人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源(17); 三好達治詩集『測量船』(i)

 三好達治(1900.8-1964.4)昭和29年9月/54歳
 (撮影・浜谷浩)

イメージ 1

 現代詩史上でも画期的な役割を果たした口語自由詩の完成についてもっとも重要な二人の詩人、高村光太郎萩原朔太郎のそれぞれ最後の詩集になった『典型』(高村)と『氷島』(萩原)を読んできて、この後予定では、萩原朔太郎の出発と帰結について、本格的な詩作発表(大正2年=1913年5月~大正3年5月)の最初1年間の作品を集めた「愛憐詩篇」と、晩年の文語詩編の始まりとなった大正12年(1923年)~大正14年の「郷土望景詩」を詩集前半・後半に収めた詩集『純情小曲集』(大正14年=1925年8月刊)を俎上に載せたいと思います、と前回で予告しましたが、主に萩原朔太郎について考えているうちに自然と『三好達治全集』を読み返す時間が多くなり、ひょっとするとこれは大変なものではないか、という気がしてきました。三好達治というと、義務教育の国語教科書にも載る詩人ですからつい当たり前のように読んでしまう。しかし、そうした国語教科書採用率のもっとも高い第一詩集『測量船』は、萩原の秘書も勤めていたほどの愛弟子で、高村にも非常に敬意を払っていたのとは裏腹に、詩作品の上では決定的に萩原や高村の詩を過去の詩として葬り去った働きを果たしたのではないか、と思われるのです。三好が『測量船』収録の作品を書いていた頃、高村は『猛獣篇』の連作や『智恵子抄』の先駆詩編、萩原は『氷島』に収録される詩編を書いていました。
 三好の『測量船』は、あるいは新しい『若菜集』(島崎藤村明治30年=1897年)だったかもしれませんが、現代詩をはっきりとフィクションとして成り立たせることで、高村や萩原に強くあった文明批判的な思想的背景なしでも詩は可能であり、むしろ審美性の高さや抒情詩として汎用性の高い自由詩のフォーマットを、高村や萩原らの詩法を注意深く避けて――唯一、室生犀星の『抒情小曲集』(大正7年=1918年)の文体を部分的に反映した小品が数編ありますが、犀星は高村や萩原のような思想詩的側面は稀薄な分、語感の官能性では抜きん出ていました。三好の詩がオーソドックスでも何でもなく、高村光太郎萩原朔太郎の詩とはまったく別の意識で書かれた、実験的なまでに破壊性の強いものであることは注意されるべきことでしょう。戦後の詩人たちは三好達治について語るのを意識的に避けていましたが、戦後詩のもっとも基礎的な文体が高村光太郎でも萩原朔太郎でもない、ましてや宮澤賢治八木重吉中原中也立原道造でもない――これらの詩人はモラリストでなくてもイデアリストでしたが、三好はモラルにもイデアにも拠らない詩人でした。『測量船』は、もし今年刊行の新人詩人の第一詩集だとしても通用する内容の詩集で、多彩な文体と題材を見事に統一した驚異的な完成度に絶賛を集めるでしょう。読み進んでいく前に、まず本文をご紹介します。

 詩集『測量船』第一書房「今日の詩人叢書」
 第二巻、昭和5年12月20日刊(外箱)

イメージ 2

        書籍本体

イメージ 3

      三好達治揮毫色紙

イメージ 4



        測 量 船

        三 好 達 治


  春 の 岬

春の岬旅のをはりの鴎どり
浮きつつ遠くなりにけるかも
 
 (詩集書き下ろし)


  乳 母 車

母よ――
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花(あぢさゐ)いろのもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり

時はたそがれ
母よ 私の乳母車を押せ
泣きぬれる夕陽にむかつて
輪々(りんりん)と私の乳母車を押せ

赤い総(ふさ)ある天鵞絨(びろおど)の帽子を
つめたき額(ひたひ)にかむらせよ
旅いそぐ鳥の列にも
季節は空を渡るなり

淡くかなしきもののふ
紫陽花いろのもののふる道
母よ 私は知つてゐる
この道は遠く遠くはてしない道

 (「青空」大正15年6月)


  雪

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

 (「青空」昭和2年3月)


  甃 の う へ

あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音(あしおと)空にながれ
をりふしに瞳(ひとみ)をあげて
翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍(いらか)みどりにうるほひ
廂々(ひさしひさし)に
風鐸(ふうたく)のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃(いし)のうへ

 (「青空」大正15年7月)


  少 年

夕ぐれ
とある精舎(しやうじや)の門から
美しい少年が帰つてくる

暮れやすい一日(いちにち)に
てまりをなげ
空高くてまりをなげ
なほも遊びながら帰つてくる

閑静な街の
人も樹も色をしづめて
空は夢のやうに流れてゐる

 (「青空」大正15年8月)


  谺

 夕暮が四方に罩(こ)め、青い世界地図のやうな雲が地平に垂れてゐた。草の葉ばかりに風の吹いてゐる平野の中で、彼は高い声で母を呼んでゐた。

 街ではよく彼の顔が母に肖(に)てゐるといつて人々がわらつた。釣針のやうに脊なかをまげて、母はどちらの方角へ、点々と、その足跡をつづけていつたのか。夕暮に浮ぶ白い道のうへを、その遠くへ彼は高い声で母を呼んでゐた。

 しづかに彼の耳に聞えてきたのは、それは谺(こだま)になつた彼の叫声であつたのか、または遠くで、母がその母を呼んでゐる叫声であつたのか。

 夕暮が四方に罩め、青い雲が地平に垂れてゐた。

 (「青空」昭和2年3月)


  湖 水

この湖水で人が死んだのだ
それであんなにたくさん舟が出てゐるのだ

葦(あし)と藻草(もぐさ)の どこに死骸はかくれてしまつたのか
それを見出した合図(あひづ)の笛はまだ鳴らない

風が吹いて 水を切る艪(ろ)の音櫂(かい)の音
風が吹いて 草の根や蟹の匂ひがする

ああ誰かがそれを知つてゐるのか
この湖水で夜明けに人が死んだのだと

誰かがほんとに知つてゐるのか
もうこんなに夜が来てしまつたのに

 (発表誌不詳)


  村

鹿は角に麻縄をしばられて、暗い物置小屋にいれられてゐた。何も見えないところで、その青い眼はすみ、きちんと風雅に坐つてゐた。芋が一つころがつてゐた。

そとでは桜の花が散り、山の方から、ひとすぢそれを自転車がしいていつた。
脊中を見せて、少女は藪を眺めてゐた。羽織の肩に、黒いリボンをとめて。

 (「青空」昭和2年6月)


  春

鵞鳥。――たくさんいつしよにゐるので、自分を見失はないために啼いてゐます。

蜥蜴。――どの石の上にのぼつてみても、まだ私の腹は冷めたい。

 (「青空」昭和2年6月)


 村

 恐怖に澄んだ、その眼をぱつちりと見ひらいたまま、もう鹿は死んでゐた。無口な、理窟ぽい青年のやうな顔をして、木挽小屋の軒で、夕暮の糠雨に霑(ぬ)れてゐた。(その鹿を犬が噛み殺したのだ。)藍を含むだ淡墨いろの毛なみの、大腿骨のあたりの傷が、椿の花よりも紅い。ステッキのやうな脚をのばして、尻のあたりのぽつと白い毛が水を含むで、はぢらつてゐた。
 どこからか、葱の香りがひとすぢ流れてゐた。
 三椏(みつまた)の花が咲き、小屋の水車が大きく廻つてゐた。

 (「詩と詩論」昭和4年12月、原題「林」)


  落 葉

 秋はすつかり落葉になつてその鮮やかな反射が林の夕暮を明るく染めてゐる。私は青い流れを隔てて一人の少女が薄の間の細道に折れてゆくのを見る。そこで彼女はぱつちりと黒い蝙蝠傘をひらく。私は流れにそつて行く。私は橋の袂にたつ。橋の名は「こころの橇」。水の面にさまざまの観念が、夕映に化粧する。私は流にそつて行く。私は橋の袂にたつ。橋の名は「鶫」。その影が水の面に顫へてゐる。私は杖に身をもたせる。私は遠くにまた橋を見る。また橋を。その橋の名は?――その橋の名は私がつけよう、「私のものーくる」。
 そして日は暮れ易い。もう私の散歩があまりに遠くはないだらうか?

 (「詩と詩論」昭和4年12月、原題「村」)


  峠

 私は峠に坐つてゐた。
 名もない小さなその峠はまつたく雑木と萱草(かやくさ)の繁みに覆ひかくされてゐた。××ニ至ル二里半の道標も、やつと一本の煙草を喫ひをはつてから叢の中に見出されたほど。
 私の目ざして行かうとする漁村の人人は、昔は毎朝この峠を越えて魚を売りに来たのだが、石油汽船が用ひられるやうになつてからは、海を越えてその販路がふりかへられてしまつたと私は前の村で聞いた。私はこの峠までひとりの人にも会はずに登つてしまつた。
 路はひどく荒れてゐた、それは、いつとはなしに雨に洗ひ流されて、野茨や薄の間にともすれば見失はれ易く続いてゐた。両側の林では野鳩が鳴いてゐた。
 空は晴れてゐた。遠く、叢の切れた一方に明るく陽をうけて幾つかの草山が見え、柔かなその曲線のたたなはる向ふに藍色に霞んだ「天城(あまぎ)」が空を領してゐる。私の空虚な心は、それらの小山を眺めてゐるとほどよい疲労秋日和に慰められて、ともすれば、ここからは見えない遠くの山裾の窪地とも、またはあの山なみの中腹のそのどこかとも思へる方角に、微かな発動機船の爆音のやうなものを聞いたのだつたが、(それはしばらく続いてゐたらしいのだが、)ふと、訝(いぶ)かしく思へて耳を澄まして見ると、もう森閑として何のもの音も聞えて来なかつた。時をり風が叢を騒がせて過ぎ、蜂の羽鳴りがその中を弓なりに消えていつてはまたどこからか帰つて来た。翼の白い燕が颯々と羽風を落していつた。
 私は考へた、ここにかうした峠があるとするからは、ここから眺められるあの山々の、ふとした一つの襞の高みにも、こことまつたく同じやうな小さな峠があるだらう。それらの峠の幾つかにも、風が吹き、蜂や燕が飛んでゐるだらう、そこにも私が坐つてゐる――と。そして私は、足もとに点々と咲いた白い小さな草花を眺めながら、それらの覆ひかくされた峠の幾つかをも知ることが出来た。
 私は注意深く煙草の火を消した。午後ははや少し遅くなつてゐた。そしてこの、恐らくは行き会ふ人もないだらう行手を思ひ、草深い不案内な降り道を考へると、人人の誰からも遠く離れた私の鳥のやうな自由な時間も、やはりあわただしく立ちあがらなければならないのを味気なく感じた。既に旅の日数は重なつてゐた。私は旅情に病の如き悲哀を感じてゐた。しかし私にあつて今日旅を行く心は、ただ左右の風物に身を托して行く行く季節を謳つた古人の心でなければならない。もうすぐに海が見えるであらう。それだのに私の心の、何と秋に痛み易いことか!
 ああ、その海辺の村の松風を聴き、暗い旅籠(はたご)の湯にひたり、そこの窓に岬を眺めよう、その岬に陽の落ちないうちに――。そして私は心に打ち寄せる浪の音を聞いた。私は峠を下つた。

 (「詩神」昭和5年5月)


  街

 山間の盆地が、その傷ましい、荒蕪な杯盤の上に、祈念の如くに空に挈(ささ)げてゐる一つの小さな街。夜ごとに音もなく崩れてゆく胸壁によつて、正方形に劃(かぎ)られてゐる一つの小さな街。その四方に楊の並木が、枝深く、すぎ去つた幾世紀の影を与へてゐる。今も明方には、颯々と野分のやうな羽音を落して、その上を水色の鶴が渡つて行く。昼はこの街の楼門から、鳴き叫ぶ豚の列が走りいで、転がり、しきりにその痩せた黒い姿を、灌木と雑草の平野の中に消してしまふ。もしもその時、異様な哀音の軋るのを遠くに聞くならば、時をへて並木の影に、小さな二輪車が丘のやうな赭牛の項(うなじ)に牽かれて、夏ならば瓜を積み、秋ならば薪を載せ、徐(おもむ)ろに、楼門の方へと歩み去るのを見るだらう。木の肌も黒く古びてしまつた楼門の、楯形に空を見透かす格子の中に、今は鳴ることすらも忘れてしまつた小さな鐘が、沈黙の昔ながらの威厳をもつて、ほのかに暗く、穹窿をなした天井に浮んでゐる。崩れるがままに崩れ落ちて行く胸壁の上に、または茂るがままにうら白く茂つてゐる楊の中に、鵲は集り、飛びかひ、白い斑のある長い尾を振り、終日石を敲くやうな叫びをあげてゐる。なほその上にも、たまたま月が上旬の終りに近く、その一抹の半円を、遠く散在する粟畑玉蜀黍畑の上、骨だつた山脈の上、杳(はる)かな昼の一点に傾けてゐるとしたならば、人はみな、荒涼たる風景を浪うち覆ふ、嘗て如何なる文化も手を触れなかつた寂寥の中に、おのがじしそのよるべなき運命を一瞬にして身に知り歎くであらう。そしてこの胸壁を周らした小さな街は、四囲の寂寥をしてさらに悲しきものとするために、時ありて幾条か、静かに炊爨(すゐさん)の煙を空に炊くのである。
 昔、この街を営むために、彼等の祖先は山脈のどちらの方角を分けてやつて来たのであらうか。この街の出来あがつた日、彼等の敵は再び山脈のどちらの方角を分けてやつてきたのであらうか。そして、この胸壁が如何に激しい戦を隔てて二分したのであらうか。それら総ての歴史は気にもとめずに忘れられ、人人はひたすらに変りない習慣に従つて、彼等の祖先と同じ形の食器から同じ黄色い食物を摂とり、野に同じ種を播き、身に同じ衣をまとひ、頭に同じ髷同じ冠を伝へてゐる。それが彼等の掟ででもあるかの如く、彼等は常に懶惰であり、時を定めず睡眠を貪り、夢の断えまに立ちあがつては、厚い胸を張り、ごろごろと喉を鳴らして多量の水を飲みほすのである、気流がはげしく乾燥してゐるために。
 やがて夜が来たとき、満潮に呑まれる珊瑚礁のやうに、暗黒と沈黙の圧力の中に、どんなに暗く、この街は溺れさり沈みさるのであらうか。そしてその中で、どんな形の器にどのやうな灯火がともされるのであらうか。もしくは灯火の用とてもないのであらうか。私はそれを知らない。今も私は、時として追憶の峠に立つて、遠くにこの街を眺めるのであるが、私の記憶は、いつも、太陽の沈む方へといそいで帰つてしまふのである。

 (「青空」昭和2年5月)


  秋 夜 弄 筆

 日かず経て呼子鳥啼かずなりしを、それかともききあやしみて外のもに出づれば、音に澄みて鳴けるは遠き蟋蟀(こほろぎ)なりけり。柿の実したたかに石に落ち、空を仰ぐに風早く雲飛んで月もまた飛ぶこと早し。野に蕭殺の兆ありて客心を痛ましめ、夜頃を宿のほとりに、我は秋蚕(しうさん)の匂ひあるなかをさまよひぬ。また室に帰りて怠りて弓臥するに、時はなほ衣手のうすきを喞つに早けれども――。

  ひときはは凩(こがら)ちかきひぢ枕

 また時ありて山雨のわづかにたばしり去るを前庭のひろきに知りぬ。

  楠天(なんてん)の葉うらも白き月夜かな

 (「亞」昭和2年12月)


  落 葉 や ん で

 雌鶏が土を掻く、土を掻いては一歩すざつて、ちよつと小頸を傾ける。時雨模様に曇つた空へ、雄鶏が叫びをあげる。下女は庭の落葉を掻き集めて、白いエプロンの、よく働く下女だ、それに火を放つ。私の部屋は、廊下の前に藤棚があつて、昼も薄暗い。ときどきその落葉が座蒲団の下に入つてゐた。一日、その藤棚がすつかり黄葉を撒いてしまつて、濶然と空を透かしてゐた。

  飴売りや風吹く秋の女竹
  やまふ人の今日鋏する柘榴(ざくろ)かな

 病を養つて伊豆に客なる梶井基次郎君より返書あり、柘榴の句は鋏するのところ、剪定の意なりや収穫の意なりや、弁じ難しとお咎め蒙つた。重ねて、

  一つのみ時雨に赤き柘榴かな

 そして私も、自らの微恙(びやう)の篤からんことを怖れて、あわただしく故郷へ帰つた。そこにも同じ果実が熟してゐた。

  海の藍柘榴日に日に割るるのみ
  冬浅き軍鶏のけづめのよごれかな

 二三度母のお小言を聞いて、そして全く冬になつた。或は家居し、或は海辺をさ迷ひながら。

  冬といふ壁にしづもる棕櫚(しゆろ)の影
  冬といふ日向に鶏の坐りけり

  落葉やんで鶏の眼に海うつるらし

 (「信天翁昭和3年3月)


  池 に 向 へ る 朝 餉

水澄み
ふるとしもなきうすしぐれ
啼く鳥の
鳥のねも日にかはりけり
ひとり居をわびしといはむ
いくたびか
朝餉(あさげ)の箸をやすませて
魚光る眺めてあれば
なほさだかならねど 一日のうれひを感ず
楽しきことを考へよ
かく思ひ 愉(たの)しさにとりすがれども
ひさき魚は水に消え
かなしみばかりしたしけれ

 (「信天翁昭和3年2月、「詩神」昭和5年7月)


  冬 の 日

冬の日 しづかに泪(なみだ)をながしぬ
泪をながせば
山のかたちさへ冴え冴えと澄み
空はさ青に
小さき雲の流れたり
音もなく
人はみなたつきのかたにいそしむを
われが上にも
よきいとなみのあれかしと
かくは願ひ
わが泪ひとりぬぐはれぬ
今は世に
おしなべて
いちじるしきものなく――

 (「信天翁昭和3年3月)


  鴉

 風の早い曇り空に太陽のありかも解らない日の、人けない一すぢの道の上に私は涯しない野原をさまようてゐた。風は四方の地平から私を呼び、私の袖を捉へ裾をめぐり、そしてまたその荒まじい叫び声をどこかへ消してしまふ。その時私はふと枯草の上に捨てられてある一枚の黒い上衣を見つけた。私はまたどこからともなく私に呼びかける声を聞いた。

  ――とまれ!

 私は立ちどまつて周囲に声のありかを探した。私は恐怖を感じた。

  ――お前の着物を脱げ!

 恐怖の中に私は羞恥と微かな憤りを感じながら、余儀なくその命令の言葉に従つた。するとその声はなほ冷やかに、

  ――裸になれ! その上衣を拾つて着よ!

 と、もはや抵抗しがたい威厳を帯びて、草の間から私に命じた。私は惨めな姿に上衣を羽織つて風の中に曝されてゐた。私の心は敗北に用意をした。

  ――飛べ!

 しかし何といふ奇異な、思ひがけない言葉であらう。私は自分の手足を顧みた。手は長い翼になつて両腋に畳まれ、鱗をならべた足は三本の指で石ころを踏んでゐた。私の心はまた服従の用意をした。

  ――飛べ!

 私は促されて土を蹴つた。私の心は急に怒りに満ち溢れ、鋭い悲哀に貫かれて、ただひたすらにこの屈辱の地をあとに、あてもなく一直線に翔(かけ)つていつた。感情が感情に鞭うち、意志が意志に鞭うちながら――。私は永い時間を飛んでゐた。そしてもはや今、あの惨めな敗北からは遠く飛び去つて、翼には疲労を感じ、私の敗北の祝福さるべき希望の空を夢みてゐた。それだのに、ああ! なほその時私の耳に近く聞えたのは、あの執拗な命令の声ではなかつたか。

  ――啼け!

 おお、今こそ私は啼くであらう。

  ――啼け!
  ――よろしい、私は啼く。

 そして、啼きながら私は飛んでゐた。飛びながら私は啼いてゐた。

  ――ああ、ああ、ああ、ああ、
  ――ああ、ああ、ああ、ああ、

 風が吹いてゐた。その風に秋が木葉をまくやうに私は言葉を撒いてゐた。冷めたいものがしきりに頬を流れてゐた。

 (「詩と詩論」昭和4年12月)


  庭

 太陽はまだ暗い倉庫に遮ぎられて、霜の置いた庭は紫いろにひろびろと冷めたい影の底にあつた。その朝私の拾つたものは凍死した一羽の鴉であつた。かたくなな翼を紡錘(つむ)の形にたたむで、灰色の瞼(まぶた)をとぢてゐた。それを抛げてみると、枯れた芝生に落ちてあつけない音をたてた。近づいて見ると、しづかに血を流してゐた。
 晴れてゆく空のどこかから、また鴉の啼くのが聞えた。

 (「文學」昭和4年12月)


  夜

 柝(たく)の音は街の胸壁に沿つて夜どほし規則ただしく響いてゐた。それは幾回となく人人の睡眠の周囲を廻ぐり、遠い地平に夜明けを呼びながら、ますます冴えて鳴り、さまざまの方向に谺(こだま)をかへしてゐた。

 その夜、年若い邏卒は草の間に落ちて眠つてゐる一つの青い星を拾つた。それはひいやりと手のひらに滲み、あたりを蛍光に染めて闇の中に彼の姿を浮ばせた。あやしんで彼が空を仰いだとき、とある星座の鍵がひとところ青い蕾(ボタン)を喪つてほのかに白く霞んでゐた。そこで彼はいそいで睡つてゐる星を深い痲酔から呼びさまし、蛍を放すときのやうな軽い指さきの力でそれを空へと還してやつた。星は眩ゆい光を放ち、初めは大きく揺れながら、やがては一直線に、束の間の夢のやうにもとの座に帰つてしまつた。
 やがて百年が経ち、まもなく千年が経つだらう。そしてこの、この上もない正しい行ひのあとに、しかし二度とは地上に下りてはこないだらうあの星へまで、彼は、悔恨にも似た一条の水脈のやうなものを、あとかたもない虚空の中に永く見まもつてゐた。

 (「文學」昭和4年12月)


  庭

 夕暮とともにどこから来たのか一人の若い男が、木立に隠れて池の中へ空気銃を射つてゐた。水を切る散弾の音が築山のかげで本を読んでゐる私に聞えてきた。波紋の中に白い花菖蒲(あやめ)が咲いてゐた。

 築地の裾を、めあてのない遑(あわた)だしさで急いでくる蝦蟇(がま)の群。その腹は山梔(くちなし)の花のやうに白く、細い疵が斜めに貫いたまま、なほ水掻で一つが一つの背なかを捉へてゐる。そのあとに冷たいものを流して、たとへばあの遠い星へまでもと、悪夢のやうに重たいものを踏んでくる蝦蟇の群。

 瞳をかへした頁の上に、私は古い指紋を見た。私は本を閉ぢて部屋に帰つた。その一日が暮れてしまふまで、私の額の中に散弾が水を切り、白い花菖蒲が揺れてゐた。

 (「亞」昭和2年9月、「文學」昭和4年12月)


  庭

槐(ゑんじゆ)の蔭の教へられた場所へ、私は草の上からぐさりと鶴嘴(つるはし)をたたきこんだ。それから、五分もすると、たやすく私は掘りあてた、私は土まみれの髑髏を掘り出したのである。私は池へ行つてそれを洗つた。私の不注意からできた顳額(こめかみ)の上の疵を、さつきの鶴嘴の手応へを私は後悔してゐた。部屋に帰つて、私はそれをベッドの下に置いた。

 午後、私は雉を射ちに谿へ行つた。還つて見ると、ベッドの脚に水が流れてゐた。私のとりあげた重い玩具の、まだ濡れてゐる眼窩や顳額やの疵に、小さな赤蟻がいそがしく見え隠れしてゐる、それは淡い褐色の、不思議に優雅な城のやうであつた。

 母から手紙が来た。私はそれに返事を書いた。

 (発表誌不詳)


  鳥 語

 私の窓に吊された白い鸚鵡は、その片脚を古い鎖で繋がれた金環(かなわ)のもうすつかり錆びた円周を終日噛りながら、時としてふと、何か気紛れな遠い方角に空虚なものを感じたやうに、いつもきまつて同じ一つの言葉を叫ぶ。

 ――ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。

 実は、それは甲高く発音される仏蘭西語で、J'ai tue'……と云ふだけの、ほんの単純な言葉だから、こんな風に訳したのではすつかり私の空想になつてしまふのである。しかしまたこの私の空想にも理由がある。
 最初私は、私の工夫から試みにそれを J'ai tue'…… le temps と補つて見て、その下で、毎日それを気にもしないで、秩序のない私の読書を続けてゐた。つまり、

 ――キノフモケフモワタシハムダニヒヲスゴス。

 と、さう云つて、彼女は私の窓で無邪気に頸をかしげてゐたのである。そしてそれから後、ある日ふとした会話の機みから初めて、その言葉の不吉な意味を私に暗示したのは、この家の痩せて背の高い女中のローズであつた。薔薇(ローズ)と呼ばれる年とつたその女中は、今私のゐるここの一家の人人と共に、永い年月を、長崎から神戸を経て、こんな風に東京の郊外で住まふやうになるまで、彼女の運命と時間を、主家の住居の一隅でいつも正直に過ごして来たものらしい。
「……けれど、どうも変ですわね。うちの人達はみんな、それを聞くのを、きつと厭やなのに違ひありません。」
 私は、それに就てはもう何も彼女から聞きたくなかつた。ただ新しく、云はばこの家族の隙間に、一室を借りただけの私にとつて、知らぬ他国から遠く移つて来た人達の、その瑣々とした、歴史の永く変遷した昔の出来事の詳しい穿鑿(せんさく)などは、も早や趣味としても好ましくなかつたのである。何故なら、凡そどのやうな事の真実も、所詮は自由なイデエの、私の空想よりも遥かに無力であつたから。

 ―― J'ai tue'……ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。J'ai tue'…… J'ai tue'……。

 それにしても、しかしいつたい何のために、誰が誰を殺したのだらう? それも何時? どこで? どんな風にして? ――よろしい、消え去つた昔のことはどちらでもいい! それよりも先づ第一に、その言葉を信ずるなら、この金環に繋がれてゐる鳥が誰かを殺したのに相違ない。そこで一瞬の間に、私の想像がすぐに奇怪なデサンの織布(しよくふ)を織りあげる。たとへば私はここの主婦にかう云つて尋ねるだらう。
 ――答へて下さい、きつとかうなんでせう。昔、あなたの家のお祖父さまが、あなたの良人(マリ)に仰しやつたのです。どうかお前は、私がゐなくなつたら、もうこの国には住まないで、遠い東の、日本の国へでも行つて暮してお呉れ、この私はもうそんな遠い旅行に耐へられない年齢としになつたが、しかしお前は行つてお呉れ。どうか、それの詳しい理由は訊かないで、私の唯一の頼みだから、もうすぐ私が死んでしまつたなら、早く、私のこの願ひを実行してお呉れ。と、きつとそんな風に仰しやつたのです。あなたの良人マリに。
 ――さうですわ。なくなつた良人のジャンが、いつかそんなことを私に教へました。あなたもまた、それをあのジャンからいつかお聞きになつたのでせうか?
 ――いいえ、私はあなたのジャンを知りません。……そして、それからある日のこと、お祖父さまは朝のベッドの上で、誰も知らない間に冷めたくなつておしまひになつたのです。部屋の中には、何も平生と少しも変つたところがありませんでした。それにたつた一つお祖父さまの枕もとに吊されてあつたあの生きものの鸚鵡だけが、さうでせう、気がついて見ればその朝から、あんなに不吉なことを叫び始めたのです。それでその当座は、どうかしてあれを捨ててしまひたいとも思つて見たのでせうが、破れ靴でさへ捨て場に困るものを、まして生きてゐる鳥の捨て場所もないし、鳥の言葉が単純に、その意味の通り、お祖父さまの生涯を早めたとは、たとへ子供にだつて、素直にさうと信じらるべきことでもなし、その上あんなにお祖父さまは、永い年月の間あの鸚鵡を可愛がつてゐらつしやつたのだから、それは今になつて見れば、あのお祖父さまの思出の、生き残つてゐる唯一のものなんだし、それをこの家から失くすることは誰にも出来ないのでせう。
 ――さうです。それは事実と少しも違つて居りません。あなたの仰しやることは、私にとつても、この家族の誰にとつても、決して嬉しいことではありませんが、私は正直に答へませう。
 たとへこの会話が、私の想像の上であらうとも、私はもうここで、それを打切らなければならない礼儀を知つてゐる。
 事実はあまりに明瞭だ。夜明けに死んだジャンの父は、恐らくその生涯の半ばよりも永い間、誰にも秘密にした言葉を胸に抱いて、そのために不思議なほど無口な生涯を続けてゐたものであらう。そして幾度となく不眠の夜を過ごしたものに違ひない。実に、彼がこの世を去つた日の、その明方に到るまで、彼は予感の、それが最後の夜となりさうなあはれな恐怖に戦きながら、遥かに遠く過ぎ去つた昔の日の、制しがたかつた情熱の、激しい悔恨を繰り返してゐたのに違ひない。そして、その憂鬱の堆積の、一夜の疲労と入り混つて、僅かに慰められたやうに感じられたその明方に、もう窓硝子の白くなつてゐるのに気づかず、ふと彼は、追憶の壊れ落ちる胸から、祈りのやうに、吐息のやうに、心の忘れられない言葉を呟いたのである。すると枕もとから、まだ眠つてゐる筈のこの鸚鵡が、はつきりと、快活な夜明けの声で、その言葉を再び彼の耳に繰り返したのである。

 ――ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。

 然り、今度は鳥の言葉が彼を殺した。そしてこの鳥はそれから後、彼女のかたく繋がれた運命の、もうすつかり錆びた金環の円周の中で、永くその言葉を叫び続けてゐる。私は日に幾度となく、この、嘗ては彼の悔恨であり、今はまた彼女の悔恨であるところの、さう思へば不思議に懐かしい言葉を聞くのである。

 ――ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。

 この言葉は、しかしいつとなくそれを聞く私の心に深く滲み入り、日に日に私の記憶と入り混つて了つた。そしてやがてもう今では、嘗て昔の日に、私が人を殺したのだと、さう云つて、誰かが私の上に罪を露(あば)いたとしても、私は恐らくそれを否定しないであらう。今日も、私の無秩序な読書と、窓に咲き誇るダーリアの上で、鳥はその同じ言葉を繰り返してゐるのである。――君も私の部屋に来て、この鳥の言葉を聞くがいい。もし君にして、人を殺した記憶がなく、なほかつその遠い悔痕が欲しいなら。

 (「詩神」昭和4年12月)


  草 の 上

   ★

野原に出て坐つてゐると、
私はあなたを待つてゐる。
それはさうではないのだが、

たしかな約束でもしたやうに、
私はあなたを待つてゐる。
それはさうではないのだが、

野原に出て坐つてゐると、
私はあなたを待つてゐる。
さうして日影は移るのだが――

   ★

かなかなはどこで啼いてゐる?
林の中で、霧の中で

ダリアは私の腰に
向日葵(ひまはり)は肩の上に

お寺で鐘が鳴る。
乞食が通る。

かなかなはどこで啼いてゐる?
あちらの方で、こちらの方で。

   ★

池のほとりの黄昏(たそがれ)は
手ぶくろ白きひと時なり

草を藉(し)き
静かにもまた坐るべし

古き言葉をさぐれども
遠き心は知りがたし

我が身を惜しと思ふべく
人をかなしと言ふ勿れ

 (「詩と詩論」昭和3年9月)

   ★

鵞鳥は小径を走る。
彼女の影も小径を走る。

鵞鳥は芝生を走る。
彼女の影も芝生を走る。

白い鵞鳥と彼女の影と
走る走る――走る

ああ、鵞鳥は水に身を投げる!

 (「詩と詩論」昭和4年3月)


  僕 は

 さう、さうだ、笛の心は慰まない、如何なる歌の過剰にも、笛の心は慰まない、友よ、この笛を吹くな、この笛はもうならない。僕は、僕はもう疲れてしまつた、僕はもう、僕の歌を歌つてしまつた、この笛を吹くな、この笛はもうならない、――昨日の歌はどこへ行つたか? 追憶は帰つてこない! 春が来た、友よ、君らの歌を歌つて呉れ、君らの歌の、やさしい歌の悲哀で、僕の悲哀を慰めて呉れ。

 昨日の歌はどこへ行つたか? 思出は帰つてこない! 昨日の恋はどこへ行つたか? やさしい少女は帰つてこない! 彼女はどこへ行つたか? 昨日の雲は帰つてこない! ああ、いづこの街の黄昏に、やさしい彼女の会話があるか、彼女の窓の黄昏に、いかなる会話の微笑があるか、僕は、僕はもう知らない、春が来た、友よ、君らの歌を歌つて呉れ、君らの歌の、やさしい歌の悲哀で、僕の悲哀を慰めて呉れ。

 僕は今日、春浅い流れに沿つて、並樹の影を歩いたのだ、空は曇つてゐた、僕は、野景に、遠い畑や火見櫓(ひのみやぐら)を眺めたのだ、森の梢に鶫が光つて飛んでゐた。風に、高圧線が鳴つてゐた。それから、いろいろの悲しい憧憬れが、僕に、僕の頬に、少し泪(なみだ)を流したのだ、僕は、僕は疲れて帰つて来たのだ、僕はもう追憶の行衛を知らない、友よ、春が来た、君らの歌を歌つて呉れ、君らの歌の、やさしい歌の悲哀で、僕の悲哀を慰めて呉れ。

 (「文藝レビュー」昭和4年5月、「詩と詩論」昭和4年12月)


  燕  
   「あそこの電線にあれ燕が
    ドレミハソラシドよ」

 ――毎日こんなにいいお天気だけれど、もうそろそろ私たちの出発も近づいた。午後の風は胸に冷めたいし、この頃の日ぐれの早さは、まるで空の遠くから切ない網を撒かれるやうだ。夕暮の林から蜩(ひぐらし)が、あの鋭い唱歌でかなかなかなかなと歌ふのを聞いてゐると、私は自分の居る場所が解らなくなつてなぜか泪(なみだ)が湧いてくる。
 ――それは毎年誰かの言ひだすことだ。風もなかつたのに、私は昨夜柿の実の落ちる音を聞いた。あんなに大きく見えた入道雲も、もうこの頃では日に日に小さくなつて、ちよつと山の上から覗いたかと思ふと、すぐまたどこかへ急いで消えてしまふ。
 ――私は昨夜稲妻を見ましたわ。稲妻を見たことがある? あれが風や野原をしらぬ間にこんなにつめたくするのでせう。これもそのとき見たのだけれど、夜でも空にはやはり雲があるのね。
 ――あんなちつちやな卵だつたのに、お前も大変もの知りになりましたね。
 ――さあみんな夜は早くから夢を見ないで深くお眠り、そして朝の楽しい心で、一日勇気を喪はずに風を切つて遊び廻らう。帰るのにまた旅は長いのだから。
 ――帰るといふのかしら、去年頃から、私はどうも解らなくなつてしまつた。幾度も海を渡つてゐるうちに、どちらの国で私が生れたのか、記憶がなくなつてしまつたから。
 ――どうか今年の海は、不意に空模様が変つて荒れたりなどしなければいいが。
 ――海つてどんなに大きいの、でも川の方が長いでせう?
 ――もし海の上で疲れてしまつたらどうすればいいのかしら。海は水ばかりなんでせう。そして空と同じやうに、どこにも休むところがないのでせう、横や前から強い風が吹いてきても。
 ――疲れてみんなからだんだん後に遅れて、ひとりぼつちになつてしまつたらどんなに悲しく淋しいだらうな。
 ――いや、心配しなくていいのだ。何も心配するには当らない。海をまだ知らないものは訳もなくそれを飛び越えてしまふのだ。その海がほんとに大きく思へるのは、それはまだお前たちではない。海の上でひとりぼつちになるのは、それはお前たちではないだらう……。けれども何も心配するには当らない。私たちは毎日こんなに楽しく暮してゐるのに、私たちの過ちからでなく起つてくることが、何でそんなに悲しいものか。今までも自然がさうすることは、さうなつてみれば、いつも予め怖れた心配とは随分様子の違つたものだつた。ああ、たとへ海の上でひとりぼつちになるにしても……。

 (「詩と詩論」昭和3年9月)


  鹿

 夕暮れ、狩の獲物が峠を下りてくる。猟師が五六人、犬が六七頭。――それらの列の下りてくる背(うし)ろの、いつとは知らない間にすつかり色の変つた空路(そらぢ)に、昼まから浮んでゐた白い月。
 冬といつても人眼にふれないどこかにちらりほらり椿の花の咲いてゐる、また畑の中に立つた夏蜜柑や朱欒(ざぼん)のその青い実のたわわに枝に憩(やす)んでゐる、この遠い街道に沿つた、村の郵便局の、壁にあるポストの金具を、ちよいと指さきに冷めたく思つたそのあとで、そこを出ると、私は私の前を通るさつきの獲物の、鹿の三頭に行き会つた。
 棒に縛られて舁がれてゆくこの高雅な山の幸(さち)は、まるで童話の中の不仕合せな王子のやうに慎ましく、痛ましい弾傷(たまきず)は見えなかつたけれど、いかめしい角のある首が変なところへ挟まつたまま、背中をまるくして、揺られながら、それは妙な形の胡坐(あぐら)を組んでゐる優しい獣の姿であつた。生気を喪(うしな)つて少しささくれた毛並は、まだしつとりと、あの山に隠れた森と谿間の、幽邃な、冷めたい影や空気に濡れてゐた。

 ――いよう獲れただね。
 ――いやすくなかつただ、たつた三つしきや。
 ――どうだらう今年は?
 ――ゐるにはゐるがね。今日はだいぶ逃がしちまつたよ。

 淋しい風が吹いてゐた。

 その夜、私はこの村に来てゐるあの女小説家のところへ遊びにいつた。メーテルリンクの「沈黙」は何だか怖ろしくて厭やですね、――そんなことを云ひながら、机の上の鏡台をのけて、私は彼女の眉を描(ひ)いた、注意深く。それから彼女は、この鏡台の抽出しから小さな品物をとり出して、これが夜の緑の白粉、これがデリカ・ブロウ、それこんなの、と蓋をとつて、それらの優しい絵具を私に教へた。そこでふと私も、夕暮れ見たあの何か心に残る、不仕合せな王子の街道を運ばれていつた話をした。

 ――あらほんと、鉄砲が欲しいわね。
 ――…………
 ――ね、鉄砲が欲しくない?
 ――ええ、さう……、鉄砲も欲しいですね。

 淋しい風が吹いてゐた。私は、何か不意に遠くにゐる人の許へ帰りたくなつた。

 (「詩と詩論」昭和4年3月)


  昼

 別離の心は反つて不思議に恋の逢瀬に似て、あわただしくほのかに苦がい。行くものはいそいそとして仮そめの勇気を整へ、とどまる者はせんなく煙草を燻ゆらせる束の間に、ふと何かその身の愚かさを知る。
 彼女を乗せた乗合馬車が、風景の遠くの方へ一直線に、彼女と彼女の小さな手携げ行李と、二つの風呂敷包みとを伴れてゆく。それの浅葱のカーテンにさらさらと木洩れ日が流れて滑り、その中を蹄鉄がかはるがはる鮎のやうに光る。ふつと、まるでみんなが、馭者も馬も、たよりない鳥のやうな運命に思はれる。さやうなら、さやうなら、彼女の部屋の水色の窓は、静かに残されて開いてゐる。
 河原に沿うて、並木のある畑の中の街道を、馬車はもう遠く山襞に隠れてしまつた。そして、それはもうすぐ、あのここからは見えない白い橋を、その橋板を朗らかに轟かせて、風の中を渡つて走るだらう。すべてが青く澄み渡つた正午だ。そして、私の前を白い矮鶏(ちやぼ)の一列が石垣にそつて歩いてゐる。ああ時間がこんなにはつきりと見える! 私は侘しくて、紅い林檎を買つた。

 (「詩と詩論」昭和4年3月)

(以上詩集『測量船』前半2/3=28編)


(テキスト底本は筑摩書房三好達治全集 I』昭和39年10月刊を用い、歴史的仮名使いは生かして用字は略字体に改め、廃字の場合はやむなく同義文字で代用し、ルビを補いました。)