人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2016年12月16日~20日/アルバトロス映画社の映画

(米Flicker Alley社『アルバトロス社作品集』5DVD, 2013)

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 アルバトロス映画社は1917年のロシア革命により1920年前後にフランスに亡命した上流階級や貴族階級の旧ロシア映画人によって設立された映画プロダクションです。プロデューサーのアレクサンドル・カメンカの下に革命前のロシア映画の大家アレクサンドル・ヴォルコフ(監督・脚本)、イワン・モジューヒン(俳優・演出・脚本)、ナタリー・リセンコ(女優)ら亡命前にすでに国際的スターになっていたスタッフ、キャストを専属に発足し、アルバトロス第1作のヴォルコフ監督、モジューヒン主演の連作長編『秘密の家』1920~1922は全長6時間半の大作かつ大ヒットを記録しました。翌年のモジューヒン監督・原作・脚本・主演作『火花する恋』、ヴォルコフ監督・脚本(モジューヒン共作)・モジューヒンとリセンコ主演の『キイン』は『秘密の家』以上の話題作となり、技法においてもスケールにおいても当時のアメリカ、ソヴィエト、ドイツ、イタリアら映画先進国の水準を抜いた作品となります。
翌'24年からはアルバトロス社はフランスの気鋭の監督を迎えるようになり、ジャン・エプスタン、マルセル・レルビエ、ジャック・フェデーの監督作品を制作しますが、これはモジューヒンがハリウッドに、ヴォルコフがドイツに進出して発足時のロシア映画人が独立していったことにもよります。アルバトロス社は制作本数こそ減りながらも'30年代いっぱいまで活動し、ルネ・クレールの『イタリア麦の帽子』'28、ジャン・ルノワールの『どん底』'36もアルバトロス社の制作です。
(仏Potemkine社『ジャン・エプスタン-アルバトロス社作品集』3DVD)

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 アルバトロス社の映画が今日あまり顧みられないのは大予算を投じた大時代な絢爛豪華な伝奇ロマンスとメロドラマが主流だったこともありますが、決して形式的で空疎ではなく濃密な激情に裏打ちされたものでしたから十分に内容を備えたものであり、さらに技法的な突出では映画史に特筆されるものでした。それは1910年代に萌芽があったロシア映画モンタージュ技法を更に発展させたもので、撮影面でもアメリカの'20年代半ばまで多用されていたようなマスキング(アイリス)によるクローズ・アップ効果ではなく、フル・フレームでの極端なクローズ・アップが用いられる他、ロングの構図ではいち早くパン・フォーカスを意図した、高い撮影技術が実践されています。
またフラッシュ・バック、フラッシュ・フォーワードが多用され、多くはオーヴァーラップですが、サイレント末期のジャック・フェデー作品ではオーヴァーラップなしのフラッシュ・バック/フラッシュ・フォーワードというトーキーへの過渡的スタイルに移行している点でも先進的なものでした。
題材(上流階級)を舞台にした豪華な大セット、膨大なエキストラを動員した大作感を基本とする一方、美しい風景や自然をとらえた、生活感のある身近なロケーション場面とのバランスも常に配慮されており、今日ではむしろロケーション撮影シーンの方が製作当時のフランスの空気感を伝えています。
1920年代のフランス映画をアルバトロス社の映画だけで語ることはできませんが、作品がもっとも充実し、同時代的な成功も納めた点で同社の功績は永く記憶されるに値するものでしょう。今回観た8本でも半数の4本が大正末~昭和初頭の当時即座に日本公開され、高い評価と影響力、ヒット実績を誇った作品なのが知られています。伝説的映画プロダクションの名作の数々と思うと鑑賞にも身が入るというものです。


12月16日(金)

イワン・モジューヒン(1889-1939)『火花する恋』(フランス'23)*113mins, Silent, B/W

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・パリ暮らしの南米富豪の夫人(ナタリー・リセンコ)が夜な夜な見る謎の男の夢。夫人の奇行が目立ち始めるとともに重要書類が盗難にあい、富豪の夫は偶然知遇を得たパリの裏社会に通じる秘密探偵Z(モジューヒン)に解決を依頼するが、Zこそ夫人の夢に現れた運命の恋人だった……という荒唐無稽なファンタジーだが、祖国喪失者であるキャストとスタッフならではの自意識が反映したようなナルシスティックな耽美性がある。モジューヒン演出も堂々としたもので自作自演だけに演技の限りを尽くし、ジャン・ルノワールが映画に目覚めた作品に本作を上げるだけの強引な説得力がある。技法的にも極端で顔面半分だけ、目だけ、口もとだけのクローズ・アップ、それらに重なるオーヴァー・ラップとフラッシュ・バックは実験的ですらある。日本では『キイン』の公開・ヒット後に公開されて好評を博したらしい。

アレクサンドル・ヴォルコフ(1885-1942)『キイン』(フランス'23)*140mins, Silent, B/W

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・サイレント期の映画でも屈指の傑作とされる一作。大デュマ原作、18世紀の伝説的シェークスピア俳優エドマンド・キーン晩年の悲劇的恋愛を描く。それを当代最高のロシア系映画俳優モジューヒンが演じるのだから一種メタ映画というか、映画の進行に従って映画による俳優論の趣を成してくる。同時期にアベル・ガンス鉄路の白薔薇』が足かけ4年かけて制作されており、本作はロシア映画由来の技法をガンスからの影響と折衷し過激化したもの(後にヴォルコフはガンスのライフワーク『ナポレオン』の分担監督を勤める)。フラッシュ・バックやオーヴァー・ラップ技法の効果的で洗練された消化はガンス影響下のフランス人監督(レルビエ、ルイ・デリュック、エプスタン)らを'23年時点では凌ぐ。ヴォルコフ演出、モジューヒン&リセンコ主演の濃厚な情感は現実にはソヴィエト成立により水泡と化した'20年代ロシア映画の実現を異国フランスで叶えるしかなかった疎外感にも依るかもしれない。本作は全欧、日本で高く評価されヒットしたのみならず歴史的題材なので政治的な抵触はなくソヴィエトでも公開されヒット作となったらしい。今回観たアルバトロス社の8作品中最大ヒット作の本作だけがオリジナル・ネガが現存せず(他7作はオリジナル・ネガからレストアDVD用マスターが製作された)、良好な上映用ポジ・プリントからDVD化されたため画質がやや落ちる。ヒットしたために原盤行方不明、というのは皮肉だが映画では珍しくない。


12月17日(土)

ジャン・エプスタン(1897-1953)『蒙古の獅子』(フランス'24)*100mins, Silent, B/W

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・アルバトロス社が起用した初のフランスご当地の監督が前年に抒情的な佳作『まごころ』を含む4作品でデビューした映画理論・批評家で監督のエプスタンだった。専制政治下のチベットから亡命した青年(モジューヒン)が映画女優(リセンコ)と知りあって映画スターになり、やがて二人は幼い頃に生き別れになった王位継承者の姉弟と判明する伝奇ドラマで、モジューヒン原作。要するにモジューヒン自身の経歴を寓意化している。初期エプスタンの庶民的抒情とはまるでミスマッチだが、生真面目なエプスタンらしくエゴイスティックな演技が目立つモジューヒン=リセンコ主演を伝奇ドラマの枠組みで自然に生かし、技法過剰な面は控え目にそつなくまとめ上げた。モジューヒン人気でヒットしたそうだから当時の観客の厚い支持がわかる。また、フランス映画のモンタージュアメリカ映画やソヴィエト映画のような同時性よりも発想の根底が時間性(異なる時間の重ね合わせ)にある、というのがエプスタンに代表されるサイレント期の方法で、先駆者アベル・ガンス(1889-1981)のモンタージュが累積的発想を限界まで押し進めたものだとすると、ガンスの限界を早い時期から見抜いてもっと汎用性のある技法に改変したようにも見える。

ジャン・エプスタン『二重の愛』(フランス'25)*105mins, Silent, B/W

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・エプスタンの妹マリーのオリジナル・シナリオ。ギャンブル破産でアメリカに送られた上流階級の青年は妊娠中の声楽家の恋人(リセンコ)と離ればなれになっていたが、10数年後石油富豪になって帰国する。一方母親の元で暮らす息子はギャンブルで破産し、カジノから盗んだ金を元手に挽回しようとするが紙幣番号が控えられて逮捕され、偶然盗難紙幣を配当金に受け取った父親は息子を庇うために、元の恋人への贖罪感から紙幣の盗難を認めるのだった。ほぼ全編がカジノ、音楽ホール、母子家庭の居間のセット内の撮影でリセンコ以外のフランス人キャストが上流階級らしい豪勢さをうまく演じており、モジューヒン出演作ではないためリセンコもナルシスティックな強引さは強くない。エプスタンの演出は端正でモジューヒンやヴォルコフの作品ほど強烈ではないが、丁寧で手堅い仕上がりはロシア出身監督にはない落ち着きがある。『蒙古の獅子』『二重の愛』はつい最近観たので二度目の鑑賞だが、アルバトロス社の枠組みで『火花する恋』『キイン』と並べて観るとだいぶ印象が変わって見える。


12月18日(日)

ジャン・エプスタン『ロベール・マケールの冒険』(フランス'25)*200mins, Silent, B/W

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・エプスタンの4作あるアルバトロス映画(あと1本は『ポスター』)のうち最後で最長のもの。3時間20分!の大作で19世紀前半の有名な義賊ものの大衆小説が原作。約20年に渡る時間時間経過で恋人との別れ、仲間の裏切り、入獄、亡き恋人の忘れ形見の娘(主人公の娘でもある)との再会と救出、といった内容が40分5パートで手際良く分割され、長さを感じずにすらすら観られる。ただ『蒙古の~』『二重の~』でもそうだが、フランスのサイレント映画はストーリーを要約する字幕が長いのが欠点で、モジューヒンやヴォルコフの簡潔な会話字幕の方がアメリカ映画的な伝達効率を達成している。本作は比較的ストーリー字幕は控えて会話字幕のみで進めているが、フランス人なら誰でも知っている話だからか説明不足が目立つ。それを除けば、大半田舎の田園風景のロケ撮影の本作は本作にしかないおおらかな魅力があり、例えば188分の『天井桟敷の人々』'45よりずっと映画の楽しさがあるように思える。


12月19日(月)

マルセル・レルビエ(1890-1979)『生けるパスカル』(フランス'25)*171mins, Silent, B/W

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・アルバトロス社の誇る映画史的2大傑作は『キイン』とこれになる。シネ・グラフィック社との共同制作で、イタリアの劇作家・小説家ルイジ・ピランデルロ(1967-1936/1934年ノーベル文学賞受賞)の長編小説『故マティーア・パスカル氏』'04をレルビエ自身が脚色。これを最後にハリウッドに渡るモジューヒンが主演、これまでにない抑制された演技は寡黙な雄弁さを感じさせ、シリアス・ドラマに迷い込んだバスター・キートンのような存在感がある。失意の男が旅に出て数年ぶりに帰宅してみたら自分は死んだことになっていて妻は親友と再婚、家庭生活は幸せそうで赤ん坊までいた……というのは『イノック・アーデン』だが、基本的な話は同じ。ただ細部の設定やストーリー、ヴィジュアル・イメージはカフカ的な不条理感に満ちていて、ピランデルロ自身が19世紀的リアリズムの解体から出発したのでカフカを先取りしているのはおかしくない。レルビエはガンスに次ぐサイレント期の巨匠だが、映画の長さもガンス並みの大作主義者で家出男のホーム・ドラマを2時間50分かけて描いている。アメリカ映画ならこの半分以下で済ませる内容で、その点フランス映画は盛り沢山の内容を圧縮して観せるアメリカ映画と逆にシンプルな内容を引き延ばせるだけ引き延ばすのがサイレント期の指向性だった。アルバトロス社の映画がサイレントとしてはどれも長めの作品なのも例証になる。ただしこの方向性は商業的には効率が悪い上に、トーキーの出現で無効になってしまった。


12月20日(火)

ジャック・フェデー(1885-1948)『グリビシュ』(フランス'26)*112mins, Silent, B/W

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・フェデー初のコメディでアルバトロス社への初作。母子家庭の少年グリビシュが慈善事業家の富豪婦人(フランソワーズ・ロゼー)の落とした財布を拾って渡す。富豪婦人は少年を引き取って十分に教育し上流階級の紳士に育て上げようとする。富豪婦人が会う人ごとに少年を引き取った経緯を誇張して吹聴する美談が一々映像化されるのが可笑しい。ロゼーの映画初出演、サイレント期フェデーの常連子役の少年の演技の伸び伸びした自然さ、アメリカ映画以上に簡潔な会話字幕(字幕に依存しないのはフェデーが一国に安住しない映画監督だったのが大きいだろう)で音声を吹き込めばそのままトーキーになりそうな演出の洗練はサイレント期のエルンスト・ルビッチに匹敵する。室内セット撮影と屋外ロケ撮影のバランスがとれており映画の風通しも良い。現存オリジナル・ネガは一部欠損しているらしいがまったく気にならない。本作は好評だったが2時間45分の次作『カルメン』は興行的惨敗、フェデーはドイツに渡って『テレーズ・ラカン』を撮り好評を博したあと、ハリウッドに渡る前にもう1本アルバトロス社に作品を残す。

ジャック・フェデー『成金紳士たち』(フランス'28)*135mins, Silent, B/W

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・初老の穏健派中堅議員と急進派の青年議員の政治的浮き沈みを、その二人とは等距離で交際している美人ダンサーとの恋のかけひきを絡めて描く。公開直前になって風俗紊乱映画の角で警視庁から上映禁止を命じられ、1929年4月にようやく解禁されたが当時は酷評され、観客動員数も惨敗した。共同脚本はシャルル・スパーク、当時19歳のマルセル・カルネが助監督を勤めたことでも知られる。現在ではフランス20年代映画最高の知的(Wittest)コメディ(次点はルネ・クレール『イタリア麦の帽子』アルバトロス社'28)と高く評価されるが、字幕の排除から本当にトーキー寸前の演出になっていて微妙なカメラワークやカット割り、ほとんどパン・フォーカスで1シーン1カットを狙った場面など気が抜けず、ウィットという言葉に含まれるはずのリラクゼーションとはほど遠い緊張感を強いられる。これを楽しく観られるには最低2回は観直さなければ無理そうで、敷居の高さには公開当時の酷評も不入りも頷ける。『グリビシュ』も本作ともシナリオ内容は社会改良提唱者への皮肉、保守反動的立場の擁護なのがどこまで脚本も手がけるフェデーの本音か、本音のふりをした二重の皮肉か俄かには断定できないのも悩ましい。『グリビシュ』のハッピーエンドは一応明快だが、本作のハッピーエンドは形式的にもハッピーエンドの体をなしていないどころか、映画自体が途中で終わってしまったような居心地悪さがある。