタン(『アッシャー家の末裔』'28が有名)には本作に直接影響を受けた初期傑作『まごころ』'23があり、これは盟友ルネ・クレール(ガストン・モドーは『巴里の屋根の下』'30、ブニュエルの『黄金時代』'30の主演俳優になります)からも「フランス映画における『散り行く花』('19、グリフィス)」と讃辞を寄せられジャン・コクトー、もっとも尊敬する先輩アベル・ガンスにも賞賛された監督デビュー年の劇映画第2作ですが(前年にドキュメンタリー監督作品あり)、港町を舞台に二人の青年と一人の少女の三角関係を描いた作品で、『狂熱』の影響は明らかですが主要人物3人に焦点を絞って時間の流れを延長させており(少女は積極的な青年と結婚するが暴力をふるわれるようになり、旧友の青年が相談相手になるが暴力夫が嫉妬して刃傷沙汰に発展し、暴力夫は第三者に怨まれて殺され、少女は旧友の青年と晴れて再婚する)、三角関係の構図でも『狂熱』とは相当印象の異なる作品になっています。タイム・スパンも長い物語のため映画も83分と『狂熱』の倍近い長さですし、一般的には『まごころ』の方が映画らしい映画と見なされるでしょう。エプスタンはデリュックの「フォトジェニー」理論を受け継いだ映画批評・理論家で映画監督でしたが、デリュックの「フォトジェニー」が『狂熱』では垂直的なインパクトに重点を置いていたとすれば、エプスタンの『まごころ』は水平的な方向に「フォトジェニー」の可能性を探った作品と言えます。デリュックの発想は絵画的すぎて、時間芸術としての映画という側面を本作ではあえて極端に圧縮してしまった、とも言え、かなりの成功ではあってもくり返しの利かない手法による作品でしょう。事実、4作のみ残っているデリュックの映画でもこれは本作だけの手法で、第6作『さまよう女』でも遺作になった第7作『洪水』でもデリュックはそれぞれ異なる手法を試みることになります。また、本作の字幕画面(インタータイトル)の特異な用法は全集版のリマスター復原版からの抜粋(Extrait)でも鮮烈ですが、残念ながら全編のリンクはなく、廃盤の日本版ホームヴィデオの短縮版のリンクをご紹介しました。おそらくデリュック歿後に完全無字幕の短縮版が作られたのは、字幕の内容が差別表現もさることながら不道徳的・頽廃的な世界を描いているために、商業流通上の理由から削除されたと推定できるのです。