人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年10月30日・31日/ルイ・デリュック(Louis Delluc, 1890-1924)のたった4本(後)

 Coffet Integral Louis Delluc PV : https://youtu.be/vkIUGEO-fgw (6:45)

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 ルイ・デリュックの監督作品7作のうちフィルムが失われて今日観ることができないのは、
『黒い煙』Fumee noire (1920年/第1作)
『沈黙』Le Silence (1920年/第2作)
『雷』Le Tonnerre (1921年/第5作)
 の3作で、プリントが現存するのは、
『エルノアへの道』Le Chemin d'Ernoa (1921年/第3作)
『狂熱』Fievre (1921年/第4作)
『さすらいの女』La Femme de nulle part (1922年/第6作)
『洪水』L'Inondation (1924年/第7作) 遺作(歿後公開)、マルセル・レルビエ監修
 の4作です。この4作は英題も定着しており、それぞれ『The Road To Ernoa』『Fever』『The Lady From Nowhere』『The Flood』となっています。原題と微妙にニュアンスが違いますが、映画本編を観るとこの英題の方が内容に即しているといえるでしょう。4作のうち『狂熱』のみ短編に短縮編集された版が過去に日本公開・VHSヴィデオ・リリースされましたが、短編映画は輸入規定では上映登録する必要がないためキネマ旬報の記録にもなく、公開年月日不明となっています。上記邦題は映画史の研究書類で仮に使われている題名ですが、原題では『エルノアへの道』は単に『エルノアの道』で、映画の結末で一旦村を出たヒロインが主人公と帰って行くシーンから採られていますから『The Road To Ernoa』『エルノアへの道』の方が丁寧な題名で、『Fievre』はヒロインの恋人だった船員が停泊先の中国で病に倒れて現地女性に看病され、その中国人女性と現地結婚してヒロインと別れることになる原因となった『Fever (熱病)』と現在ヒロインがおかみに治まっている港町マルセイユの酒場の熱狂を掛けた題名ですから英題の『Fever』はいいとしても、邦題の『狂熱』は酒場の喧騒ばかりを強調した意訳になります。『さすらいの女』は納まりはいい邦題ですが原題を直訳すると『行方のない女』は英題の『The Lady From Nowhere』の方が適切で、これになじむ日本語の表現がないので『さすらいの女』とアントニオーニの映画のような邦題になってしまいます。『洪水』は文字通りの河川の氾濫と映画の実質的な主人公と言える初老の父親の衝動的な激情を掛けてあると思われますが、これは『狂熱』=『高熱(または熱病)』と違って『洪水』で十分でしょう。現存4作品を観て、作品ごとに趣向は変わりますが共同脚本も含めて必ず脚本も手がけるデリュックの作風の一貫性と、共同カメラマンがつくことはありますが現存全作品に起用されたアルフォンス・ギボリーの撮影、デリュックの年上の夫人でもある全作品の主演女優エーヴ・フランシスの演技にはデリュックの映画のトーキー化以前の早逝が惜しまれるような、サイレント時代に限定されない可能性が確かにあると思われました。'20年代前半のフランス映画はフランス印象派映画と呼ばれることが多く、'20年代後半のフランス前衛映画に発展していくのですが、デリュックの作風は一気にそれを飛び越してルネ・クレールに始まり'30年代後半のジュリアン・デュヴィヴィエマルセル・カルネ、また一部の作品でのジャン・ルノワールジャン・グレミヨンらのフランスの「詩的リアリズム」派の映画を予告するような作品になっています。翳を持つ女性を演じるフランシスの役柄、ギボリーの鮮明なロケーション撮影と室内撮影でも陰影を強調した、構図の決まった生々しい映像、台詞・説明字幕を最小限に切り詰めたデリュックの脚本(原作小説による『洪水』以外は原案も映画オリジナルです)のペシミスティックなテーマ性と登場人物の複雑な感情と関係を俳優に誇張させず抑えた演技で表現させる演出と明晰な構成力は、岡田晋氏の評言(前回参照)通り「デリュックは理論家であり組織者であり実践家であった。その病身は激務に耐えられなかったのだろうし、経済的にほとんど恵まれなかったという。だがデリュックは今日もなおフランス映画を語る時、必ず第一に出て来る名前である。イメージの美しさ、心理主義、日常的なリアリズム、これらフランス映画のスタイルは、いずれも彼の主張にほかならない」という評価の適切さを感じさせます。ルイ・フィヤード、アベル・ガンス、マルセル・レルビエらデリュックの出現以前の大家たちのドラマチックな虚構性に学びながらデリュックはもっと日常的なドラマに目を向け、プロットやストーリーよりも人物や景物を映し出す映像そのものに映画を語らしめることに意を払って、スペクタクルでもスリラーでもメロドラマでもない映画に初めて成功した映画作家のひとりでした。あまりに淡泊でスケールの小さく、ドラマチックな訴求力が稀薄な作風のためにデリュックの箇々の作品自体は古典として残らず、生前も歿後も観客を集めずほとんど観られていない映画作家ですが、その美点だけはフランス映画の源流として語り継がれるだけの価値がありました。現存作品4作とも短く、DVD版全集(前回紹介、上記リンク参照)では4作が2枚のDVDに収められていますが、2015年発売のこの画期的な全集もほとんど話題にならず観られていないでしょう。今後再評価があるかもわからないマイナー・ポエットの典型のような人ですが、『新学期・操行ゼロ』'33、『アタラント号』'34の夭逝の監督ジャン・ヴィゴ(1905-1934)の高い再評価(現在ではこの2作は映画史ベストテン投票に必ず上がる作品です)と較べると、敬遠されがちなサイレント時代の映画作家なのも損をしているとしか思えないのです。

●10月30日(月)
『さすらいの女』(フェリックス・ジュヴン・プロダクション'22/7/22)*67min, B/W, Silent with Sound : https://youtu.be/AuwqTjrIsVI (Extrait, 3:33)

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○あらすじ イタリアのジェノヴァ近郊に構えた別荘で過ごすフランス人家庭の若い妻(ジーン・アヴリル)、乳母(ノエーミ・シーズ)と一人息子の幼児(デニーズ)が昼食を済ませ、これからジェノヴァに急な所用を済ませに一晩泊まりに出かける一家の主人(ロジェ・カール)を見送ろうとしていると、昔この別荘にすんでいた、という旅の女(エーヴ・フランシス)が訪ねてくる。懐かしいので別荘を見せていただけませんか、という頼みを夫婦は快諾し、それならば泊まっていくように勧める。女は喜ぶが、年輩の主人が車で発ってすぐに若い妻が門の石段の下から手紙を見つけ出したのを窓から見て、自分が訪ねてくるのと入れ違いに石段に手紙を隠した若い男(アンドレ・ダヴェン)と若い妻の関係を察する。かつて自分自身も愛人(ミシェル・デュラン)と駆け落ちし、今や一人で放浪の身になった経緯が蘇り、女は妻に私のようになってはいけない、と説得しに行く。夕方、旅の女は近くの公園に出かけて思い出にふけり、若い妻は愛人と逢い引きして明朝の駆け落ちを迫られる。旅の女はその光景を目撃し、甘美な思い出に駆られる。一方ジェノヴァの酒場では仕事を終えた夫が喧騒に眉をひそめ、町の女の誘惑に遭うが撥ね退ける。……翌朝、旅の女は一転して、駆け落ちして愛に生きることを若い妻に勧める。若い妻は後押しされて待ち合わせに出かけようとするが、乳母に抱かれた幼児が母を追おうと腕からすり抜けて落ち、母親を大声で呼ぶ。若い妻は引き返して幼児を抱きしめ、ちょうど年輩の夫も帰ってくる。旅の女は窓から一家を見てこの夫婦の愛にも深く納得するが、ふとわれに返り自分には何もない、と痛切な思いがこみあげる。若い愛人は諦めて約束場所から車で去り、旅の女は再びスーツケースを下げて道を一人、歩き去って行く。

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 デリュックの現存作品4作の中では『狂熱』と並んでもっとも評価の高い作品。フランス語版ウィキペディアには4作とも個別に解説項目がありますが(うち『洪水』はデータのみ)、英語版ウィキペディアでは個別の項目で解説があるのは本作だけになります。デリュックの作品は実際にはほとんど観られていないので一部の映画史家による評価以外には目安となる評価がないという事情もありますが、キネマ旬報社刊の『フランス映画史』(昭和50年、岡田晋・田山力哉著)でもデリュックの優れた作品は『狂熱』と本作の2作とされており、この評価は昭和50年(1975年)の時点では仕方ないでしょう。当時『エルノアへの道』は現存する上映プリントがシネマテーク・フランセーズにしかなく、『洪水』は後述の理由で1979年までシネマテーク・フランセーズにすら欠損版しか所蔵されていなかったので上映されることもめったになかったと思われるからです。2015年のDVD全集の発売まで『狂熱』すら28分の短縮編集版でインタータイトルがすべて削除された版の方が広く流通しており、45分の(インタータイトルを含む)完全版はやはりめったに観ることができませんでした。『狂熱』がインタータイトルの効果的な使用に特徴がある作品ということも広く知られておらず、かえって無字幕サイレント映画として珍重されていたのです。本作を観ると文筆家としても十数冊の著書があり、小説も数冊書いているデリュックの脚本の巧みさがわかります。1922年の時点でこれほどの映画表現の達成を見せているのは注目されて良く、サイレント映画独特の音声を伴わない表現は、特に時間処理や場面転換の手法についてサイレント映画の観賞に慣れない観客には一見して何が語られているのか、なぜこういう話法が採られているのか、どういう効果をもたらしているのか直観的に理解できない箇所もあるかもしれません。『エルノアへの道』で多用されたアイリス・イン~アウト、完全版『狂熱』のインタータイトルの独自の手法などに顕著ですが、本作では『エルノアへの道』のアイリス使用、『狂熱』の特異なインタータイトル用法は踏襲せず、ストレートなカットつなぎで平行話法、多重視点、現在と過去との回想場面による対比を実行しています(1箇所だけオーヴァーラップ効果の使用があり、オーヴァーラップの多用はサイレント時代に頻繁だった手法ですからむしろ1箇所だけの使用というのが珍しいのです)。この作品はほとんどイタリアの別荘だけを舞台にしており、例外的に別荘近所の公園、夫(ロジェ・カール)が出張したジェノヴァの酒場のシーンがあり、これは若い妻の愛人(アンドレ・ダヴェン)との逢い引きと一人きりになった夫の対比であり、クライマックス前の伏線になっていて、同一の場所で過去と現在に二人のヒロインが同一シチュエーション(愛人との駆け落ち)に遭う、という本作の基本アイディアに収斂していきます。過去に駆け落ちして悲惨な末路をたどった女(エーヴ・フランシス)は放浪者となり、現在の若い妻(ジーン・アヴリル)は駆け落ちを思いとどまり放浪者の女を安堵させもし、自分自身のすべてを失った身の上を痛感させることにもなります。若い妻にとっても幼い息子と自分を愛する年輩の夫を一度は捨てようとしていたわけで、単純なハッピーエンドとは言えず、若い愛人とはこれが最後の機会だったのが暗示されています。若い妻に一度はおもいとどまるよう忠告した旅の女が、逢い引きの現場を目撃して一晩明けると若い妻に愛に身を任せて駆け落ちを勧めるのも一見唐突ですが、その時に旅の女には人生の絶頂だった駆け落ちの時の高揚と生命の充実感が蘇っていたわけで、しばしば挟まれる過去の愛人(ミシェル・デュラン)との睦みあいの回想が徐々に旅の女の心境を今、同じ決断をしようとしている若い妻に重ねていくのです。本作もアルフォンス・ギボリーの優れた撮影が共同カメラマンのジョルジェ・ルカとの分担とともに光り、実際の建物を撮したロケーション撮影が素晴らしいのは『エルノアへの道』からの連続性を感じさせ、また二人のヒロインが微妙なやり取りを通して徐々に同一化していく過程(この着想はベルイマンの『仮面/ペルソナ』'66を連想させます)を見事に決まった構図で表現しています。またフィヤード、ガンス、レルビエらとも異なるのは説明のためのインタータイトル(小説における地の文)をほとんど排し、簡潔な会話インタータイトル(ディアローグ)だけで進めていく構成法を採っており、これも解説的インタータイトル(ナラタージュ)で物語を進めるのが常套手段だったフランスの劇映画の大勢からすると画期的でした。地平線まで何もない一本道を旅装にスーツケースを下げてさまよい歩いていくフランシスの姿をとらえた映像が印象的です。港の酒場の数時間の出来事を描いた『狂熱』に応用されたフランス古典演劇の三一致法(時、場所、筋の統一)が本作では別荘の一昼夜に変奏されていますが、まったく違った印象を受けるのは同じ愛情生活の転機に遭遇した二人のヒロインのそれぞれの運命が正反対の選択に遭う、という同一モチーフの対比に比重を移していることでしょう。情感の豊さを認めた上であまりに理詰めな構成という無い物ねだりな感想を抱かせられるきらいもないではありませんが、本作をしてもデリュックがアベル・ガンス、マルセル・レルビエのようなサイレント期フランス映画の巨匠の陰に隠れていたのはガンスの『戦争と平和』'19、『鉄路の白薔薇』'23、『ナポレオン』'27やレルビエの『エル・ドラドオ』'21、『人でなしの女』'23、『生けるパスカル』'25、『金』'28のような途方もない大規模な映画的フィクションの想像力のインパクトには叶わず(デリュック自身はガンスとレルビエに心酔して尊敬していました。『エル・ドラドオ』は主演女優エーヴ・フランシスの出世作でもあります)、当時にあってはデリュックの作風はフランス映画の主流ではなく、むしろシェーストレムやドライヤーらのスウェーデンデンマーク映画、ドイツ映画の心理主義的傾向を、アメリカ映画のホームドラマ、恋愛映画や人情劇の簡潔な表現手法をフィルターにしてデリュック自身のセンスによって生み出されたものでした。そうしたデリュックの作風が、作品の直接影響ではなくても映画のトーキー化も定着し成熟した'30年代後半以降のフランス映画の主流につながるものだったのは皮肉な気がします。

●10月31日(火)
『洪水』(シネグラフィック'24/5/9)*88min, B/W, Silent with Sound : https://youtu.be/FilZCSvTQj8 (Extrait, 5:08)

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○あらすじ プロヴァンス地方の、とりわけ川幅が広いローヌ川沿いのある村では、村じゅうに昼となく夜となく川の流れが響いている。農場主の青年アルバン(フィリッペ・エリアト)は恋人の気丈な美人マルゴ(ジネット・マデュー)と結婚する準備をしていた。一方、村役場の冴えない初老の小間使いブローク(エドモン・ヴァン・ダエル)は、まだ幼い頃に別れた妻が連れて行った娘で、身寄りを亡くして都会から父を頼りに訪ねてきたジェルメーヌ(エーヴ・フランシス)と再会する。病弱で生活に疲れたジェルメーヌは父のもとに身を寄せても打ちひしがれていたが、アルバンに出会って恋に落ち、村に来て初めて生気を取り戻す。アルバンとジェルメーヌの噂はすぐに村中に広がり、ブロークは娘の恋の成就を願うが、アルバンはマルゴに弁明しようとして街中で手酷く嘲笑され、婚約破棄を宣告される。アルバンへの恋に希望を失くしたジェルメーヌは再び病の床に伏せ、看病するブロークは絶望に沈む。その夜、川の洪水が突然村を襲ってマルゴが行方不明になり、やがて遺体が川から引き揚げられる。マルゴの母(クレール・プレーリア)は娘は殺されたと主張し、アルバンが殺した噂が村に広がる。ジェルメーヌは父から洪水の晩にマルゴが一人で土手の高台を歩いているのを見たと聞いて安心し、村長に報告してと頼む。ブロークは村長に報告するが、アルバンの仕業だろと軽くあしらわれる。証拠はないので事故か自殺か殺人かも判明せず、犯人は誰も上げられない。ジェルメーヌは再び父に問い、ブロークは確かにマルゴが洪水の晩に歩いているのを見た、だが一人ではなかった、と打ち明ける。誰なの、と尋ねるジェルメーヌに、ブロークは自分の胸を指さす。土手の高台で洪水の様子を見ていたマルゴをブロークが背後から突き落としたのだった。アルバンがジェルメーヌの見舞いに訪ねてくる。ブロークは家の戸口に立ち、通りかかった警官に洪水の晩のマルゴの目撃証言をしたいと申し出て、警官に添われて去って行く。ジェルメーヌはアルバンに事情を話し、アルバンは二人であの人を助けようとジェルメーヌに約束する。

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 本作は現存作品でもデリュック作品中もっとも復原の遅れた遺作で、1961年にシネマテーク・フランセーズに収められた時には3巻目のリールが欠落していましたが、長年の調査の結果1979年に欠落部分を含む全長版が16mmフィルムで発見され、欠落部分を35mmにデュープして完全版が復原された経緯があります。つまり1979年以前に書かれた映画史書の著者は封切り当時観たのでなければ巻頭20数分目~約12分間が欠落したプリントしか観ることができなかったということです。本作はアンドレ・コルティス(1882-1952)の原作小説を脚色した、デリュックの現存作品4作中で唯一の原作ものでもあり、アルフォンス・ギボリー単独撮影によるデリュック唯一の現存作品です。『エルノアへの道』『狂熱』『さすらいの女』はギボリーともう一名のカメラマンの分担撮影でした。一人で映画全編を任されて、ギボリーはデリュック作品でも最高の撮影をしています。カメラマンは技術的センスから映画を学んでいるのか、当時最新で最高の撮影技法を誇ったスカンジナヴィア映画のロー・キーのトーンやドイツ映画の特殊な室内照明に感化されて、直接それらからの模倣ではない独自の統一感と多彩な要素の対比がある映像を実現しました。また本作は過酷な冬のローヌ川でのロケーション撮影がたたって撮影完了後、デリュックを肺炎で早逝させる原因になった作品です。フィルムはマルセル・レルビエの監修のもと、スタッフによって完成作品に編集されました。88分というデリュック作品最長の長さになったのはそういう事情もあるでしょう。インタータイトルは原稿が脚本に完成していたでしょうが、厳密なモンタージュは監督自身がフィルム編集者の仕上げた作業をチェックするもので、本作は主に前半が冗長な印象は拭えません。デリュック自身が完成作品の編集にまで立ち会ったら何割か短く凝縮したモンタージュに改められていたのではないか、と思われる、おそらく決定保留で数パターンが撮られたであろう似たようなカットが散見されますが、スタッフもレルビエも故人の撮ったカットをなるべく棄てたくなかったのでしょう。本作の主人公は表向き農園主の青年アルバン(フィリッペ・エリアト)ですし、キャストの序列ではジェルメーヌ役のエーヴ・フランシスが主演女優で、アルバンの恋人マルゴ(ジネット・マデュー)は順位からは助演ですが、本作の真の主人公は村役場の冴えない小間使い役で、若い頃に娘ジェルメーヌを連れて妻に家出されて20数年経つ初老の独身者ブロークでしょう。ブローク役のエドモン・ヴァン・ダエルは『狂熱』ではエーヴ・フランシスの酒場のおかみの元恋人だった船員役で、前回は元恋人、今回は父娘と序盤では心配になりますが長い間男やもめ同然の生活をしてきた初老の男の哀感をよく感じさせる名演で、このヴァン・ダエルの名演が映画をデリュック作品中もっとも重厚で線の太い、筋の通った作品にしています。現代でもそうですが、老人を主人公にした映画は企画が通りづらく、映画そのものが若かったサイレント時代にはなおのことです。やはりホテルの老ドアボーイが解雇を宣告されて絶望しつつ最後の勤務日を送る無字幕映画の画期的作品『最後の人』'24(ドイツ、F・W・ムルナウ)を連想しますが、公開時期から考えてもデリュック歿後ですし、ムルナウはすでに国際的大監督でしたから企画を耳にしていた可能性はあるにせよ『洪水』との関連はない、と考えるのが妥当でしょう。アルバンとマルゴの恋は本筋からはほんの序章で、これは実際に村の協賛があって撮影されたそうですから恋人たちをダシにした村の観光案内的シークエンスが冒頭かなり長く続きます。デリュックが編集していたらもっと刈り込んでいただろうと思われるシークエンスです。村役場で役立たず扱いされているブロークの様子、またブロークとマルゴの街角での立ち話なども序章部分で描かれます。映画がようやく動き始めるのは、前作『さすらいの女』からそのままやってきたような放浪者の女ジェルメーヌが列車から降りて父の家を探し始めてからです。病弱な上に空腹と疲労でジェルメーヌは足取りも危うく村をさまよいます。偶然通りかかって助けたのがブローク、という偶然はこの際良しとしましょう。ブロークが覚えているのはまだ3歳くらいの幼女だったジェルメーヌですが、幼い娘を抱いて遊び相手になった頃の幸福感がブロークの胸に蘇ります。その後の顛末はあらすじにまとめた通りですが、マルゴが洪水の晩に行方不明になり溺死体が引き揚げられるのは映画の1時間過ぎで、後半25分あまりは村に広がる猜疑心とブロークとジュルメーヌの父娘の沈み込んだやり取りになります。マルゴの死も気の毒ですが、ジェルメーヌの気がかりは本当にアルバンが殺したのではないのか(直前に街中でアルバンを手酷く嘲笑し、婚約破棄を宣告するマルゴを村の人々の多くが目撃しています)、もしアルバンがマルゴを手にかけたならアルバンへの恋心を打ち明けた自分にも責任があるのではないか、ということです。ブロークはジェルメーヌをなだめるとともに深く沈みこみますが、この父娘のシークエンスも予備テイクも撮影されて内容が重複しているのか、重要な場面ですが冒頭ほどではないにせよやや冗漫で、デリュックが完成させていたらやはりもっと刈り込んだだろうと思われます。村長を訪ねて自殺か事故につながるマルゴの目撃証言をするブロークを、どうせアルバンの仕業だろと一蹴して夕食の続きに戻る村長も大らかですが(証拠がない以上疑うは罰せず、という村民代表の意見を村長に代表させたわけです)、ついに村人たちのアルバンへの疑惑に耐えかねてジェルメーヌに自分の衝動的犯行をブロークが告白するシークエンスは固定ショットで父娘が座り、フラッシュバックで犯行の状景が挿入されるきりですがスリリングです。アルバンがジェルメーヌを見舞いに来るのと通りかかった警官に証言がある、と申し出て警官とともに去っていくブローク、ジェルメーヌのかいつまんだ説明に(こういう箇所には台詞インタータイトルは入らず、訴えかける仕草の映像だけで観客に理解させています)アルバンが「二人であの人を助けよう」(台詞インタータイトル)そして寄り添うアルバンとジェルメーヌの姿で終わる終盤の流れは流麗で、撮影台本で編集プランまで指定されていたのでしょう。本作は不運なフィルムの運命(それでも完全に失われた3作よりはましですが)も重なり、デリュックが編集まで完成させていたらと惜しまれる内容で、歿後編集のためおそらく撮影テイクをなるべく多く生かそうとしたのでしょう。デリュック自身が手がければ2割前後は圧縮された作品になっていたと思われ、それだけが瑕瑾になっていますが監督急逝の事情であれば仕方ないでしょう。もっと以前から完全版プリントが復原されていたら、『狂熱』『さすらいの女』よりも高く評価されていてもおかしくない作品です。